Ⅷ   加嶋 霧子という少女



 空になった4人分の珈琲杯(コーヒーカップ)をトレイに載せて邑上が席を立つ。俺も席を立ち、空になった4杯分の珈琲の
料金を清算した。

 喫茶店での会合の帰り道。俺達は来た時と同じように連れ立って、来た時とは向かい合わせのホームで電車を待っていた。
話の後、赤井 雪江は仕事があるからと言って席を立ち、深雪もまた彼女を送って行くと言ってその後を追った。
俺に残ったものは空になった珈琲杯と赤井 雪江の話の余韻と、後は俺が払うべき伝票だけ。
 ああ、もう一つ残ったものがあったけ。俺はそれから伸びるイヤホンを耳に刺し、ポケットの中のそれのスイッチを入れる。
程なくして俺の耳に喫茶店の中の喧騒が蘇る。しかしそれが何かを語りだすより先に、ふいに俺の耳からイヤホンが
抜き取られた。
「人が話しかけているのに音楽なんか聴いている場合かよ。失礼な奴だな」
 イヤホンを抜き取った張本人が、皮肉たっぷりにそうぼやく。
「音楽じゃないよ。怪我してから、兄貴が差し入れてくれたんだ。こういう機会でもなければ使わないし、使わなければ勿体無い
じゃないか」
 俺がそう言うと邑上は俺の上着のポケットを勝手にまさぐってそれを取り出し、興味深そうに眺めた。
「ボイスレコーダーか。ずいぶん準備が良いんだな」
「だから兄貴の差し入れだって。これからはメモが取れなくなるから使えって」
 成程気が利いているなと呟いて、邑上がそのボイスレコーダーを俺に放り投げて返した。電車はまだ来ない。
「でも今のお前なら、自分で書いたメモなら普通に読めるんじゃないのか?」
 邑上がそんなことを言ったので、俺はそれを試してみたくなってしまった。懐をまさぐると都合よくボールペンが出てきたので、
それで手の平に適当な文字を書いてみる。一度瞼を閉じてくるくると手首を回し、再び瞼を開いてみても、今書いた文字は
まだ其処にあった。成程。
「いきなり何をやっているんだよ。危ない人か、お前は」
「いや、ちょっと試してみたくなってさ。確かに、自分で書いたメモなら読めるみたいだな」
 俺がそう言って手の平を邑上に見せる。
「なんだ、何も書いてないぜ?ボールペンのインクが切れているんじゃないのか。」
 俺は驚いて自分の手の平を再確認した。其処には先程までは確かに視えた筈の文字が消えていた。
「すまん、今のは嘘だ。ちゃんと書いてあるよ、バカヤローってな」
 邑上のその言葉が耳に入って次に瞬きをした瞬間、バカヤローは俺の手の平に戻って来た。あまりのことに俺は
どういう感想を抱けば良いのかも判らずに呻いてしまった。
「便利なのか不便なのか判らないな、お前の目は。はたから見ていると一人奇術師って感じだよ。ギャラリーには受けない
だろうけれどな」
 唸っている俺の様子で、邑上は俺の手の中でバカヤローが点いたり消えたりしていたことが分かってしまったらしい。
相変わらず察しの良い男だ。
「からかうなよな。こっちにとってはかなり深刻な問題なんだぜ。もうちょっと身障者の心情を理解しろっていうの」
 とりあえず嗜めておく。でも、ボイスレコーダーはどうやら不要らしい。言葉や文章そのものには並程度の記憶力しか
働かなくても、一度図面になってしまえば俺の脳はしっかり記憶してくれる。それは事故以前でもそうだったのだが、
今ではこうしてシミュレートまでしてくれる訳だ。確かにこれでは、便利なのか不便なのか良く判らない。
「で、何だよ。さっき何か言いかけただろう?」
 おそらくは二度と日の目を見ることはないだろうボイスレコーダーをポケットに仕舞い込み、俺は邑上に問い返す。
邑上は真面目な顔に戻り、おそらくは先程のものと同じ、俺の聞き逃した言葉を繰り返した。
「どう思う、さっきの話。ええとその、加嶋 霧子ちゃんだっけ。お前の視た少女と関係があると思うか?」
 邑上のその言葉を聞いて、俺はボイスレコーダーから再生される筈だった赤井 雪江の言葉を思い出した。



 加嶋 霧子。麻布中学校に所属する中学2年生の女生徒で14歳。赤井 雪江が副担任を勤めるクラスの生徒であったらしい。
彼女が失踪したのは、2,3ヶ月前とのことなので、俺の視力を奪った事故から1ヶ月以上前になる計算になる。
 もっとも失踪といっても、それは赤井 雪江がそう思っているだけに過ぎない。無論、そう思うほどに霧子は人前に姿を
見せなくなったのだが、学校側からも家からも失踪届けは出ていないという。赤井 雪江は何度か家庭訪問と称して
彼女の家を訪れてのだが、そのほとんどが家人が不在で無駄足となった。一度母親と会うことは出来たのだが、
さも面倒臭いとばかりに話を打ち切られた。結局、霧子に関してまともな返答は得られなかったのだそうだ。
 いずれにしろ、およそ3ヶ月前のある日を境に加嶋 霧子は人前から姿を消し、その後誰にも目撃されていないのだ…
俺の記憶の中の出逢いを除いては。
「どうなんだろうな。話を聞く限り家出みたいだけれど。ストーカーにでも尾け回されていたのかな」
「俺が聞きたいのは、加嶋 霧子がお前が視た少女だと思うかどうか、ってことなんだけれど。
 仮にそうだとして、彼女は失踪してからお前に発見、というか目撃されるまで1ヶ月間も間があることになるだろう?
中学生の女の子が完全に足跡を消して過ごすには長すぎる。普通に考えたら、別人だと思うがね」
 そう言われて初めて、俺は理由も無く自分の見た少女が加嶋 霧子だと思い込んでいたことに気付いた。確かに邑上の
言うとおり、1ヶ月間のブランクは俺が視た少女と彼女が別人だという説に有利に働く筈だ。それなのに、俺はそう思い至った
今でも、俺が視たあの少女が加嶋 霧子だと心の何処かで思っていた。それは、確信に近い思い込みだった。
直感とでもいうのか…それとも、喪ったあの日の記憶の中にそう思えるだけの何かが埋められているのだろうか。
 しかしいくら記憶を掘り返してみたところで、そんなものは出てこない。ただこうして目を閉じれば、あの血に塗れた
少女だけが、俺の瞼の裏で微笑んでいる…

 ふいに、邑上が俺のわき腹を肘でつついた。気がつくと目の前には既に電車が、今にも扉を開けようとしていた。
慌てて俺は降りる人のための道を開ける。
「ぼんやりするなって。ただでさえ危なっかしいのに」
 軽口に応えず、俺はそのまま電車に乗り込む。邑上も肩を竦めてそれに続いた。
 しばらく無言の時が過ぎる。がたんごとんと、揺篭(ゆりかご)にも似た心地よい振動だけが、しばし俺の心を満たしてくれた。

 目の前で何かが動く気配がした。気が付くと、さっきまで満席だった席が空いていた。視線を上げると、線路沿いの風景を
映す窓に見慣れたラベルが貼ってある。優先席。
「座ったらどうだ。さっきの人は、別に代わってくれた訳じゃないんだろうけれど」
「いや、良いよ。たいして疲れている訳でもなし」
 そうは言ってはみたが、実際には今日は色々なことがあり、俺は少し疲れていた。初めて実感した盲目という名の恐怖、
赤井 雪江との会話、失踪したという女生徒、加嶋 霧子の話。それでも、目の前の空いた席に座るのには、何処か
躊躇(ためら)いがあった。正直目の前の空席が優先席でなければ、俺は躊躇わずに腰を下ろしただろう。
それが出来ないのは、優先という恩恵を受け入れてしまえば、あの暗闇をも受け入れてしまうことになるような気が
したからだ。文字通り一筋の光明も無い、あの完全な絶望を。
 そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、俺が座らないと見るや邑上は躊躇せずに空いたその席に腰を下ろしてしまった。
「お前が座るのかよ。此処、優先席だぜ」
「構わないだろう、別に。座るべき人間が座りたがらないんだから。空席は勿体ないしな。それに俺だって疲れているんだ。
見えない人間の、それも男なんかの腕を引っ張ってあそこまで連れて行くなんていう割りに合わない仕事した後だからな。
俺にだって、此処に座る権利はあるさ」
 成程。不自由な人間のための優先席だというなら、それをサポートする人間にも其処に座る権利はあるのかも知れない。
例えば空いた席に盲導犬がちょこんとお座りしていても良い訳だ。その平和な情景を想像するとふいに笑いがこみ上げ、
俺は慌ててそれを噛み殺した。
 電車が次の駅で停車する。邑上の隣に腰掛けていた老人がゆっくりと立ち上がってホームに降りていった。他に、
其処に座ろうとする人間もいないようだ。俺は苦笑いして、今度こそ其処に腰を下ろした。俺の住む街までもう何駅も
ある訳でもないのに。邑上がそれに一瞥をくれる。
「疲れてないんじゃなかったのか。此処は優先席だぜ」
「やっぱり疲れていたんだよ。魔術師を自称するような妖しいヤツと話題を合わせるのにね」
「違いない」
 邑上がにやりと笑ってそう返す。どうやら、何時の間にか借りを作ってしまったようだ。
 それからいくつかの駅を通り過ごした。途中の駅に停車する度、無感情に口を開ける扉に貌のない乗客たちが吸い込まれ、
そして吐き出されていった。その姿はまるで影絵のように現実感に乏しい。
 いつしか座席にも空席がちらほらと視えるようになってきた。窓の外を見上げれば、太陽は美しい茜色になっており、
その姿を勿体ぶるようにビルの間をかくれんぼしていた。やがて電車は俺の住む街にゆっくりと停車し、俺を吐き出す為の
口を開いた。

 邑上と別れ、一人ホームに立つ。寒気を覚えてお気に入りのジャンパーとポケットに手を入れると、失踪した少女の記憶の
詰まったボイスレコーダーが、黙ったまま静かに時を過ごしていた。



-およそ3ヶ月前、私の担当するクラスの女子の一人が無断で学校を休みました。
 その子が霧子ちゃん…加嶋 霧子という子です-
 深雪が持ってきた珈琲杯を幽かに震える両手で握り締め、赤井 雪江が語り始めた。
-彼女は普段から問題のある子で、無断欠席というのも珍しいことではありませんでしたから、最初は私もあまり
気にしなかったんです。でも、それが2日、3日と続き、一週間も続くと流石に問題になりました。その間に大事なテストが
あったこともあって、私は彼女の家に電話したんです。電話に出た彼女のお母様は、娘が学校に来ていないことに
気付いていなかったようでした-
 赤井 雪江の声は、徐々に小さく掠れたものになっていった。それでも彼女は、握り締めた手の中の珈琲で
喉を潤そうとはしない。自分の声が掠れていることにも気付いていないのか。
-無断欠席が多いとおっしゃいましたが、一週間も連続でということも今までにもあったんですか?重要なテストを
受けないというようなことが、今までにも-
 邑上が落ち着いた声で彼女にそう確認する。まるでドラマの中の刑事のようだ。
-いいえ。欠席するといってもそこまで頻繁にという訳ではありませんでしたし、3日も連続で休んだことは私の知る限り
ありませんでした。それに根はしっかりした子ですから、テストがある日などに無断で休むということは決してありませんでした-
 ふむ、と邑上が頷いて、ポケットから煙草の箱を取り出した。それに気が付いて、深雪が弟を小声で嗜める。
 姉弟がそんなやりとりをしている間に、今度は俺が彼女に疑問をぶつけた。
-母親は娘が学校に来ていないことに気付いていなかったとおっしゃいましたが、それは彼女がその日までは家にいた
ということですか?最初の欠席から一週間は、自宅で母親が彼女を目撃している、と?-
 俺のその言葉に、赤井 雪江の目に戸惑いが浮かんだように視えた。話し辛い内容に触れてしまったのだろうか。
少し迷うような素振りを見せた後、それでも彼女はその質問に答えてくれた。
-違います。その、生徒のプライベートにあたることなので本当は守秘義務があるのですけれど。
 霧子ちゃんとお母様はあまり上手くいっていなかったようで、家の中でもめったに顔を合わせていなかったようなんです。
食事も別々だったとかで-
 成程。本当に娘がいなくなっていることに気付かなかったという訳だ。酷い母親もいたものだが、そういう家庭は
案外多いのかも知れない。
-それじゃあ、先輩。最初に学校を休んだ日から、霧子ちゃんを目撃した人は誰もいなんですね-
-ええ。私、心配で…お母様が失踪届けを出さないから、学校としても対応出来ないし。もう、どうしたら良いのかと
思っていたら、深雪ちゃんから卯波さんの話を聞いて、ひょっとしたらと思って…-
 感情が高ぶってきたのだろう。ともすれば涙声になりそうなその言葉をなんとか吐き出した後、まるで今吐き出した言葉を
飲み込むかのように赤井 雪江はもう冷めてしまった珈琲を一気に飲み干した。そんな先輩の様子を深雪は気の毒そうに
眺めている。彼女の弟は、何か考え込むようなそぶりで腕を組んでいる。
 加嶋 霧子。ある日を境に、ぷっつりと人前に現れなくなったという少女。おそらくはその少女を俺は見たのだ。
記憶の連鎖から抜け落ちているあの日に、何故か訪れたあの場所で。
 彼女が人前から姿を消してから、およそ1ヶ月後という計算になる。
 その時既に、彼女は間違いなく死んでいた。少なくとも、俺にはそう視えた。そして俺もその日その場所で事故に遭い…
現在に至っても彼女の遺体が発見されたという話は聞いていない。これはどういうことだろうか。加嶋 霧子は失踪して
1ヶ月の間を何処でどう過ごし、そして何故あの場所であのような最期を迎えたのか。何故遺体が発見されないのだろうか。
-先程、失踪したその子には問題があるとおっしゃいましたね。それは無断欠席と母親との関係だけですか?-
 邑上が低い声でそう問うた。深雪が先程よりやや大きな声で彼を嗜める。生徒のプライバシーに当たることを教師が
おいそれと話すことが出来ないからだろう。しかし、姉の言葉を遮って邑上は続ける。
-それだけの情報では、その娘を探すなんてとても出来ませんよ。そもそも、何かの犯罪に巻き込まれたのか、それとも
ただの家出なのかも判断出来ない。
 彼女に関して、貴女の知っていることを全て話してください。
 そう、例えば、貴女には彼女が家出した理由に心当たりがあるんじゃないですか…-
-信司!-
 弟のあまりに無礼な発言に、深雪が声を上げて嗜めようとする。が、今度は少々声が大き過ぎてしまったようだ。
周りの客が何事かと振り返り、彼女は顔を真っ赤にして体を小さくした。
-良いのよ、深雪ちゃん-
 それでもまだ何か言おうとする深雪を赤井 雪江が遮る。
 確かに、赤井 雪江の加嶋 霧子に対する想いは、単なる生徒と教師という間柄だけでは説明出来ないように思える。
勿論、教師が失踪した生徒を心配するのは当たり前のことなのだろうが、それしてもこんな雲を掴むような話をあてにする
くらいなのだから、相当に心配しているということなのだろう。そもそも、失踪者の探索は警察の仕事であり、
その依頼は家族か、せいぜいは学校が行うことであり、一教師に過ぎない彼女に出来ることは何も無いだろう。
 そこまで考えたとき、自分こそその何も出来ないをしようとしているのだということに俺は気がついた。いや、俺などは
今の今まで探そうとしている少女の名前すら知らなかったのだから、赤井 雪江よりはるかに動機に乏しいのである。
そんな俺が彼女の動機を疑うのだから、これほどおかしな話もないだろう。
 しかし、理由は無くとも、俺はあの少女に関わりたいという想いがある。それはもはや、衝動とすら言っても良いものだ。
赤井 雪江も俺と同じものを持っているのだろうか。
 いや、そもそも俺や邑上がおかしいのかも知れない。彼女の行動は教師として、人として当然であり、変に勘ぐる俺達こそ
冷たい人間なのかも知れない。雪江や深雪の反応こそ、一般的なものなのかも知れない。
 いずれにしろ、俺は加嶋 霧子という少女について知らなければならない。
 話してください。お願いします。俺が言うと、赤井 雪江は神妙な顔で頷いた。邑上は腕を組んだまま事のなりゆきを
見守っている。そんな俺達の各々勝手な想いについていけないのか、深雪だけが落ち着きなくその大きな瞳できょときょとと
俺達の顔を見比べていた。

-私は両親が共に教師ということもあって、子供の頃から教育者になることを当然のように考えていましたし、それに不満も
感じませんでした。でも、そんな惰性のような考えで教師のような職についてはいけなかったのかも知れません。
もともと私は人前に出て話すのが苦手な性格でしたし、大学でも深雪ちゃん意外に満足に話が出来た友人も
いませんでしたから-
 赤井 雪江がぽつりぽつりと語り始める。
 成程、言われてみると彼女には陰気というか、どこか他人を怖がっているような雰囲気がある。邑上の方を視てみると、
彼は彼で深雪となにやらアイコンタクトを交わしていた。赤井 雪江の大学時代の様子が実際にそうだったのかを、無言で
姉に確認したのだろう。頷きもせずまだ何処か非難がましい視線を彼に返している深雪の瞳は、それでもそのことを
肯定していた。
 それ故に雪江と深雪は親友なのだろうか。はつらつとしてムードメーカーのような明るい雰囲気のある深雪なら、
きっと一人寂しそうにしているこの内気な先輩を放っておいたりはしないだろう。そう考えるとこの悪友の姉が、
俺や邑上が完全にはなりきれていない大人というものに視えてくるような気がして、俺は深雪の顔をまじまじと見てしまった。
俺の目に映った深雪は、どう視ても大人とは思えない頼りなげな少女の姿のままであったが。
 俺達がそんな細かいやりとりを無言でしている間にも、赤井 雪江は切々と語り続けている。
-霧子ちゃんは頭の良い娘でしたから、そんな私の欺瞞(ぎまん)に気付いていたのだと思います。教壇に立っても満足な
授業が出来ない私に、公然と抗議をしているようでした。勿論それは、授業の内容に関する質問という形であり、
授業を妨害するようなものではなかったのですが、私にはそう思えました-
 つまり、加嶋 霧子という少女は赤井 雪江の授業中に、積極的にかなり厳しい質問や指摘を雪江に
ぶつけていたというのだ。そして上手くそれに答えられない彼女を公然と非難していたのだという。雪江のような性格の
教師にとっては、実にスリリングな授業だったことだろう。
-彼女がそういう態度を取ったのは貴女に対してだけですか?それとも、他の教師にも?-
 邑上が、俺が確認しようとしていたことを先じて質問する。しゃべらなくて良いのは正直楽だったが、これではどちらが
付き添いなのか判らない。俺はこっそり苦笑した。
-それは判りません。私は職員室でもあまり他の先生方と話しませんでしたし、それに彼女は特に素行が悪い
という訳ではなく、ぶつけられた質問も指摘もとても的を射たものだったので、そんなことを誰かに相談するというのも
おかしな話ですし…-
 赤井 雪江が自分に言い聞かせるようにそう呟く。きっと赤井 雪江は生意気盛りの中学生達から見れば、思わず
苛めたくなるような新任教師だったのだろう。その様子が目に浮かぶようだ。
 しかし、加嶋 霧子はそういった同級生たちとはどこか違うように思える。話した記憶すら無い少女に何故俺はそのような
印象を持っているのかは解らないが、俺にはそう思えた。
 それに、不慣れな新任教師を生徒が冷やかすことは良くあることだが、公然と非難するなどということは聞いたことがない。
少なくとも、10年を超える俺の学生生活の中で、そんなことをする能力や覚悟のある学生は一人もいなかった。
そんな目立つことを他の教師の授業でもやっていたようなら、きっとどこかで問題視され、彼女も平穏な学生生活を
送ることは出来なかっただろう。加嶋 霧子の反抗的、と言って良いのかどうかは判らないが、そういった態度は
赤井 雪江に対してだけと考えて良いだろうと思う。
 では、加嶋 霧子は何故そんな態度を赤井 雪江にだけとったのだろうか。
-それは私にも解りません。ですが、彼女が私にそんな態度をとったのは、何か彼女なりに悩んでいたからだと思います。
私は相談に乗ってあげたかったのですが、私が頼りないせいでしょうか、彼女はとても頑なで、それであの日大人気ない
口論になって、それで…-
 私は彼女に手を上げてしまったんです。肺に溜まった毒を吐き出すように、赤井 雪江がそう告げた。
 成程。辛いだろう雪江には悪いが、俺にはそれで合点がいった。加嶋 霧子は彼女にとってだけの問題児であり、
個人的に心配していた生徒だったのだろう。その少女を感情的になって思わず殴ってしまった。その日以来彼女が
登校しなくなったというのなら、心配すると同時に責任も感じるだろう。彼女の焦燥ぶりも納得出来るというものだ。
 しかしそう考えると、加嶋 霧子の失踪は家出という線が最も自然なように思える。少なくともこの時点では、
何かの犯罪に巻き込まれたとは考え難い。なら本当に、何故彼女はあの場所で、あのような最期を
迎えなければならなかったのだろうか。
-先輩、気を落とさないでください。きっと先輩の想いは霧子ちゃんに届いていますよ-
-貴方が彼女を殴ったということを知っている人間は他にいますか?-
 邑上姉弟が同時に全く別の発言をし、お互いの言葉を遮った。二人はしばし、お互いを横目で睨む。
-ありがとう雪江ちゃん。
 信司さん、そのことは誰も知らないと思います。放課後の遅い時間だったし、見ている人も他にいなかった筈です。
声は大きかったけど、他の階や教室に聞こえる程ではなかったと思いますし-
 姉弟の微笑ましいやりとりで多少は肩の力が抜けたのか、赤井 雪江は涙目で微笑みながら、二人の言葉にそう答えた。

 それからしばらく俺達は他愛ないことを話し、そうこうしている間に何時の間にか時間が過ぎていた。
やがて仕事があるからと赤井 雪江が席を立ち、深雪がそれに付いて店を出て行った。
 深雪の提案で、携帯電話の番号とメールアドレスを交換しておいた。念の為という何とも曖昧な理由ではあったが、
赤井 雪江にはまだまだ聞きたいことがあったので、その提案は俺にとっては好都合だった。
-…行くか-
 灰皿に何本目かの煙草を押し付け、邑上が腰を上げ、持ってきたトレイに空になった4人分の珈琲杯を重ねる。
伝票はどうやら俺の役目のようだ。斜めに切った透明な竹のような入れ物から丸まった伝票を取り出し、俺もまた席を立つ。
 その時、立ち上がろうとした俺の肘が邑上の持つトレイの端に触れた。トレイが傾き、4つの珈琲杯がゆっくりと
床めがけて落下していく。俺は見えない糸に引っ張られるようにそれに手を伸ばすが、珈琲杯は伸ばした手を
すり抜けるように、無慈悲にも床に激突した。
 陶器の割れる甲高い音が響き、砕け散った破片の白が俺の視界を埋め尽くす。
 おかしい。こんなことは起こらなかった筈だ。
 刹那、不条理な疑問が俺の頭に浮かんでは消え、それと入れ替わるように視界を埋め尽くしていた白が、眩暈のような
純白の光に変わった。

 そして、珈琲杯が砕けるように、曖昧だった記憶の世界は唐突に終焉を迎えた。その眩しさに目を閉じた瞬間、
瞼の裏側に住むあの少女が微笑だような気がした。



 そうして俺は目を覚ました。ベッドの下には、電池を使いきって沈黙したボイスレコーダーが転がっている。黒色の長い
コードがそれから延びて、ベッドの上の枕の上に転がるイヤホンに繋がっていた。どうやらこれを聞いたまま
眠ってしまったらしい。窓の外はすっかり闇が晴れ、聞きなれた、しかし名前も知らない鳥たちの歌声が
朝の到来を告げていた。
 目が覚めきっていない。なんだかまだ、先程まで視ていた昨日の夢の続きが脳にこびり付いているような気がして、
俺はテレビのリモコンのスイッチを入れた。チャンネルは何でも良い。特に興味も無いニュースをキャスターが熱心に
語っているのを横目に、俺はインスタント・コーヒーを入れる。服装は昨日のままのようだが、まあ問題ないだろう。
 ふとポケットに手を入れると、指先が何かに触れた。硬くて端が尖っているが、弾力があり簡単に折れ曲がる。
取り出してみると、それは昨日赤井 雪江から預かった失踪した少女の写真だった。其処に映されたものが視えないので
俺が持っていてもあまり意味がないのだが、他に適任者がいるという訳でもなく、かといって雪江に返すのも白けるような
気がして、結果なし崩し的に俺が持っていることになったものだ。
 何気なく、その被写面に目をやる。本当に何気なく、意味もなく。だがその行為は、起き抜けの俺の脳を完全に
覚醒させるだけの強烈な情報を俺に寄こしてきた。

 その写真の中で、あの少女が微笑んでいる。

 頭を振って瞬きをする。目を開いた時には、写真に写っていたものは元の幾何学模様のようなあの訳の分からないものに
戻ってしまった。しかし衝撃の余韻は大きく、俺はしばし呆然としてしまった。
 俺がこの写真に写されたものを視ることができる訳はないのだ。俺はこの写真を見たことはないし、例えあったとしても
それに確信を持てなければ、やはり視えることはない筈だ。だから、今視えたのは幻視。さっきまで視ていた夢の続きに
過ぎない。しかし…



 俺は加嶋 霧子に逢っている。

 根拠なんてない。それでも、俺はそう確信した。



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