Ⅸ   噂と街



 退院してから4日目。兄との約束では、あと3日以内に俺は今後の身の振り方を決めなければいけないことになっている。
はっきりとは口にしなかったが、兄は俺に大学を中退して実家に戻れと言いたいのだと思う。重大な障害を負った子供を持つ
両親や兄の気持ちを考えれば、至極まっとうな言い分だろう。
 それでも、今の状況でこの街を出ることは何としても避けたかった。何といっても、俺が自由に動くことが出来るのは
この街だけなのだ。加嶋 霧子の件が納得出来るまで、梃子(てこ)でも動かないつもりだ。
 いずれにしろ、急ぐに越したことはない。俺は携帯の画面を操作して邑上の電話番号を呼び出す。今では見ることもない
黒電話のマークのついたボタンをプッシュすると、数秒の呼び出し音の後に聞きなれたいつもの声とは少し違って聞こえる
悪友の声がスピーカーから流れてきた。



 携帯の通話を切って、それをお気に入りの黒いジャンパーのポケットに突っ込む。付けっぱなしにしていたテレビを黙らせ、
鍵をかけて俺は部屋を出た。
 時刻は午前10時。

 赤井 雪江とは別の人間の口から加嶋 霧子についての情報を得たい。それも、出来れば赤井 雪江のいない場所で。
それが俺と邑上の間で珍しく一致した見解だった。
 赤井 雪江が嘘をついているとは思わないが、この件に関して彼女は冷静さを欠いているように思える。それに、
彼女の言葉は彼女の主観によるものだけだ。学校で孤立していた彼女には、加嶋 霧子についての客観的な情報を
得る術がないのだ。
 話を聞いた印象では、加嶋 霧子は教師に手を上げられたくらいで即座に家出を決意するような少女ではないように思える。
それは邑上も同意見らしい。複雑な家庭の事情もあるのだろうが、何か他に失踪の理由があるのではないだろうか。
赤井 雪江とのいざこざは、きっかけに過ぎないように思える。
 いずれにしろ、彼女の足取りを追わなければならない。何かの刑事ドラマだったか、家出した少年少女というのは
かなり高い確率で友人を頼ると聞いたことがある。それも、普段から仲が良い友人よりは、少し疎遠になった頼れる先輩と
いったような人物を。
 今の時点で話が聞けるのは彼女のクラスメイトくらいしか思いつかない。赤井 雪江の話では加嶋 霧子はクラスでは
浮いていて特に仲の良い友人もいないということではあったが、それでも教師の口からは聞けない何かを聞けるかも
知れない。問題はその手段だ。学校帰りを狙って話しかけても、満足に話が聞けるとは思えない。痴漢扱いされるのが
おちだろう。
 俺がそう言うと、意外にも邑上がその役を買って出てくれた。痴漢扱いはいくら胡散臭い自称魔術師でもごめんだろうから、
きっと何か秘策があるのだろう。此処は彼に全面的に任すことにして、邑上とは夕方に落ち合う約束だけをとりつけておいた。
 
 駅の券売機で一番安い切符を買い、やって来た電車に乗り込んだ。目的地は病院。退院した日、今週中に一度術後の
診察とリハビリに来るようにと主治医から言いつけられていたことを思い出したのだ。自分の都合で友人を働かせておいて
何とも心苦しくはあるのだが、これから数日はきっと忙しくなるだろうし、暇があるうちに済ましておくことにしたのだ。
 電車に乗ること二駅分。病院までは徒歩15分といったところか。今日は曇っていて少し肌寒い。天気予報では夜から
雨になるらしい。それが雪に変わらないことを祈るのみだ。
 病院は緩やかな上り坂の先にある。周囲の並木は桜だった筈だ。春には満開の桜と花びらの織り成す鮮やかな絨毯が
此処を訪れる者の心を癒してくれるのだが、この季節にそれが見られる筈もなく、花どころか葉すらない寒々とした木々は
まるで黙して語らぬ陰気な衛兵のように、曇り空に霞むその病院をより荒涼としたものに視せていた。



 病院という場所はとかく待たされるものだ。予約がなければ1時間待ちなどはざらである。それでも、此処を
必要とする者たちの殆どはそのことに文句をつけようなどとはしない。初診で待たされない人種というのが、
この施設においては決して幸福ではあり得ないということを知っているからだろうか。
 暇を見つけてやって来た俺もその境遇は同じだった。次に受け付ける整理券の番号を示すパネルに表示された番号より
ずいぶん大きい数の書かれているらしい整理券を受け取った俺は、予約を入れなかったことを少し後悔した。
とはいえ後の祭りである。時間を潰すしかないだろう。
 ジャンパーのポケットをまさぐって其処から伸びる黒いコードを耳まで引っ張ってきて、その先にあるイヤホンを
耳に捻じ込む。ポケットの中にあるのは例のボイスレコーダーだが、今はその本来の役割を見失っている。メモリの中に
記録されているのは昨日聞いた赤井 雪江の声ではなく、CDデッキのヘッドホン端子からコードを伝ってボイスレコーダーの
マイクに届けられ、録音された音楽だからだ。目の見えない俺にメモ帳の代わりとしてプレゼントしてくれた兄には悪いのだが、
何しろ俺はもう新しい本を読むことが出来ない。一度読んだ本なら読めるし、それはそれなりに楽しむことも出来るのだが、
1時間近くを潰すとなるとそれではやはり少々刺激に乏しい。今の俺の最も有効な暇潰しの方法は、おそらく音楽鑑賞だろう。
 ポケットの中の本体のボタンを一秒間長押しして電源を入れる。本来とは違う仕事を押し付けられたボイスレコーダーは、
そのことに不満も漏らさずに与えられた仕事をこなしてくれるつもりのようだ。俺の耳に心地良いボーカルとメロディーが
流れ込み、しばしの時間それに心を委ねるべく俺は瞼を閉じた。

「幽霊マンション?」
 アップテンポの明るい曲を聴いていたものだから、そんな不吉な言葉が耳に飛び込んできて驚いた。目を開けて辺りを
見渡すと、院内の売店で高校生くらいの女の子2人がカップジュースを飲みながら談話していた。入院患者とそれを
見舞いに来た友人といったところだろうか。
「そうそう。最近クラスで噂になっているの。隣のクラスの子があそこで女の子の幽霊を見たんだって」
 どうやら怪談話で盛り上がっているようだ。夏どころか雪も降ろうかという季節だというのに、世の女の子達のはどうして
誰も彼もこういう話を好むのだろうか。
 いや、こういう話を好むのは何も女の子だけに限った話ではないか。魔術師を自称する友人の顔が浮かぶ。
 魔術などというオカルトに分類されるものの中でも極めつけに胡散臭いものを好む彼だが、それ以外のオカルトを
肯定しているのかというと、実はそうでもないらしい。例えば幽霊というオカルトに対し、不滅の魂だとか死んだ後にも
残る想いだとかという一般的な解釈を邑上は極端に嫌う。また、宇宙人やら謎の古代生物などという話題は一笑に付す。
ものにもよるが、テレビでたまに特番を組んでいるような超能力者、霊能力者の話など聞くに堪えないという感じである。
俺にはその判断基準がいまいち良く解らないのだが、邑上の中ではそれは明確に区別されており、一緒くたにされることを
何よりも嫌っているようだ。
 オカルトとは、本来隠されたものを指す語彙だ、と彼は言う。
-例えばお前の目の前に箱があるとする。ものすごく手の込んだ装飾の施された綺麗な宝石箱で、いかにも中にはすごい
お宝が入っていますというような雰囲気のある箱だ。でも箱には鍵が掛けられていて、箱を開けることは出来ない。
豪華な箱の中身が何かは誰にも分からない訳だ-
 そんな話を彼としたことがある。
-でも鍵が掛かっている錠は箱の豪華さと比べればいかにもみすぼらしい、安物の南京錠なんだよ。多少無理をすれば
こじ開けることも出来るだろう。そんな時、お前ならどうする?
 その時の俺はなんと答えたのだったか。多分、こじ開けると答えたのだと思う。性格の悪い邑上のことだから、お宝どころか
性質の悪いトラップでもしかけられていて、開けた途端に箱が大爆発を起こして俺は木っ端微塵になってしまうかも知れない。
でも所詮は空想上の箱だ。ラプラスの悪魔でもあるまいし、俺が開けると答えたところで答えた俺が木っ端微塵に
吹き飛んでしまうことはないのだから。
-そうだろう。価値が在るか無いか判らないなら確かめてみれば良い。あればめっけものだし、無かったとしても別に
失うものはない。在るということが無いということよりも必ず価値がある、解ることが解らないことより必ず優れている
とするのが科学者連中の考え方だ-
 科学者連中などとどこか突き放した表現をするが、彼は物理学専攻の現役大学生だ。それもかなり優秀な。科学的な
知識も理解も、理系大学生の標準と比べてもかなり高い水準で持っているのである。その彼が、そんな言い方をする。
-でも、それは箱そのものの価値に気付いていない証拠だ。
 中身がとんでもない価値のあるお宝だろうと、駄菓子屋で100円で売っているチューインガムだろうと、空っぽか、
或いは人類を破滅に追い込むウイルスだろうと、それは中身の価値であって箱の価値ではない。
 一度開けられてしまえば、どんなに美しい箱だろうとももう誰も見向きもしない。中身が判ってしまえば、箱の価値は
失われてしまうんだ。せっかく綺麗な箱なのに、勿体無いじゃないか-
 言われてみればその通りだった。せっかく手の込んだ装飾のされた美しい宝石箱だというのに、俺はそれを単に箱の中身を
類推する材料としか捉えていなかった。邑上があれほど熱心に箱の素晴らしさを説明しても、俺は言われるまで
箱そのものの価値については考えていなかったのだ。
-中身が何かは知らないが、開けなければ箱そのものはただで手に入る。目に見えている確実な価値を手にすることが出来る。
 一般に科学者、或いはその信奉者という人種はお前のように躊躇わずに箱を開ける人間達のことだ。きっと判らない、
知らない、理解出来ないということが苦痛でしかたがないのだろうな。一方、箱そのものに価値を見出した人間達が
神秘家(オカルティスト)と呼ばれる人種だ。鍵の掛かったままの箱を誰かに売りつけるつもりなのか、それとも後生大事に
部屋に飾って、たまにそれを眺めてはニヤニヤするつもりなのかは知らないがね-
 此処まで言われれば俺にも邑上が言いたいことが理解出来た。彼の言うオカルトとは見えない価値観のことであり、
非科学的なものを指す言葉ではない。騙し絵の白い部分を見るか、黒い部分を見るかの違いなのだと言いたいのだろう。
-そうだ。なんだ、解っているじゃないか。
 そもそも科学とは現象を記述する技術なんだから、非科学的なんて言葉そのものがナンセンス極まりない。まっとうな
科学者なら非科学的なんて言葉は使わないさ。
 例えば幽霊…というか、いる筈のない人間がいるという幽霊現象に対し、霊だとか魂だとか死後の世界だとか、
それ自体に定義のない概念を使って説明しようとする人間は愚かだし、だからといって今まで記述されたことがないという
理由だけでそんなものは存在しないと結論づける人間も、同じように愚かだ。
 ソクラテスじゃないが、解らないことは解らないと素直に言うべきなんだよ。
 全ての鴉が黒い訳ではないと証明する為には白い鴉を一羽捕まえてくれば良い。でも、全ての鴉が黒いと証明することは
原理的に不可能だ。どれだけ多くの黒い鴉を捕まえてきたところで、それは白い鴉がいないことの証明にはならない。
 それに…いや、何よりも問題なのは、白い鴉は捕まえられた途端に殺されてしまうことかな。或いは墨で真っ黒に
染められてしまうことか。
 白い鴉を探す人種というのは、決して白い鴉を見つけられることを期待してはいない。誰もが見つけられることを
期待しないで、いや見つけてしまうことを恐れながら、白い鴉を探しているんだ。そんなものいないと信じるからこそ、
白い鴉には価値が在るのだから-

 だから、白い鴉は永遠に見つからず、彼はいつまでも魔術師のままでいられるのだ。



 何時の間にか、お気に入りの曲を一曲聴き飛ばしてしまった。
 この宝石箱と白い鴉の話だけが、俺と邑上の間で交わされた幽霊の登場する唯一の怪談話だ。同じ内容の話だというのに、
あそこで少女たちが話している話とはなんと違うことだろう。まったくもって、俺は奇妙な友人に恵まれたものだ。
それが恵まれたことなのかどうかは判らないが。
 そんな話しか出来ない俺の悪友だが、だからといって彼女達の話すような一般的な怪談話を嫌っている訳ではない。
解釈の仕方、楽しみ方が絶望的に異なるだけで、彼は彼なりにこの手の話を十分に楽しんでいるように見える。
 オカルトとして語られる物語の注釈やあとがきに登場する、彼の言うそれ自体に定義のない概念。その解釈を、
彼の魔術師は独自に定義している。俺が彼女達の話を聞きかじって彼に伝えれば、集団心理学とか犯罪学とか、
きっとそういった話になってしまうだろう。でもそれはそれで、本来の楽しみ方とは違っているとしても、邑上は邑上なりに
楽しんでくれるだろう。きっと俺の理解の浅さを笑いながら、皮肉たっぷりに講釈を聞かせてくれるのだ。
俺の為に何か動いていてくれる彼に、僅かばかりの恩返しが出来るかも知れない。
 ボイスレコーダーの音量を絞り、彼女達の会話に耳を傾ける。彼女達の楽しそうな会話が、右耳から入って俺の左脳に
流れ込む。右脳は相変わらずエレキギターとベース、シンセサイザーの奏でるシンフォニーに心を委ねたまま。
ただ人生の苦楽を美化したボーカルだけが、メロディーから外れて行き場をなくし、虚空に散っていく。
「それでね。その女の子は実はこの病院で手術を受けて、失敗して亡くなった女の子の幽霊なんだって。隣のクラスの子の
友達の友達が、この病院でその女の子を見たって言うの」
「止めてよ。幽霊が出て怖いとかいう以前に、この病院が怖くなるじゃない。私まだあと一週間くらいは此処に
いなきゃいけないのに。手術失敗していたらどうするのよ」
 嬉しそうに話を持ち出したのは見舞いに来た子の方なのだろう。入院している方の子が口を尖らせてそれを嗜める。
確かに入院している方にとっては別の意味で怖い話だ。なんだか聞いている俺まで怖くなりそうだ。俺が手術を受けたのも
この病院なのだ。
「だいたい、なんでこの病院で亡くなった子の幽霊があのマンションに出るのよ。あそこに人が住まなくなったのって
随分前なんでしょう?
 おかしいじゃない。その子、幽霊になってまでやるほどの廃墟愛好の趣味でもあったの?」
 しかし入院している方の子もそんなに気にしている訳ではなさそうだ。タイミングを見計らったように、二人して同時に
笑い声を上げる。病院に明るい笑い声というのも似つかわしくない気もするが、入院患者など始終むっつりしている訳にも
いくまい。
「だいたいあんた、この前来た時はあの場所で不良に絡まれて殺されたホームレスの怨念だとか、変質者にレイプされて
あそこの下水に捨てられた幼女の呪いだとかって言っていたじゃない。良い加減すぎるわ。どれか一つにしてよ」
 友人にそう言われ、女の子はしどろもどろに弁解を始めた。友達の友達が見たのだから間違いないとか、
ではそれは誰なのかと問われれば答えられる筈もなく、結局そのマンションは大昔のお墓の上に建てられているから
呪われていて次々に幽霊が集まって来るのだとかという話にまで発展してしまった。  
 流石にこれでは邑上には聞かせられないか。俺としては、これ以上そのマンションの噂が広がらないことを祈るばかりだ。
彼女が自分の結論をそのまま他の誰かに伝えたりしたら、そのうちそのマンションは魔界に通じるブラックホールに
なってしまうだろう。

「でも、この病院はあの幽霊マンションから二駅しか離れていないじゃない。説得力はあるでしょ?」



…その言葉の意味を理解するより早く、整理券に書かれた番号が読み上げられて、俺は慌てて立ち上がった。
 何時の間に握り締めてしまったのだろうか。取り出したポケットの中の整理券はくしゃくしゃに丸まっていた。



「全く、君みたいな患者は初めてだよ」
 俺の主治医である大河(おおかわ)医師が、付き添い無しで一人でやって来た俺に呆れたようにそう言った。
 今回彼が俺の為に予定していたのは、術後の診察というよりも目の見えない人間が生活を送るためのアドバイスや
リハビリであったらしい。白杖という、よく目の悪い人がつまずいて転ばないために持っている杖の使い方や日常生活に
潜む危険に対する注意、果ては介助や盲導犬のパンフレットまで用意してくれていたようだ。ありがたい話ではあるが、
それらを必要とする人間が一人で此処まで電車を乗り継いで来られる筈もなく、当然それが解っている彼の説明は
なんとも白けたものになってしまった。結局リハビリはキャンセルし、俺はひとまず白杖だけ受け取っておいたが、
おそらく使う機会はないだろう。折畳んでバッグに仕舞い込む俺を見て、大河医師が苦笑していた。
 彼には手術後すぐに俺の状況、つまり擬似視力とでも言うべき俺のこの感覚のことを話している。しかしその時にはまだ
邑上の説、いや、もう確定にしても良いか、この記憶力で視力を補おうとする俺の奇妙の脳の作用のことを
知らなかったから彼は信じてくれなかったし、俺も無理に信じて貰おうとはしなかった。なにせ視力検査の結果上は
間違いなく失明していたのだから。
 それでもまるで見えているかのように振舞うことが出来る俺を、彼はどのように思っているのだろうか。恐ろしく勘の良い
青年、きっとそんなところだろう。ひょっとしたら、超自然的な感覚に目覚めたのだとか思われているのかも知れない。
それは必ずしも的外れとは言えないかも知れないが。
 彼に邑上のしてくれた話をしようかどうか俺は迷ったが、結局しないことにした。邑上ほど口の回らない俺に上手く
説明出来るかどうか自信がなかったし、それを聞いた時の彼の反応を想像するのも怖かったからだ。信用出来る人では
あるがそこはやはりプロの医者であり、医学の研究者である。いきなりモルモット扱いはされないだろうが、
色々と面倒臭いことになるのは想像に難くない。あまり時間のない俺にとっては避けたいことである。
それに俺のような人間がこの先現れるようなことはまずないだろうし、従って俺が医学の発展に協力したところで
救われる人間も居ないだろうと思うのだ。
 惰性のように抗生物質を処方してもらい、俺は此処での今日の用事を全て終えた。去り際、既に自分の状況に
納得しているような俺に大河医師は何か問いたげではあったが、結局その言葉が俺と彼の間を横たわる空気の層を
震わせることはなく、そのことに俺はそっと感謝した。

 支払いの際にもずいぶんと待たされて、俺が再び病院の玄関を潜ることが出来たのは3時を回ってからだった。
 特に何をした訳でもないというのに、待つという行為は何故人をこうも疲れさせるのだろうか。一日フルに
講義を受けた日のようにぐったりとなって、俺は病院前の坂道を来たときよりも時間をかけてとぼとぼと下った。
天気予報という予言を忠実に再現する物語のように、空はいよいよ雲行きが怪しくなっていた。振り返れば、
来たときには訪れる者を無言で拒むかのように見えた節くれだった陰気な衛兵たちが、今度は逃がした獲物を
惜しむかのように俺を見下ろしていた。

 駅までの道のりにあるお馴染みのファーストフードの店から漂う不健康な匂いを感じ、俺は急に空腹を覚えた。
考えてみれば、今日は朝食どころか昼食まで食いっぱぐれている。昨日から何も食べていないのだ。口にしたのは、
起き抜けに飲んだインスタント・コーヒーだけ。腹が減っているのも当たり前というものだ。
 匂いに吊られるままそのファーストフードの店に入って済ませてしまおうかとも思ったが、その誘惑に耐えて俺は駅に
足を向けた。二食も抜いた空腹感をファーストフードで誤魔化すのもどうかと思ったのだ。ちょっと遅い昼食になってしまったが、
もう少し豪華なものを食べることにしよう。いっそ大きな街に出て買い物をするのも良いかも知れない。そうすれば、
何となく沈んだこの気分も少しは晴れるかも知れない。
 見上げた空は曇り空だが、空気はまだ乾いたまま。雨が降るまでにはまだもう少し時間があるだろう。



 食べたり買い物をしたりするのに困るということはないのだが、それでもこの辺りは都会とはとても言えない。
ある程度の賑わいを求めるとなると、降りられる駅は限られてくる。だから昨日も訪れたこの街に、今日も俺は足を降ろした。
流石に住宅街の方まで足を伸ばしたことはないとはいえ、少しばかり新しいものや珍しいものを手に入れようとすると、
此処で探すのがもっとも確実な方法である。俺も頻繁に訪れていたし、色々な店に出入りもしたから、今の俺でも自由に
出入りできる店には事欠かない筈だ。
 駅からさほど離れていないデパートの6階にあるレストランで俺は念願の昼食にありついた。味、ボリューム、店の雰囲気、
どれをとっても申し分ないのだが、値段の方もそれなりの店だ。270円の牛丼に50円の卵を乗せただけでも臨時収入が
あったと疑われるような俺達苦学生の身分で頻繁に訪れるなどということが出来る筈もなく、何か大きな買い物をして
気分も大きくなっている時や、それこそ臨時収入があったときにしか訪れたことはない。こちらに部屋を借りてから
通算で5,6回がせいぜいといったところだろうか。それでも久しぶりに訪れたこの店は俺の記憶にあるままと寸分違いなく、
出された料理の味も期待通りのものだった。
 すっかり気分の良くなった俺はおかわりの利かない食後の珈琲を愉しみながら、余った時間をどう潰すかを考えていた。
満足のいく食事にありついたとはいえ、その為だけに此処を訪れたというのも、考えてみれば何だか馬鹿馬鹿しい話だ。
邑上との約束までは大分時間があるし、家に帰ってもごろごろとしながらもはやラジオと変わりないテレビを
だらだら見るくらいしかすることはない。珈琲を飲み終わる頃には、買い物でもするべきだというありきたりな結論に達していた。

 さて、買い物とはいってももともと予定していなかった計画なのだ。一体何を買うべきか。こんな時、女性なら
特に欲しいものが無くともぶらぶらとウィンドウショッピングを楽しめるのかも知れないが、大概の男というものは明確な
ターゲットが無いと足が動き難いもので、色々と普通から外れているらしい俺でも其処は御多分に漏れることはない。
それに今の俺には新作のゲームも本も意味が無くなってしまったし、贔屓(ひいき)にしているアーティストが最近新しい
アルバムをリリースしたという話も聞かない。悩んだ末、俺は洋服売場に行くことにした。
 目まぐるしく売り物が変わるこのような店では、俺の擬似視力というものもあまり役に立たない。遠目から見ただけでは、
棚やら何やらの大まかな配置は分かっても、其処にどんな商品が並べられているかはさっぱり分からない。何というか、
其処に何かが在ることが判っても、それに注意を向けることが出来ないのだ。視えている風景に違和感こそ無いものの、
まるで瞬間的な記憶喪失が繰り返されているかのように、其処にある筈のものは俺の認識から零れ落ちていく。
 しかし嬉しい発見もあった。それが何かということさえ分かれば、今までに見たことが無いものでも、今の俺にも
ある程度視えるようになるらしい。ジーンズのコーナーで穿きやすいソフトジーンズを探している時に俺はそのことに気付いた。
 勿論柄や色合いなどは判らない。しかし、手にとって見ればその感触から何の生地かだいたい分かるし、
ファスナーやボタン、それにポケットの位置や大きさを確かめることで、全く未知のものだった筈のそのジーンズも
俺の頭の中でリアルに輪郭を持ち始め、それが視えるようになってくるのだ。試しに試着して、裾を合わせてくれに来た
女性店員に感想を聞いたが、それは等身大の鏡に写る俺が身につけているものと大差ないように思える。もともと身なりに
必要以上に気を使う性質でもないし、それなら色と柄にさえ気をつければこれで十分問題が無いように思えた。
 未来の自分にいくばくかの希望を見出したような気分になり、俺にしては珍しくジーンズや上着を数着も買って俺は
その店を出た。そのままの軽い足取りでデパートを後にする。見上げれば空はいよいよ雲行きが怪しくなり、
心なしか空気もうっすらと湿り気を帯びてきたように感じたが、反対に俺の心は来た時の重い気分が嘘のように
晴れ晴れとしていた。
 こんな天気だというのにまだ済んでいない用事でもあるのか、デパートから駅までの距離にまだ張り巡らされたままの
雑踏という名の網を掻い潜って俺は駅までの道を歩いた。やがて駅に到着し、構内にまで入ってもその網は途切れることは
なかった。その駅の構内の一角で、若いアルバイトが声を張り上げてドーナツを売っている。もはや街頭販売ではなく
出張販売といったところだが、様々な人間の足音が織り成す網の中で魚を拾うかのようなその行為も、其処だけ人が
避けて通るようでは間違って網に掛かってしまった間抜けな漁師のように、何処か滑稽でコミカルな哀愁を漂わせていた。
 おそらくは先輩に教えて貰ったそのままであろう宣伝文句を必死に叫ぶだけのそのアルバイトに同情した訳でもないのだが、
俺は彼のお得だと言うセットを買おうかどうか迷って足を止めた。何か俺の思いもよらないような方法で加嶋 霧子の情報を
集めてくれているだろう邑上への手土産にでもなるかも知れない。
 迷った末に俺は歩き出し、結局買わずに彼の横を通り過ぎた。今は結構な量の荷物を持っているし、それに友人の
可愛らしい姉がいるというのならともかく、男二人だけでドーナツを齧るというのも絵にならないと思ったのだ。二人には、
全てが片付いた後に改めて何かお礼をすることにしよう。
 そういえば、深雪は今何をしているのだろうか。彼女は何か個人的な用事でこちらに来ていた筈だ。それが何かは
知らないが、そう何日も滞在しなければいけないような用事ということもないだろう。それを俺が半ば巻き込むような形で
協力させてしまっている訳で、本当ならもう既に地元に帰っていてもおかしくない筈だ。ひょっとしたら、本当は帰りたいのに
義理堅い彼女が俺に遠慮して帰れないのかも知れない。だとしたら心苦しい話だ。
 しかし彼女がいてくれるおかげで赤井 雪江とコンタクトを取ることが出来る。彼女が帰ってしまえば、赤井 雪江自身とは
何の繋がりもない俺達では話をし辛いというのも確かである。迷惑をかけているとは解っているが、出来ればもう少し
付き合って貰いたいというのが俺の本音だった。
 お礼がドーナツだけでは安過ぎるだろうな。そう思いながら俺は、雑踏の網と改札を潜り抜けてこの街を後にした。



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