Ⅲ   路地裏に咲いた光景



 卯波 直人(うなみ なおと)。それが俺の名前だ。
 その名前が書いてある表札の前、つまり俺の部屋の前で、俺はこの上なく困惑していた。
 時刻は午前10時といったところ。起き抜けに確認した携帯の時計は病院でやったテストと同じように霞んでいて
読めなかったが、テレビから流れた朝のニュース番組で新人キャスターが言っていたのだから多分間違いはないだろう。
 今、俺の目の前には二人の人物が立っている。
 一人は邑上だった。着たきり雀になっているのだろうか、昨日も着ていたお馴染みのチェック柄の服に身を包み、おそらくは
間抜けな表情を浮かべているだろう俺の顔を楽しそうに眺めている。
 もう一人は少女だった。小学校高学年か、或いは中学生といった年頃だろう。利発そうなその顔には、隣に立っている
不精な男とは違って、心配するような、気まずいような表情を浮かべている。
 これだけなら別に俺が困惑するような事態ではない。仮に俺の旧友が道ならぬ恋やら危ない犯罪やらに走ったのだと
しても、俺は冷静に警察に通報できる自信があった…事実、さっきまでそうしようかと、半ば本気で考えていたくらいだ。
 俺がそうしなかったのは彼女が自己紹介をしたからで、つまりそれが俺の困惑の原因であった。
 彼女の小さな口からは、こんな言葉が発せられたような気がするのだ。

 「こんにちは、直人君。お久しぶり。
 信司の姉の深雪(みゆき)なんだけど、あたしのこと覚えてる?」

 隣に立っている不精な上に底意地悪い男のにやにや笑いは、今や最高潮に達していた。



 俺と邑上 信司の付き合いは長い。幼馴染と言っても間違いではないだろう。それは、高校時代が抜けているとはいえ
今も続いている訳で、お互いの家族のことなどもだいたい把握している。
 確かに邑上には1つ年上の姉がいた筈だ。いや、子供の頃はお互いの家に遊びに行くことも結構あったので、
彼の姉である邑上 深雪とも何度か会っているだろうし、話したこともきっとあったのだろう。もっとも、友人の家族、特に
姉弟(きょうだい)などというものは意外に疎遠なもので、彼女のことを俺が覚えていなくても、それは責められる程の
ことではないと思う。
 それでもおぼろげな記憶をまさぐれば、確かに彼女の姿には見覚えがあった。肩辺りで切りそろえた淡い色の髪、
利発そうな顔、耳に心地よい透き通った声も、確かに俺が子供の頃に見た少女そのままだ。
 そう、あの頃のままなのだ。あれから数年が経った今、彼女は22、3歳にはなっている筈だ。少なくとも、信司と同い年である
俺より年下などということはあり得ない。
 今俺の目の前にいる少女は、どう視てもせいぜい中学生といったところで、いかに童顔であったとしても、背が低かったと
しても、20歳を超えた大人の女性では断じてない。
 「俺の姉貴とは久しぶりに会ったと思うが、どういう風に視える?」
 困惑して黙りこんだ俺に信司が言った。
 「どうもこうも。からかっているんだろう? それともお前の姉は、お前の怪しい魔術の犠牲になって子供の頃から成長が
止まってしまったとでも言うのか。冗談はよせよ。」
 「ちょっと直人君。それ、どういう意味?」
 少女が眦(まなじり)を吊り上げて抗議の声を上げる。しかしその仕草も、まるで誰か大人の女性を無理に真似たような、
子供っぽいものにしか視えない。
 「そんなことが出来たら、それは魔術じゃなくて魔法だよ。魔法なんてものがこの世に存在しているとは知らなかった
けれどね。いずれにしろ、それにかかっているのは多分お前の方だよ」
 邪魔するぜ、と呟いてから、邑上が俺を押しのけて部屋に上がりこんできた。彼の姉と名乗った少女も先程の心配するような
視線で俺を見上げてから、無言で彼の後に続いた。
 本来部屋の住民である筈の俺はというと、彼らの後に続くのをどこか空恐ろしく感じていた。きっと邑上は俺の
状況について、なんらかの見解を見出したのだろう。
 立て付けの悪いこの扉を潜れば、それを聞かざるを得ない。
 
 今日の空の青さを30秒ほどで確認した後、俺は意を決して部屋に入った。
 ばたんと、後ろで運命の閉じる音がした。



 「つまり俺のは目はやっぱり見えてなくて、俺が視えていると思っているのは俺の記憶だと。つまり、そういうことですか」
 「信司が言っていることが正しければね。あの子、自信満々な顔で結構適当なこと言うから」
 時刻は11時30分。1月だというのに真上から差す日差しは強く、コート無しでも外を歩ける程だ。それでも今、
お気に入りの黒いジャンパーは俺の体温を守っている。
 俺達、つまり俺と邑上 深雪は、特にあてもなく近辺を散策していた。押しかけて来た当の友人はというと、他人の部屋で
勝手にお茶を淹れて飲んだ後、言いたいことを言うだけ言ってさっさと帰ってしまった。調べ物があるんだとか。
 そんな挙動不審の弟と一緒にいるのが嫌だった訳でもないだろうが、彼の姉の方は部屋に残った。なんでも別の用件で
たまたまこちらの方に来ており、そのついでに弟の友人である俺の見舞いに寄ってくれたらしい。これから知人に会いに行く
予定なのだそうだが、中途半端に時間が余ってしまったとか。
 そんな事情で彼女と二人きりになってしまった訳だが、良く知りもしない男女が狭い部屋で二人きりというのは何かと
息が詰まるもので、5分程を気まずい沈黙に費やした後、深雪が外食がてら外を散策しようと言い出したのである。
俺としても、信司の言っていたことを確認する意味でも、その提案はありがたかった。年端もいかない少女と住宅街を
歩くのはそれだけで後ろめたい気がしてしまうのだが、信司が言うには彼女がそういう風に見えているのは俺だけらしい。
-お前が見ていると思っているのは、お前の記憶なんだよ-
 信司はそう切り出した。
-お前は其処にあるだろう物や人物に対し、自分の記憶の中にあるものを当て嵌めて視ているんだ。実際に
見えている訳じゃない。その、お前には残念なことかも知れないが…-
 どういう意味だよ。それに何でそう思うんだ。
 我ながら高い声が出たものだと思った。そのつもりはなかったが、少しばかり興奮していたらしい。
-例えばお前はこの部屋にずっと住んでいるよな。この部屋のことは熟知している筈だ。この部屋程ではないが
俺の部屋にもしょっちゅう来ていたからな。間取りや小物の配置なんかは覚えているだろう。その記憶を組み立てて
映像にして、それを視覚として認識しているってことだと思う-
 想像力が視覚並みになっているんだよ、今のお前は。邑上がそう纏めた。しかし、そんなことがあり得るのだろうか。
-普通はあり得ないだろうさ。聞いたこともないよ。でもお前は昔から多芸だったからな。とりわけ、記憶力に関しては
異常だったじゃないか-
 直人君、頭良かったよね、そういえば。それまで沈黙を守っていた少女が呟いた。
 確かに。多芸と言った邑上の表現はどうかと思うが、俺には昔から色々と特技があった。時間感覚もその一つだが、
その他にも絶対音感だとかも備わっていたと思う。 
そんな使うあてもない無駄な才能の一つが特殊な記憶力だった。それは、一度でも見たり触ったりしたものなら後から
いつでも設計図を書くことが出来るという言わば輪郭の記憶力で、こう言うと友人に羨ましがられたりするのだが、
これは文字や数字や過去の出来事とは全く結びつかず、従って工作以外の授業には何の役にも立たないという
実に無意味なものだ。
いや、無意味なだけなら構わない。しかし、こうして頭の中にしまい込まれた設計図は何かの拍子に思い出してしまうことが
あり、それは頭を悩ます程の問題ではないにしろ、うっとおしいものだった。
大学に進学した俺が情報処理という分野を志したのも、実はこれが理由だった。
決まった目的の為だけに作られた、複雑で歪な輪郭をした実験装置。もし理系の他の分野を専攻すれば、いずれそれらを
目にし、触れなければならなくなる。俺は、それらに脳の領域を蹂躙されるのが嫌だったのだ。今の学部にいる限り、
コンピュータ以外の機械に触る機会はあまりない。
しかし、俺にとっては厄介なものとはいえ、その記憶力には自信があった。今まで目で見たものとその設計図を
見間違えるようなことは決してなかったし、それに今の俺には見たことがある筈もない他人や車も視えているのだ。
-それは勿論、失明したからだろう。どんなに想像力があったとしても、実像があるうちはそれには敵わないさ。それと
見たことがないものについては、ありそうな記憶を使って無理に埋めているんだろう。
 例えば、昨日の夜中に俺の部屋の窓から見た社会人、どんな顔だったか覚えているか?-
 聞きに徹していた俺は急に回答を求められ言葉に詰まった。昏(くら)かったし、良く覚えていない、特徴の無いありきたりな
サラリーマンだったように思う、俺がそう答えると邑上は意外なことを言った。
-昨日窓か見えた人影、サラリーマンじゃなかったよ。革靴を突っ掛けた小母さんだった。きっと履物が見つからずに、
たまたま其処にあった夫だか子供だかの革靴を履いて外に出たんだろうな。急いでいたのかな-
その言葉は、俺にとってにわかには信じ難いものだった。あの時、外灯の下から現れた靴音の主は、確かにスーツと
ネクタイを着たサラリーマンに視えた。
-お前は最初彼女、お前の目には彼に視えた訳か、彼女が見えなかっただろう?街灯の下にいたっていうのに。
ところが彼女が歩き出して靴音が響くと、お前にも其処に人がいることが判った訳だ。そんな時間に革靴履いて歩く奴なんか、
確かに残業帰りのサラリーマンくらいだよな。
だから、お前の目は最初彼女を映さなかったし、靴音が聞こえた後は彼女をサラリーマンにしてしまったんだよ。
お前の今までの記憶を基に、いかにもサラリーマンというイメージを作り出して靴音の位置に置いてしまったんだ。
顔を覚えていなくて当たり前さ。見ていないのだから-
でも、確かに顔はあったんだ。特徴がなくて、覚えていないだけだよ。そんな筈はないさ。
-それこそおかしいじゃないか。俺の知る限り、お前が一度でも会った人の顔を忘れたなんてこと、今まで一度だってなかった-
そう言われると、俺は反論出来なかった。
確かに俺は人の顔を忘れたことはない。偏った記憶力のせいで、貌という輪郭は取り繕った写真のように詳細に
俺の頭の中に鎮座する。ならば、彼の顔も覚えている筈だ。だというのに、いくら思い出そうとしても外灯の下に映った
その顔を、いや、顔はおろか着ていたスーツの柄ですら、俺は思い出すことが出来なかった。
-もともと人間の視覚というのは、かなりの大部分を脳の処理で補っているそうだよ。機能的に見れば、カメラのように
詳細に像を結ぶことができる筈はないそうだ。
お前の目、というか脳は、それが行き過ぎてしまっているということだろうな-



「でも、やっぱりちょっと信じられないかな。こうやって街を普通に歩けているのに、本当は何も見えていないだなんて」
時刻はもうそろそろ正午になろうかという頃だ。頂天から差す日差しがジャンパーの表面を焦がしている。それがあたかも
遥かその先にある太陽が見えるかのように、俺を騙しているのだろうか。おそらくは、そうなのだろう。
邑上の説には説得力があったが、魅力的とはとても言い難いものだった。彼は俺が今視ているもの全てを、俺が過去に
見た景色に過ぎないと言う。ならば俺の目はやはり光を喪(うしな)っていて、現在、いやこれから先の未来に至るまで、
新しいものを視界に収めることはないのだ。
その考えは絶望というものの味を俺に味あわせてくれた。例えばそれは、今俺が街を何気なく歩けるのもそれは此処が
住み慣れた街だからであって、此処か故郷以外の場所に行けばすぐさま何も視えなくなってしまうだろうことを意味する。
いや、極端な話、目の前のアスファルトが突然崖に変わってしまった時、俺はなす術もなくその深淵に身を委ねることに
なるのだ。崖が見えないのではなく、当たり前のようにアスファルトが続いているように視えてしまう訳だ。そんな様では、
見えていないより余程性質(たち)が悪いではないか。
 少しでも隙があるなら嬉々として否定したい説ではある。しかし…俺は視線を左に向ける。目線は自然と下に下がる。
その先には、おそらくは邑上の説を揺るぎないものにしている、少女の姿をした女性がいる。
確かに俺が彼女に最後に会ったのは、彼女がそれくらいの年頃の頃である。たいして印象深い話をした訳でもないだろうに、
いや、会話があったかどうかすら疑問だが、俺の脳は彼女の姿を俺に黙ってしっかりと記憶していたらしい。それが
再会した時の彼女の声と、その羅列された言葉によって掘り起こされ、今目の前に映し出されている。そう考えるより他に、
今目の前にある光景は説明のしようがないだろう。
 「確かに背は低い方だし、年より若く見られることの方が多いけれど。でも今は一応お化粧もしているし、これで中学生に
視えるようなら直人君は間違いなくロリコンね」
 勿論俺はロリコンではない。ならばやはり邑上の言ったことは正しいのだろう。しかし、やはり感情では納得出来るものでは
なかった。何か証拠になるものでもあるのなら、諦めもつくのだろうが…。
 ふと、袖を引かれる気配がした。邑上 深雪が俺のジャンパーの肘の辺りを引いている。その視線は心なしか不安気に
辺りを見回している。
 「此処、直人君が事故に遭った所じゃない?」
 そう言われてみると、確かにこの辺りだった筈だ。俺は周囲を見渡す。何時の間にか人通りも車の気配も遠ざかっていた。
元は白かったのだろう、長い年月と排気ガスでくすんだマンションの壁が、まるでその原因となった黴(かび)た空気を
吐き出しているかのように、陰気な雰囲気を醸し出している。
 俺の部屋から程近く、しかし寂れていて人が近づくことはない、住宅街の陥穽。あんなことがなければ、俺は残りの一生を
此処の場所の存在に気付きもせずに過ごしたことだろう。あんなこと、などと言ってはみたが、事故の日のことは正直何も
覚えていないのだから、何故俺がこんな所で倒れていたのかは解らないのだが。
そうだ。俺はこの場所を知らない。記憶が無い。しかし、視えているということは、俺自身が覚えていなくても脳には記憶が
しっかりと残っているということだ。
ならば其処の角を曲がった所はどうか。俺は其処で事故に遭った筈だ。もしもその時俺がその景色を見ていなかったのなら、
俺はその場所を視ることが出来ない筈だ。視えるのならば、それは俺の知らない俺の記憶。いや、それもおかしい。
そもそも何故俺は其処が事故の現場だと知っているんだ。事故後、一度も来たことがないというのに…。
 射ても盾もいられなくなり、俺は走り出す。後ろから、慌てて俺を追いかける小さな気配。くすんだ壁の角に手をかけ、
俺はその場所を振り仰ぐ。



 そして、あの日の光景が今、俺の目の前に広がった。



 「静かなのね、此処。このマンション、誰も住んでいないのかな?」
 隣から見知らぬ少女の声がする。何故そんな言葉が出てくるのだろう。この、目の前の光景が見えないのだろうか。
 そんな筈はない。それは確かに、其処に存在しているじゃないか。其処から発せられる赤いものが、濃い臭いとなって
頭蓋の内側に浸み込んでくるじゃないか。
 
 くすんだ白い壁に捕らえられた空気、それが沈む並んだレンガの地面。その上に一人の少女が落ちていた。広がった
長い髪の黒と、砕けた額から染み出した赤が、美しかっただろうその貌を隠している。
 
 彼女は・・・誰?
 
 彼女から染み出した血の赤が、レンガを辿り、壁をつたい、世界を塗り潰していく…



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