Ⅱ   魔術師かく語りき



 「お前は事故に遭って失明した…正確には、失明したと診断された。にも関わらず、お前自身にはものが視えている、と。
つまりはそういう訳だ」
 自称魔術師がいつもの訳知り顔でそう纏めた。
 彼、邑上 信司(むらかみ しんじ)とは中学時代からの友人である。高校こそ別だったが同じ大学に通っており、
従って彼もまた故郷の僻地からこの中途半端な都会に上京してきた仲間である。
 しかし、3年ぶりに異郷の地で会った友人はすっかり変わっていた。いや、外見や性格が大きく変化していた訳ではない。
 同年代の男子の平均よりやや低い身長、色の薄い髪。大人びた、悪く言えば老けた相貌には瞳ばかりが輝いて若さと
それに見あった好奇心を主張している。熱しやすく冷めやすい性格も、中学卒業当時と見違えるほどに変化した訳でもない。
それでも変わったと感じるのは、ひとえに彼が新しく仕入れた特異な趣味によるものであろう。
 隠秘学(オカルト)。
 オカルト、というと一般人はまっさきに幽霊やら宇宙人やらを想像してしまうところだろう。しかし、オカルトとは本来
隠れた(オカルト)の意であり、それらに限るものではないらしい…と、これは彼の言である。彼の興味の対象は、
その中でも魔術という、特に胡散臭い分野に向けられていた。
 魔術などというと、一般には黒ミサやら悪魔崇拝やら、アンチ・キリスト的な発想に囚われがちだが、彼に言わせれば
そんなものは幼稚すぎて魔術にはとても含めないものらしい。魔術とは、数学、科学、工学、医学、哲学、宗教が
未分化だった時代の学問の一種であり、世間で思われているより遥かに理論だったものだ、とのことである。
 もっとも、その基準となるものが論理学ではなく芸術(アート)であった為、多くに理解されずに廃れていった。

‐天使や魔神(デーモン)といった概念は今でこそ擬人化されて伝わっているが、本来は輪郭(かたち)があったり考えたり
話したりするものではない。比喩なんだよ。
 魔術で表現される言葉、神やその登場する神話、地水火風の四大元素に至るまで、本来は輪郭(かたち)のない性質や
属性、或(ある)いは事象の原型(アーキタイプ)を示すものなんだ。他人とは共有出来ないし、仮に出来たとしてもそれを
証明することは出来ない概念。だから廃れたんだろうな‐
 しかし、概念だけでは何も出来ないだろう?
‐そうでもないさ。概念だけでも、人に利益や害を齎(もたら)すには十分だ。
 そうだな、例えば数字だ。
 最初に数を数えだしたのが誰かなんて俺の知る由もないが、仮に彼が現れる前にだって、世界は今と何も変わらずに
存在していた筈だろう。
 でもピタゴラスが生まれてから世界の意味は明らかに変わった、変わった筈だ。全てのものが計測され、比較され、
計算されるようになった。数字が発明されたことによって、此処に在るものの意味を別の何かに移し変えることが
出来るようになった訳だ-
 解ったような、解らないような。
 数字っていうは、それはそれ自体には輪郭のない概念だろうけど、必ず輪郭のあるものに付随して使われるじゃないか。
概念だけで利益があるものの例としては、不適切なんじゃないか。
-やれやれ、それがソフトウェアを専攻している大学生様のお言葉とはね。まぁ、確かにお前の哀れなお味噌には、
ちょっと難し過ぎたみたいだな-
 哀れなのはお前の説明力の無さだと、俺は思うんだけどな。
-分かったよ。もう少し解り易い例を挙げようか。
 そうだな。ラプラスの悪魔、って言葉を聞いたことがあるか?-



 「お前は事故に遭って失明した…正確には、失明したと診断された。にも関わらず、お前自身にはものが見えている、と。
つまりそういう訳だ」

 はっとする。どうやら、僅かな時間俺は物思いに耽っていたらしい。目の前にはさっきよりやや機嫌の悪そうな悪友の
顔があった。
 そう。彼の今言った言葉が、今の俺の不可解な状況をもっとも簡潔に纏(まと)めたものだった。
 両目を覆っていた包帯を外した瞬間から、俺の両目は目の前に在る風景を鮮明に映していた。それは、事故に遭う遥か
以前に見た病室の風景と、なんら異なるものではなかった。
 「誤診ってことはないのか?」
 誰もが思いつくようなことをわざわざ尋ねてくる。勿論そんなことはない。
 「あり得ると思うか?」
 「あり得ないよな、やっぱり」
 そっと右目に触れてみる。心の窓だとも鏡だとも例えられるそれは、そう例えられるに相応しい、冷たい感触を指先に
返してくる。
 右目は偽眼である。生まれた時からその場所に収まっていたものは、挨拶もなく頭に落ちてきた無礼な鉢植えだかの
破片が刺さり、完全に潰れてしまった。一方、彼の相棒はというと、輪郭こそ変わらないものの、視神経に重大な損傷を
受けてしまったらしい。
 いずれにしろ、医学的には失明している筈なのだ。偽眼に触れた指先の感触は硬く、明らかに生きた肉体のものとは
違っている。いやそれ以前に、これがまともな眼球なら指先で触ることなど出来る筈はないではないか。
 だというのに、この作り物の目は今間違いなく、見慣れた友人の顔を映している。
 「まあでも、良かったじゃないか。一体お前が何を使って視ているのかは知らないけれど、そのおかげで独りで此処まで
来られたんだろう。電車まで乗りついで、さ。
 お前の部屋から此処まで、とても目を瞑って来られる距離じゃないのにな。」
 「…おかげ様でね」
 そうなのだ。俺の部屋から邑上の部屋までは、電車で15分程かかる。駅からお互いの部屋まで歩く時間も合わせれば
20分くらいはかかるだろう。勿論真っ直ぐな道だけである訳はない。
 小学生くらいになれば子供でも独りで来られる道のりではある。しかし彼の言うとおり、盲導犬も無しに視力を失った人間が
おいそれと来られる距離の筈はなかった。
 あのまま永遠に光を失うことを考えれば、どんな理由であれ今の事態は歓迎すべきことだろう。しかし手放しで喜べる
事態とは言い難い。理由が解らないのであれば、車道の真ん中で、いやそれこそ今すぐにでも、突然何も
視えなくなってしまうのかも知れないのだ。
 「それに狂人扱いされるのは勘弁して欲しいしね。医者や看護婦に話したときの対応と来たら、酷いものだったよ。
ショックのあまり現実を受け入れられなくなっている、ときたもんだ」
 「普通はそう考えるだろ」
 俺が医者ならとっとと檻のついた病室に放り込むけどな。邑上がそっけなく言い、その後にやりと笑った。
 「しかし、狂人扱いが嫌なら証明して見せれば良いじゃないか。病院なら、視力やら色覚やらをテストする機材があるだろう。
理屈はどうであれ、視えているなら仕様がない訳だし。
 それとも狂人の相手なんかしてくれなかったのか、お前の主治医は」
 じりっ、という羽虫のような音がして、彼の手にある煙草が灰になって落ちた。邑上は視線をこちらに向けたまま、
フィルターだけになった煙草を空き缶の飲み口に放り込んだ。
 俺は世話になった主治医のフォローを軽く入れた後、自分にとってもっとも不可解なことを告げる為の息継ぎをした。
 「それが…視えなかったんだよ。病院の壁や先生や兄貴や、勿論お前の顔もはっきり視えているのに、どういう訳だか
文字や記号は読めないんだ。文字が書いてある、ってことは判るのに、なんだか霞んだみたいになって何の文字だか
判読出来ないんだよ」
 自分の言葉に不安になった俺は、別に漢字が読めなかった訳じゃないんだぜ、と軽口を挟んでみるが、友人はそれに
反応せず考え込むような仕草で組んだ手を入れ替えた。
 「視えないのは文字や記号だけなんだな?他のものはちゃんと視えているのか?」
 「いや、昔読んだ本とかは読めるものもあるんだ。新しいのは全部駄目だったし、文庫やコミックなんかは全滅だったけれど。
 人の顔なんかも霞んで見える人はたまにいて、病院で試されたときは全滅だった。
立っている位置だかとか男だとか女だとかはだいたい判るんだけど」
 さっぱりだよ、という言葉を溜息に混ぜて吐き出すと、邑上の方も、それは難しいなと今度は煙草の煙を含まない透明な
言葉を吐き出した。

 その後はビールを飲みながらなんだか取りとめもない話をした。邑上はしきりに電波だとか霊視だとか果ては精神感応
(テレパシー)だとか口に出しては、いやしかしと自分でけちをつけて、結局笑い話にしていた。俺はというとなんだかどうでも
良くなって、一緒に笑い声を上げて、おそらくは薄いだろう壁の向こうの見知らぬ住人の安眠を妨げていたことと思う。
 2時間程そうしていたと思う。邑上は換気すると言って立ち上がり、窓を開けた。俺も新鮮な空気が吸いたくなって立ち上がり
窓の外の暗闇を見つめていると、急に邑上が、
 「お前、あそこにいる人、視えるか?」
などと言ってきた。
 辺りはもう薄暗く、人影など視えなかった。俺がそう告げると、邑上は電柱の下だよ、明かりがあるから見えるだろう、
と続けた。
 そう言われてみると外灯の下に人影がぼんやりと浮かび始めた。最初は霧の塊のようにしか見えなかったその人影も、
歩き出して硬い皮靴の音をアスファルトの響かせると、急にスーツらしきものを着たサラリーマン風の男になって街頭の下から
暗闇へと再び消えていった。
 「こんな遅くまで、会社人は大変だよな」
 俺がそう言うと、邑上は何かを思いついたように部屋の中を漁り始め、やがて一冊の本を見つけて俺に手渡してきた。
渡された本には何処か懐かしい重みがあった。
 「それ、読めるか?」
 そう言われ試しにページをパラパラとめくってみたが、蚯蚓(みみず)がのたくったような黒いものが視えるだけで、とても
読めたものではなかった。
 「それ、お前に借りた教科書だぜ」 
 え、と驚いて改めて見てみると、自分の落書きの跡のある汚らしい教科書が目に映った。間違いなく、俺が邑上に
貸したものだった。
 「何だよ。随分前に貸した奴だな。早く返せよ」
 俺がそう言うと、邑上はにやりと笑って何かを言おうと口を開いた。
 薄暗い部屋に突然響いた携帯の音がその口を遮る。邑上の携帯が鳴っていた。
 軽く舌打ちをして邑上は携帯を取り、小声で話し始めた。時刻はそろそろ10時を回る頃。近しい人間からの電話なのだろう。
少し居心地が悪くなり窓の外を眺めていると、話し声はすぐに止んだ。何時の間にか、邑上は俺の方を見ながら話していた。
 「こうタイミング良く機会が訪れると、つくづく俺は神に愛された人間なんだな、って思うよ」
 自称魔術師が、不遜な上に訳の解らないことを言う。
 「お前、今日はもう帰れよ。明日の朝、こっちから訪ねるからさ。多分お前の目のことも、その時に解ると思うよ」
 急にそんなことを言って、意味ありげに笑う。それは邑上が絶好の皮肉を思いついた時にいつもする表情だった。
 訳が解らないうちに俺は部屋から追い出されてしまった。仕方なく俺は、アパートの階段を下りて外に出た。
 彼の部屋の窓はまだ開け放たれたまま、邑上が新しい煙草に火を燈けていた。



 自称魔術師の煙草から糸を引く白煙が、月明かりの下で五芳星形(ペンタクル)を描いたような気がした。



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