|
「初めまして、赤井 雪江(あかい ゆきえ)と申します。麻布中学校で国語を教えさせて頂いています。深雪ちゃんとは、
大学の頃のゼミの先輩後輩です」
喫茶店に現れたその女性は、疲れて擦れた声でそう名乗った。
なんとか乗り込んだバスから降りると、突然目の前が開けた。最初に視えたものは、30分程前に視たものからは
多少人通りの少なくなった、駅前の風景だった。
俺の目は、いや、俺の脳は、どういうルールで俺の意識に在りもしない視覚を捏造しているものやら。行きには視えた筈の
バスの中の風景は、帰る為に乗り込んだ時にはあいも変わらぬ漆黒の闇のままだった。ひょっとしたらこのまま偽りの光さえ
無くしてしまうのではないかと、バスに揺られている最中ずっと、俺は気が気ではなかった。
「位置を調整していたんだろうと思う。お前の脳はお前の身体が記憶にあるどの場所にいるのかを常にシミュレートして
視覚を構成している訳だから、一度自分の位置を見失うと、今立っている場所が記憶にある程度の場所か
確信出来るようになるまで記憶を投影しない訳だ」
勉強になるなと完全に人事の様子で邑上が説明をしてくれる。視えなかった時はあれ程に不安だった悪友の顔も、
視えてしまえばなんとも小憎らしいものでしかない。それでも、俺自身良く解らない俺のことを解り易く説明してくれるのは
ありがたかったが。
駅前のドトール・コーヒーはすぐに見つかった。勿論、俺に視えているということは、其処へ至る道のりの全てを俺が
記憶していたということだ。道に迷うことなどありはしない。
喫茶店はそこそこに混んでいたが、それでも4人で座ることの出来る席はいくつか空いていた。そのうちの一つ、
喫煙席にすばやく陣取り、邑上は俺にホットの珈琲を所望してきた。どうやらまた奢るはめになりそうだが、俺は構わなかった。
自分で給仕が出来ることの素晴しさに感動しつつ、俺は二人分の珈琲を受け取って席につく。
邑上が最初の煙草に火を燈けるより早く、彼の携帯からメールの着信音が鳴り響いた。ささいな雑音を店内に
ばら撒いたことを悪びれもせず、邑上は器用にも片手だけでその内容をチェックする。どうやら、先方の都合がついたらしい。
邑上は今いる店の名前を返し、しばしおあずけになっていた煙草に口をつける。
「今更蒸し返す訳じゃないが、お前が視たっていうその少女を追ってどうするつもりなんだ?仮にこれから会う人の話が
その娘のことだったとしても、お前の話を聞く限り、どう考えてもその娘はもう死んでいるんだぜ」
邑上は特に興味もなさそうにそう問う。どうやら俺がこの件を調べたがっていることが、事故の原因究明や
犯人逮捕などではなく、その少女自身に理由があることに当たりをつけたらしい。特に嘘をつく理由もないので、
俺は正直に答えることにした。
「解っているよ、それは。でもこうして関わっていけば、少なくとも彼女が誰だったのか分かるじゃないか。何より、
俺は彼女に関わりたい、探したいんだよ」
ふうん、と邑上が気のない返事をする。自分から話題を振っておいて腹の立つ態度のようだが、別にこいつが俺を
馬鹿にしている訳でも、まして質問の答えに興味がなかった訳でもない。こいつが人から話を聞く時は、たいてい
こんな態度なのだ。そう、講義以外でゼミの教授の話を聞く時だけが、俺の知る例外である。
それが解るくらいには、こいつとの付き合いは長い。
「手段が目的になってしまった訳だ。お前らしいといえば、お前らしいのかもな」
そう呟いてから、ふと思いついたように邑上が付け足した。
「でも、お前が視たことそのままを、これから来る人には言うなよ」
「なんでだよ。正気を疑われるからか?」
「馬鹿。考えてもみろよ。その人はあくまで失踪した知人を探しているだけなんだぜ。それが、ろくに状況も解らないまま
死んでいるかも知れませんじゃ、救いが無さ過ぎる。可哀想じゃないか」
成程、と俺は納得した。ぶっきらぼうな態度ばかりとるこの男は、そういうことに対しては意外にも気の回る方だ。
それも長い付き合いで分かっていたことの一つだったのだが、こちらの方は忘れていた。
「でも、その、深雪さんが既に話しているんじゃないのか。話題を持ち出した時は、そのまま伝えているだろうし」
「姉貴にさん付けなんかしなくても良い。まあとにかく、その場合はだな…」
言い終わる前に新しい客が喫茶店の扉を潜る音がした。二人の女性、片方は邑上 深雪だった。店内を見渡して
俺達に気付くと、彼女は何事かをもう一人の女性に告げてレジの方に歩いていった。おそらく、珈琲を取りに行ったのだろう。
残された女性は、少し戸惑った様子を見せたが、意を決したように真っ直ぐ俺達の方に向かって来た。どうやら、
重要な情報の予感に緊張していたのは俺だけではないらしい。
「初めまして、赤井 雪江と申します。麻布中学校で国語を教えさせて頂いています。深雪ちゃんとは、大学の頃のゼミの
先輩後輩です」
女性…何故俺に彼女が女性だということが判るのだろうか。彼女の貌は道行く人々と同じく、俺には視えない。
貌があることは判るし、そのことに特に違和感もないのだが、その特徴を覚えようとしてもさっぱり記憶出来ないのに。
男性か女性か、大人か子供か。喫茶店に現れた二人のうちの片方が何故知人だと判ったのか。おそらくは、足音や
気配から当たりをつけているのだろうが、考えてみればなんとも不確かな話である。
それでも目の前に現れた彼女は、明らかに女性であった。声の高さと響きが、男性ではあり得ないことを告げていた。
美声とまでは言えないが耳に心地良い声。しかし普段は潤いがあるのだろうそれも、今は疲れて擦れている。
失踪したという知人を心配してのことだろうか。考えているうちに深雪が珈琲を2杯トレイに置いて持って来た。
「雪江さんは大学の2つ上の先輩でね。同じ雪繋がりで親しくなったの。
先輩、こちらが昨日話した弟の友人の卯波 直人君で、隣の目つきの悪いのが愚弟の信司です。」
深雪が砕けた口調で俺達を紹介する。口ぶりを聞く限り、確かに親しい間柄なのだろう。しかし、紹介を受けた女性、
赤井 雪江の方は緊張からか、硬い声のままでもう一度宜しくお願いしますと繰り返しただけだった。俺達も慌てて
自己紹介をする。
「卯波です。今日は時間を頂いてありがとうございます」
「目つきの悪い弟です。大学では姉の面倒を見て頂いていたようで、大変ご迷惑をお掛けしていたことと心苦しく思います」
深雪が弟を軽く睨む。邑上のほうは涼しい顔をしている。あまり似ていない姉弟だと思っていたが、物怖じしない
という点では、確かに血を分けてはいるようだ。
数秒、会話が途切れる。俺が口火を切るべきなのだろうが、どうにも緊張しているのか、上手い言葉が出てこない。
彼女の方もそれはどうやら同じらしく、話題を切り出すタイミングを掴めないようだ。
アクティブな雰囲気のある深雪とは対照的な、落ち着いた、悪く言えば弱気な女性なのだろう。おそらく、
今は少し俯いている。ふと、彼女が眼鏡をかけているような気がした。後で邑上に確認してみよう。
「それで。彼女に卯波のことをどういう風に話したんだ?」
良い加減埒(らち)が開かないので覚悟を決めて口を開きかけた瞬間、邑上が姉にそう問うた。
「事故に遭って視力を無くされたと深雪ちゃんから聞きました。その…失礼ですが、とてもそうは見えないのですけれど。
やっぱり、不思議なことはあるものなのですね」
深雪に向けられた質問に、赤井 雪江が直接答える。どうやら深雪は彼女に俺の奇妙な状況のことを既に話しているらしい。
今度は邑上が姉を軽く睨むが、深雪はそ知らぬ顔で珈琲の香りを嗅いでいる。喉の渇きを思い出して、俺も一口啜る。
「どうもこいつは無くなった視力を記憶で補おうとしているみたいですね。視力を無くした人間がそれを補うために他の感覚を
発達させるという話は良く聞きますが、それが記憶だというのは俺の知る限りこいつだけですね。おかげでうちの姉が子供に
視えるなんてことを言い出す始末です」
「ひどい話でしょ?先輩」
邑上がいつものように俺をだしにして薀蓄(うんちく)を語り、その言葉を姉が引き継ぐ。この二人が同席してくれたことに、
俺はこっそり感謝した。彼らのおかげで場の雰囲気がかなり緩和されている。俺と赤井 雪江だけでは、なかなか話が
進まないだろう。
「まあ、そんなところです。事故に遭った当日のことは覚えていないんですが。
でも、どうやらその日に…」
「霧子ちゃんに逢った…かも知れないんですね」
先ほどまで姉弟の言葉に曖昧に笑っていた女性が、急に強い声で俺の言葉を遮った。彼女の目は、今は真っ直ぐ
俺の目に向けられている。
「加嶋 霧子(かしま きりこ)。私が副担任を勤めるクラスの女の子で、中学2年生です。卯波さんは、霧子ちゃんをその日に
見たんですね?」
先程までとは打って変わった強い口調で、雪江が俺にそう詰め寄る。
加嶋 霧子。それがあの少女の名前なのだろうか。あの日、レンガの石畳の上に横たわっていた、美しい亡骸の
名前なのだろうか。
「予め断っておきますが、赤井さん。こいつは視たと言っているけれど、視たのはこいつだけで、他の誰にもそれは
確認出来ないんです。本当に彼女を見たことがあったのかも怪しいし、仮に見ていたとして、それが貴女の捜している人で
あるかどうかは…」
「この子です。写真を持ってきました。貴方が視たのはこの子ですか?」
赤井 雪江が鞄から何かを取り出す。写真だ。
俺が受け取ると同時に、邑上姉弟が身を乗り出してそれを覗き込む。
「可愛い子ね」
深雪が溜息まじりにそんな言葉を呟いたのだから、きっとそうなのだろう。
しかし、俺にそれを確認することは出来なかった。俺の目には、写真の中の少女は映らなかったから。俺に視えるのは
モザイクのように曖昧な模様だけ。少女の顔はおろか、服装も背景すら確認することは出来なかった。
「どうだ?」
小声で確認する邑上に、俺は小さく頭を振る。俺に確認出来るのは、手の中にある光沢写真特有のべとべとした
感触だけだ。
「本当に視えないんですか?ちゃんと確認してください」
苦々しい思いをしていたのは彼女も同じだったらしい。責めるような、縋(すが)るような口調で俺に詰め寄る。
「すみません」
俺が謝ると、赤井 雪江は大きな溜息を吐いて頭を抱えた。その必死な様子に、俺は少し罪悪感を覚えた。彼女は、
おそらくは失踪したという少女のことをとても真剣に心配しているのだろう。それを俺の勝手な想いから、悪戯に
刺激してしまったのではないか。今更ながら、この席を設けたことが軽筈みだったのではないかという気がしてきた。
それが、俺だけでなく彼女も望んだことだとしても。
「なあ邑上。写真に写っているのはどんな娘なんだ。特徴だけでも分かれば、俺の視た少女かどうか判るかも知れない」
いずれにしろ、今更後には引けない。ならばなんとしてもあの少女を見つけるだけだ。墜ちかけた気分を振り払って、
俺は邑上に問う。
「どんな、って言われてもな。姉貴の言うとおり、かなりの美少女なんだが、誰もが認める美女やら美男子っていうのは、
たいてい特徴がないものなんだよ。
お前の視たっていう少女こそ、どんな娘だったんだよ?そっちの言う特徴が写真の娘と合っているか比べてやるから」
そう言われて、俺は言葉に詰まった。あの時に視た少女は、今でも俺の瞼の裏側に住んでいて、何時でも会うことが
出来る。しかし、特徴と言われると確かに難しい。赤井 雪江やその他事故に初めて出会った人のように特徴が捕らえられない
というのではない。均整が取れすぎていて、特徴として上手く挙げられないのだ。
「そうだな。俺の視た娘も美少女だったけど、確かに目立つ感じの顔立ちではなかったと思う。敢えて挙げるなら…髪は
肩口ぐらいで切りそろえていて、肌が白い分髪黒さが際立っていたくらいかな」
「身長とか体型とかは?」
「立っているところを視た訳じゃないけれど。うん、多分平均的な女子中学生よりは少しばかり背があるように視えたかな。
身長と比べると、体型は痩せ気味かな」
ううん、と邑上が考え込むような素振りをする。
「概ねそんな感じなんだけれどね。でも、それだけだと何ともなあ…」
「服装は?卯波さんが視たという女の子はどんな服を着ていましたか?」
続く邑上の言葉を遮るように、赤井 雪江が俺に尋ねる。俺は再び瞼を閉じて、彼女の姿を呼び起こす。
「白ですね。白一色って訳でもないけど、白が基調の服とスカートを履いていたように思います。スカートは、結構丈が
長かったかな」
「霧子ちゃんだと思います。いつも、私服でいるときはそんな服装でしたから」
赤井 雪江が伏目がちにしてそう答える。その、霧子という少女を想っているのだろうか。
「先輩、学校以外でもその子と会っていたんですか?私服の趣味まで知っているなんて」
「え?ええ。その、色々と問題のある子だったから…」
その答えに、深雪が興味深そうに頷いた。教師志望の彼女としては、教育者かくあるべしとでも思ったのだろうか。
成程、赤井 雪江の言動は、失踪した自分のクラスの一生徒を心配してというには、やや行き過ぎている感がある。
そこまで考えて俺は彼女、俺の視た少女ではなく、赤い雪江が副担任をしているクラスの女生徒、加嶋 霧子という
少女のことを何も知らないことに思い至った。
「その娘のこと、詳しく教えて頂けますか。失踪した日とか、その時の状況とか」
俺のその言葉に、赤井 雪江はわずかに居住まいを正した。
そして彼女は語りだす。幻想の中に消えた、その少女の話を…
|