|
「邑上…」
「信司…さん」
俺と赤井 雪江が同時に呟く。
「俺だよ。誰だと思ったんだ?」
突然現れた俺の悪友は、にやりと笑ってついさっき聞いたような言葉を吐いた。
そう、彼は突然現れた。赤井 雪江の反応を視る限り、彼女にもそう見えたのだろう。昏くて白くて赤い夜に下に突如現れた
胡散臭い自称魔術師は、そう視えてしまう程に今のこの舞台には不似合いで、それが俺には何故かこの上なく頼もしく視えた。
いや、現れたのは邑上だけではない。
「信司さん…それに深雪ちゃんも…」
邑上の隣には深雪がいた。隣、というよりも、この場合は同じ場所と言った方が良いだろう。深雪は邑上に肩を預けた状態で
かろうじて立っていた。怪我をしているのだろうか、小さな口から零れる白い息は途切れがちでいかにも苦しそうだ。
意識はあるのだろうか。
「邑上…何時から其処に?それに今まで何処にいたんだ?」
俺のした質問は図らずも先程赤井 雪江にしたものと同じ。何故かさっきから同じことばかり繰り返している気がする。
「同時に二つも質問するなよ。面倒臭いじゃないか。
何時からかと問われると、今しがたと答えるしかないな。もっとも、お前らの大声は随分前から聞こえていたけれど。
それから今まで何処にいたのかという質問の答えは、あの開かずの部屋だ。姉貴が部屋の中で気を失っていたからな。
蘇生するのにちょっと手間取った。お前、姉貴が部屋に居たことに気付かなかったんだな」
俺のした質問の答えもまた、奇しくも赤井 雪江のものと同じだった。俺は赤井 雪江に目を向ける。彼女は最初に此処で
俺と逢った時の冷たい笑顔を浮かべていたが、今のそれは幾分か弱々しく視える。
「あの部屋の廊下の横にある物置だったらしい小部屋よ。貴方が部屋に入った時は其処に私が居たし、出てきた時には
深雪ちゃんが居たの。どちらの時も卯波さんは気付かなかったんですね。あんまり普通に歩き回っているから
信じられなかったのだけれど、本当に見えていないんですね」
そうか。確かにあの空間は今の俺には視ることが出来ない。この幽霊マンションの中で、以前の俺はあの場所だけには
意識を向けたことがなかったからだ。
確かにあそこに隠れられていたのでは、彼女に背後を取られていても俺には気付きようがない。
部屋から出る時は…確かにあそこの横を通り過ぎる時に人の気配を感じた記憶がある。あれは深雪のものだったのか。
あの時の俺は今以上に混乱していたし、その後すぐに邑上が現れたから、俺は感じ取った深雪の気配を邑上のものだと
思ってしまったのだ。全く、我ながら情けのない話だ。この両目は本当にハリボテで役立たずだった訳だ。
でも、俺が部屋を出る時に其処に深雪が居たことを何故赤井 雪江は知っているのだろうか。
いや、それももはや考えるまでもないか。あの後深雪は、赤井 雪江によって俺と同じ目に遭わされたのだろう。
赤井 雪江のことを心から心配していた深雪ですら、彼女の憎悪からは逃れることは出来なかったということだ。
「どうして…」
うなだれたままで深雪がうわ言のように呟く。泣きそうなその声が何とも痛々しい。
「そんなことより信司さん。霧子ちゃんが自殺したってどういう意味ですか?貴方に何故そんなことが分かるんですか?」
深雪の言葉は今の赤井 雪江には届かない。彼女はただ冷たい微笑を浮かべたまま、あの刃物のような視線を今度は
邑上に向けた。
「それより先にこちらの質問に答えて頂きましょう、雪江さん。さっき直人に、あの人と同じように、と言っていましたね。
それは誰のことですか?」
何程のこともないとでもいうように、冷たい視線をものともせずに邑上は赤井 雪江の言葉を遮る。彼女は一瞬だけ怒りの
形相を浮かべたが、すぐに諦めたように小さく息を吐いてから邑上の言葉に応えた。
「須藤 寛一。私の彼氏面をしていた男です。深雪ちゃんと卯波さんは会ったことがありますよ」
「成程。それでは彼を殺したのは貴女ですね」
邑上はいつもの顔で、しかし恐ろしいことをさらりと言ってのけた。
須藤 寛一が…死んだ?
「おい邑上。それはどういうことだ?何でお前がそんなことを知っているんだ」
「何でも糞も、あの部屋の中でばっちり死体を拝んだからさ。姉貴が顔を知っていたしな。お前は彼の死体の横で
おねんねしていた訳さ。良い趣味しているよ」
邑上がいつものように皮肉で返すが、俺はそれに応える余裕はなかった。
そうか、あの死体は須藤のものだったのか。考えてみれば当たり前の話だ。
赤井 雪江と須藤は、昨日二人して此処にいた。そしてその日雪江は帰らず、そのことから始まって今日俺達は
この場所にいるのだ。赤井 雪江が失踪したのなら、当然一緒に居た須藤のことも考えるべきではないか。
おそらく昨日の深夜、赤井 雪江は俺や深雪にしたのと同じように、須藤を殴り、そして殺したのだろう。そしてそれは、
彼女にとって決して計画的などと言える犯行ではなかったに違いない。だからこそそれを行った後、途方に暮れた彼女は
自分の部屋に帰ることも、深雪が携帯にかけた電話を取ることも出来なかったのだ。
須藤 寛一。俺が彼と出遭ったのは一回きりで、それもお互い意味の通らない言葉を交換しただけの関係だ。
俺は彼に良い印象は持っていないし、彼のことは何も知らない。だから俺に彼の死を悼まなければならない理由など何処にも
無いのだが、それでも昨日話したばかりの人間が今はもういないというのは、胸の何処かに小さくつかえるものがあった。
俺は赤井 雪江を視る。彼女は何も語らず、その顔にはいかなる感情も感じられない。彼女はただ自らの疲れた体を
支えるのに精一杯なように視える。
でも、彼女にも解っているのだろう。次に邑上が何を言うのかも。
「どうして彼を殺したんですか?彼は加嶋 霧子の件とは何の関係もないのでしょう?」
邑上の言葉が冷たい風に乗って夜に響く。それは呼び水だった。赤井 雪江の憎しみをこの夜に下に具現させる、
冷たい呼び水。
「何故…ですって?あの男が霧子ちゃんと何の関係もないですって?
冗談じゃないわ!私が最も殺したかったのはあの男よ!あの男が霧子ちゃんに酷いことをして、そのせいであの子は
この幽霊マンションから出ることが出来なくなってしまったの!そうに違いないのよ…」
赤井 雪江が吼える。それは地獄の怨嗟だった。もし俺に今の彼女の顔を視ることが出来たなら、きっと其処に鬼のような
恐ろしい表情を視ただろう。息を飲んだ深雪と、邑上ですらたじろいだような雰囲気をさせたことからそれが解った。
俺はそれが視えなくて良かったと心の底から思った。
「深雪ちゃんはずっと不思議に思っていたようだけれど、彼に近づいたのは私の方。偶然、本当に偶然に耳にしてしまったの。
彼が、ううん須藤がこの廃マンションで霧子ちゃんに乱暴して、その後に鉄パイプで殴り殺したって。彼が携帯で自慢げに
話しているのを聞いてしまったの。
彼は札付きの不良だったそうよ。誰も来ないこの場所を根城にして、度々そういうことをしていたみたい。だから彼は
霧子ちゃんの名前なんか知らなかっただろうし、気にも留めなかったのでしょうね。
でも彼は、その名前も知らない少女を、どういう訳か乱暴しようとして殺してしまった。殺してしまったと思い込んでいたのね。
だから彼はこの場所で囁かれる少女の幽霊の噂を極端に恐れていたわ。それ以来この場所には決して近づこうとしなかった。
だから私の方から彼に近づいたの。彼が殺したと言う少女が本当に霧子ちゃんなのか確かめなければならなかったから。
本当に霧子ちゃんが死んだのか確かめなければならなかったから。もし彼女が何処かで冷たくなっているのなら、せめて私が
あの子をその場所から連れ出してあげたかったから。
結果は残念なものだったけれど…」
赤井 雪江が再び俺に視線を向ける。今度はもう飲まれぬよう、俺もそれをハリボテの視線で受け止める。
「あの男から此処の場所を聞き出すのに随分時間がかかってしまったわ。彼は用心深かったから。その間に私がどれだけ
辛い思いをしたか、卯波さん、貴方には解らないでしょうね。
嫌なことも沢山我慢して、注意深く彼からこの場所のことを聞き出して…それなのに、それなのに!私はついに最期に
霧子ちゃんと話すことすら出来なかった!
ねえ、卯波さん。貴方もあの男の同じなのでしょう?あの男と同じように、貴方も私から霧子ちゃんを引き離したのでしょう?」
赤井 雪江が俺を責め立てる。その言葉と視線を受け止めて、俺は彼女と対峙する。今度はもう気圧されない。
俺は立っているだけで良いのだ。俺の役目は彼女の世界を受けとめることなのだから。
彼女の言葉を、彼女の世界を壊すのは邑上がしてくれるだろう。
「それでは貴女が俺達の加嶋 霧子の探索に協力してくれたのも、最初から直人を殺害する為だったという訳ですか」
赤井 雪江の激情を縫って邑上の言葉が飛ぶ。その言葉はいつも邑上が誰かと話す時の、俺以外の誰かに話す時の
調子と全く変わることはない。苛立って言葉を荒だたせる彼女の、その矢のような視線などまるで意に介す様子はない。
目に見えないものなど始めから存在しない、今の邑上はそう言っているかのように俺には視えた。
「最初から、という訳ではないわ…」
そんな邑上を前にして幾分冷静さを取り戻したのか、赤井 雪江はトーンを落とした声で彼の問いに答える。
「卯波さんを殴った時は私は彼の名前も顔も知らなかったし、それにまさか生きているなんて思わなかったもの。
だから最初に深雪ちゃんから卯波さんの話を聞いた時は驚いたわ。生きていたこともそうだけど、その人がまた私の前に
現れるなんて信じられなかった。深雪ちゃんの話を聞いた時、警察関係者か誰かが私のしたことに気付いて私を捕まえに
来たんじゃないかと思ったくらい」
馬鹿よね、と彼女が自嘲気味に笑う。
「そんなこと、ある訳ないのに。でも私はそれならそうで良かった。だって私は人を殺したのだもの。報いを受けるのは
当然のことだわ。
…その人が本当に生きていたのだと悟った時も、私にはどうでも良かった。卯波さんを憎んだところで霧子ちゃんが
帰ってくる訳でもないし、それに充分報いを受けた訳ですしね。視力を失ったと聞いて同情もしたし、罪悪感もあったわ。
卯波さんに逢うまではどうかしようなんて欠片も思わなかった」
「じゃあ、どうして…」
耐えられず、俺は彼女の言葉に口を挟む。彼女が俺をもう憎んでいないと言うのなら、何故俺は二度も彼女に
殺されかけなければならなかったというのだろう。何故今、そんな目で見られなければならないのだ。
「…貴方が霧子ちゃんのことを忘れていたからよ」
絶対零度の風が吹いた。彼女のその言葉は決して激しくはなかったが、今までに聞いたどの言葉よりも冷たく、
そして鋭かった。
俺は…動けない。
「貴方が彼女のことを忘れていたからよ、卯波さん。私がどんなに望んでも手にすることが出来なかった彼女の最期の時間を、
耳にすることが出来なかった彼女の最期の言葉を聞いた筈の貴方がそれを忘れてしまったから。
忘れたまま、のうのうとあの子の影を追いかけようとしたりしたからよ。
そう、本当は…貴方が霧子ちゃんに何をしたかなんて本当は何の興味もないわ。そんなことを知ったって、
例えあの子の敵を討ったってそんなもの何の意味もないもの。でも私は貴方が霧子ちゃんを忘れていることだけは
許せなかった。あの子がこの世界に存在した最後の時間、きっと貴方しか知らない彼女の最後の時間を、
貴方はそれを捨ててしまった。
…私にはそれが…それだけはどうしても許せなかった…!」
赤井 雪江の言葉が霞んで途切れる。静寂の中に、幽かに震える音が聞こえる。
…泣いて、いるのだろうか。微かに、耳をすませなければ聞こえに程に小さな慟哭が風に混じったように俺には聞こえた。
それは、或いは俺の空耳なのかも知れない。でも、彼女は今きっと泣いている。少なくとも、俺にはそう思えた。
俺は震える拳を強く握りなおした。赤井 雪江が断罪した、俺の罪。あの少女、加嶋 霧子の最期の姿を
美しいと感じてしまった俺の罪。俺はその罪を忘却し、赤井 雪江はその為に罪を犯した。俺は自分の罪を
投げ捨てただけではなく、卑劣にもその罪の罰を彼女の押し付けていたのだ。
なんと…罪深いことだろう。
俺の罪は、或いは誰かが許してくれるものなのかも知れない。その誰かは、それを仕様のないことだったと
言ってくれるのかも知れない。赤井 雪江の行動もその誰かは身勝手なただの嫉妬心だと言うのかも知れない。
でもそれが何になるというのだろう。傍観者の言葉が何の許しになるというのだろう。傍観者の言葉など、許しにも捌きにも
ならない。俺が罪の意識を感じること、今苦しいと感じていること、それこそが世界で唯一確かな罪の証。
彼女が今泣いていること、それが逃れる術もない俺への罰。
それでも…それでも俺は疑問を抱かずにいられなかった。何故赤井 雪江はそれほどまでにあの少女に固執するのだろう。
俺はあの少女に、いや、あの少女の面影を追うことに断罪を求めた。赤井 雪江は加嶋 霧子に何を求めたのだろうか。
彼女も俺と同じなのだろうか。
「どうして…」
束の間の沈黙の中に弱々しい声が生まれた。深雪だ。何時の間にか深雪は邑上の横に立っていた。まだ足取りが
おぼつかないのか弟の服の裾を掴んで身を支えてはいたが、その両足は確かに白い絨毯の上に降りていた。
そしてその瞳は真っ直ぐに赤井 雪江を捉えている。
「どうして…どうしてですか、雪江先輩。何故その子の為に其処までするんですか?」
問う資格の無い俺に代わって、俺の疑問を深雪が口にする。変わり果てた親友を前に、深雪もまた何かに耐えているように
視える。傷の痛みでも寒さでもない、何かに。
「そうですね。俺もそれがずっと気になっていた。雪江さん、貴女は何故加嶋 霧子に其処まで拘るのですか?教え子に注ぐ
愛情としては、少し度が過ぎているように思えますよ」
この場において唯一無傷の邑上が問う。その質問の意図は、姉の発した言葉とは微妙に異なるものだったのかも知れない。
だが、求められる答えは同じものだ。
「…理由?私が霧子ちゃんを求めた理由?」
赤井 雪江が不思議そうに聞き返した。僅かにうつむき、自らに問いかけるような素振りをする。しばしの沈黙に俺達は
その答えを求める。
そう、理由だ。赤井 雪江が加嶋 霧子の為に殺人までも犯す理由、それだけが俺にはまだ理解出来ない。加嶋 霧子の
失踪前から、赤井 雪江は何かと彼女に干渉し、その結果彼女からもの凄い反発を受けていた。そのことはあの
チャット・パーティーで彼女の学校の生徒から聞いて知っている。そして少女の失踪後赤井 雪江は独り彼女を捜し求め、
その情報を持っていた須藤 寛一に近づいた。須藤の恋人となって少女の居場所を聞きだし、その時点でもう既に
死んでいるだろう霧子を探しに此処を訪れた彼女は、あろうことか今正に死なんとする少女を看取り、そして俺を殺した…
殺そうとした。その後全てを忘れて不用意に近づいた俺を監視し、須藤を殺し、俺を、さらに親友のはずの深雪までをも
手に掛けようとした。
何が彼女をそうまでさせたのか。その理由だけは今になっても解らない。
その理由だけが…
赤井 雪江の口元にふいに微笑が浮かんだ。それは俺に向けられていた凍りつくように冷たい笑みではなく、
それでいて暖かいものでもない微笑。
それは憐憫の笑みだった。その理由を理解出来ない俺達に向けられた、哀れみの微笑み。
「理由なんて無いわ」
彼女は囁くようにその言葉を口にした。
冷たい風が吹いて、冷えきった手すりがかたかたと鳴った。静寂よりも静かな沈黙の中、沈黙より重い静寂の中に、
その音は誰かの笑い声のように虚ろに響く。
「理由なんて無いわ」
誰かが笑っているのだろうか。虚ろな笑みを浮かべた赤井 雪江の口から洩れた言葉に応えることが出来たのは、
その空虚な笑い声だけ。
かたかたかた…
「理由は無い?」
永遠のように長い無言の時が流れた。或いはそれは一瞬だったのかも知れない。
同じことだ。時すらも凍るこの赤い夜の下では、永遠も一瞬も等しく意味を喪くしている。
その長い長い一瞬の後、漸く邑上が声を放った。
「ええ、理由なんて無いわ。深雪ちゃんはしきりに気にしていたようだけれど、私が霧子ちゃんに惹かれたことに
理由なんて無いの」
邑上の放った言葉に溶かされ、凍りついていた時間の歯車が軋みながらもゆっくりと回りだす。
「それは…どういう意味ですか、雪江先輩?」
一度動き出してしまった歯車は、もう人の意思で止めることは出来ない。不可解な言葉と共に赤井 雪江に
名を呼ばれた深雪は、その時間に後押しされて言葉を返した。俺の思考も、彼女の言葉を引き出したものに巻き込まれ、
同じように回り始める。
理由は無い。赤井 雪江は今、確かにそう言った。
執拗に干渉し、手痛い反発を受け、それでも加嶋 霧子に関わろうとした彼女。
少女が失踪してからは、まるで喪くした日の追憶を捜し求めた間抜けな俺のように、何を犠牲にしてでも少女を
探し出そうとした彼女。
変わり果てた少女との再会を果たした後は、かつての恋人の敵を捜し求めるかのように闇雲に殺意を振り回し、
親友さえも傷つけた彼女。
その彼女、赤井 雪江と加嶋 霧子の関係。そんなものは存在しないと彼女は言った。そんなことが在り得るのだろうか?
俺は、彼女達の間にはひょっとした血の繋がりすらあるのではないかと疑っていた程だというのに。
俺達の誰もが抱いたその疑問に、憐憫の情を浮かべたままで彼女が答える。
「そう、理由なんて無いの。
深雪ちゃん、貴女には解らないでしょうね。貴女のような偽善者には。
貴女が私に優しくしてくれたのだって、本当はただの同情なんでしょう?出会った人と気軽に会話することすら出来ない、
皆が笑っている時に同じように笑うことすら出来ない、そんなどうしようもなく不器用な私に優しくする振りをして、本当は
優越感に浸っていたのでしょう?
私のことを、本当はあざ笑っていたのでしょう?」
つらつらと、赤井 雪江が残酷な言葉を紡ぐ。深雪が息を飲み、その弟の片眉が一瞬跳ね上がる。姉に向けられた
あまりと言えば酷い批難に、流石に怒りを覚えたのだろうか。
しかし邑上は何も言わない。言うべき時と言葉を知っている彼は、片眉を吊り上げただけで成り行きを見守っている。
「酷い…あたしはそんな…」
最後まで言葉の出ない深雪が唇を噛む。泣きそうな親友の表情を見て、初めて赤井 雪江の顔に柔らかいものが浮かんだ。
初めて視た、彼女の優しい笑顔。
「ごめんなさいね。貴女がそんな人ではないことは解っているの。でもね、私はそんな考え方をしてしまう女なの。
不器用で友達も作れなくて、誰よりも他人を求めているのに、それが手に入ったら今度はそれが信じられなくなる。
優しくされることを誰よりも望んでいるのに、優しくしてもらったら今度はそれを疑ってしまう。
自分の劣等感を他人のせいにしては、純粋な厚意で接してくれた人の手を振り払って、自分で振り払っておいて
また新しい手を求める。私はそんなつまらない人間なんです。私は自分でそれが解っていて、それでもそれを改めることが
出来なかった。いいえ、改めようともしなかった。悪いのは周りなんだって、いつもそう自分に言い聞かせて生きてきたんです」
これで良く教師になんてなったものだわ。赤井 雪江が自嘲する。
「両親が教師だったから。教職を目指すように薦められたから。それだけの理由を盾に教職についた私に人にものを
教えることなんて出来る筈もなくて、職場では随分辛い目に遭いました。辞めようと思ったことも一度や二度ではありません。
でも、結局ふんぎりがつかなくて私は二年目を迎えました。副担任なんて大それた役についたのも、きっと親の意向が
あったのだと思います。私が望んで得たものではなく、与えられたものなのです」
でも、その与えられたクラスに彼女がいたんです。赤井 雪江が懐かしむように言って微笑んだ。
いや、それは懐かしむというより、恋をした少女の微笑みにむしろ近かったのかも知れない。
赤井 雪江の語った、彼女の半生。そう、正しくそれは彼女の半生だった。彼女が語ったことが此処最近の彼女のことでしか
なかったとしても、おそらくそれは半生と言って間違いのない物なのだろう。これまでの彼女の人生は、加嶋 霧子のいる時間と、
そうでない時間の二種類しかないのだから。
そしては赤井 雪江は残りの半分を語り出す。辛かった筈のそれを、まるでこれ以上の幸福など考えられないとでもいうように
優しい笑みを浮かべたままで。
「最初にあの子を見た時、私は彼女が私と同じなのだと思いました。上手く繕っていても、彼女が人を避けていることはすぐに
判ったから。でもそれは違ったの。彼女は人を避けていたけれど、決して他人に何かを求めたりはしなかった。
私は孤独だったけれど、あの子は孤高だったんです。彼女はきっと誰よりも強くて、私は誰よりも弱かった。
とても同じ人間だとは思えなかったわ。
しばらくして三者面談があって、その時私は初めて彼女が私と似た人生を歩んで来たことを知りました。彼女の母親は彼女に
何も求めていなかった。彼女を必要としてさえいないことが私にも解った。私の両親は私に色々と求めたけれど…
それでも彼女は私の同じだった。私の両親が私に求めたものは、私自身ではなくてもっと別の何かだったから。
私とあの子は良く似た人生を歩んで来た筈なんです。それなのに彼女はあんなにも強くて、私はこんなにも弱い。
私はそれが不思議で、羨ましくて、妬ましかった。私にはそんな彼女がただ眩しく、神々しくさえ見えた。だから私は
あの子のその強さの秘密を知りたくて、彼女の家庭の心配をする振りをして彼女に近づいたの。
結果は…散々なものでした。あの子は自分の中に踏み込まれることを極度に嫌っていたようで、不用意に近づいた
私のことを酷く警戒しました。いいえ、近づいたのが私だったから彼女は警戒したのかも知れない。
それでも、不器用な私にはそんな方法でしか彼女と話すことが出来なかった」
白い吐息と共に、赤井 雪江が吐き出した言葉。俺達は黙ったままそれを聞いていた。赤い月のスポットライトに照らされて、
白い雪のステージに立っているのは彼女だけだった。俺も、深雪も、邑上ですらもはやただの観客に過ぎなかった。
観客である俺達に舞台の上の彼女の言葉に応えることなんて出来る筈もない。
真夜中の舞台は終わらない。赤い月と白い雪と、彼女独りきりの孤独な独白劇は続く。
「今となってはもう私が霧子ちゃんに何を求めていたのかは解りません。いいえ、あの時だって私には
解っていなかったのかも知れない。執拗に干渉する私が迷惑だったのでしょうね。霧子ちゃんは私に冷たく当たるように
なりました。授業中満足に話すことも出来ない私を公然と非難するようになりました。
それでも私は構わなかった。その言葉が罵倒であったとしても、向けられたものが憎悪であったとしても、
彼女が私の存在を意識してくれるだけで、それだけで私は嬉しかったんです。
本当に…彼女にしてみれば本当に迷惑な話ですよね。解ってはいたのに、私はそれを止めることが出来なかった。
後は以前にお話した通りです。私はあの子に手を上げて、あの子はもっと物理的な手段で私を避けるようになった。
あの子が失踪したのは、きっと私を忌まわしく思ったからなんだと思います。それが解っていても、それでも私は彼女を
求めずにはいられなかった。私が教師だからとか、あの子が私の生徒だからとか、失踪したのが私のせいだからとか、
私が彼女を探そうとしたのはそんな立派理な理由ではないんです。私には彼女が必要だった、ただそれだけなんです」
自分に言い聞かせるように赤井 雪江の言葉は次第に小さくなり、そうして其処で途切れた。深夜の廃マンションに、
再び静寂が訪れる。
赤井 雪江が語った、彼女が加嶋 霧子を求めた理由。理由など無いと彼女が言ったその理由が、俺には、俺だけには
解った気がした。
あの日、記憶を喪って幻影の少女を視つけてから今日まで、俺もまたあの名を聞くことすら出来なかった少女を
探し求めて来た。今日あの部屋で彼女のことを思い出して、俺は彼女を探し求めていた理由が俺自身の断罪の為だったことを
知った。でも、それだけだっただろうか。俺が彼女を追い求めた理由は、本当にそれだけだったのだろうか。
俺も赤井 雪江と同じだったのかも知れない。だからそれが解る。彼女が、そして俺があの少女を追い求めたことに
理由は在るのだ。
例えそれを言葉では言い表すことは出来なくとも。
それが、この宇宙の何処にも存在していなくとも。
俺達の世界にはそれが確かに存在していたのだ。
赤井 雪江の世界にとって、加嶋 霧子の存在は大地だったのだ。少なくともあの少女に出逢ってからの赤井 雪江の
世界にとっては、きっとそうだったのだ。
大地を喪った人間は、墜ちるしかない。だから赤井 雪江は墜ちるしかなかった。ただそれだけのことなのだ。
「邑上さん」
赤井 雪江が小さな声で呼びかける。内にあるものを全て吐き出した為だろうか、彼女の目にも言葉にももう底冷えするような
強烈な憎しみは感じらない。ただその瞳の奥に、過ぎた日を懐かしむような柔らかい虚ろが垣間見えるだけ。
「邑上さん、教えてください。貴方は霧子ちゃんの何を知っているんですか?あの子は何故、自殺なんか
しなければならなかったんですか?」
加嶋 霧子を死に追いやったのは俺だと、赤井 雪江がそう言って俺に強烈な憎しみをぶつけていた時、邑上は彼女に
少女の死は自殺だと告げた。厳かに告げたその言葉に嘘は感じられなかった。邑上は少女の何を、何故知っているのだろうか。
赤井 雪江の執拗な干渉も須藤 寛一の狼藉も彼女の死の原因にはならなかった。それを乗り越えてあの日まで生きていた
彼女が死ななければならない理由。それは一体何なのだろうか。
俺、深雪、そして赤井 雪江の視線が邑上に集まる。
「加嶋 霧子は自殺ですよ」
邑上は言う。その口調は、最初にそれを言った時と比べて何処か苦しそうに聞こえる。赤井 雪江の告白を聞いた後だから
だろうか。
「その理由が解らないのは…それは貴女が彼女のことを理解していなかったということです」
それでも邑上はその言葉を告げた。赤井 雪江にとって、おそらくは最も残酷であろうその言葉を。
「そう…ですか」
疲れた声と共に赤井 雪江が大きく溜め息を吐いた。疲れ果てたように、その身を背後の手すりに預ける。
ぎしりと手すりが不満げな音を立てる。くたびれた彼女の体を支えることに、手すりもまた疲れ果てているかのように。
「雪江先輩…どうしてですか…」
深雪が質問に、赤井 雪江が小首を傾げる。質問の意味が解らないのだろう。彼女は既に想いの全てを吐き出したのだから。
「どうして其処までしなければならなかったんですか!?
だって、先輩と霧子ちゃんは何の関係も無かったんでしょう?霧子ちゃんに酷いこと沢山言われたんでしょう?
それなのに、雪江先輩が彼女の為に其処までする理由なんか全然無いじゃないですか!嫌いな人の恋人にまでなって、
その人を殺してまで、雪江先輩が彼女の為に其処までする理由なんか全然無いのに。
…いくら彼女の憧れていたからって…あたしには全然理解出来ません!」
赤井 雪江の仕草に苛立ったように深雪が感情をぶつける。そんな後輩に、赤井 雪江はただ微笑むだけ。
深雪には理解出来ないのだろう。いや、誰にも理解なんか出来ない。本人でなければ、本人でさえ、理解なんか
出来る訳はないのだ。
俺達は、俺達の誰もが視えている世界が違うのだから。立っている世界が違うのだから。
俺達の誰もが、独りきりの世界に生きているのだから。
俺と赤井 雪江の世界もまた異なる。ただ俺には、彼女の世界が理解出来ないことが理解出来るだけだ。
「そう…深雪ちゃんには解らないでしょうね」
赤井 雪江は言う。先程深雪を偽善者と罵った時とは違う、柔らかくて優しい声。
「あの子は…霧子ちゃんは、きっと私がしたことを認めてなんてくれないでしょうね。でもね、深雪ちゃん。彼女がどう思うおうと、
私には彼女の為にしなければならない理由があったの。それがどれだけ独善的なものであったとしても。
霧子ちゃんは私のことを受け入れてはくれなかったけれど…
最期まで私を必要としてはくれなかったけれど…
それでも、私には彼女が必要だったから」
それはとても静かな言葉だった。静かで、それでいて何よりも強い言葉。
誰にも許しを求めない。
誰にも理解を求めない。
ただ、世界に対してその存在を明言した言葉。俺は…こんな強い言葉は、生まれてから今まで耳にしたことはない。
これ程強い意志を見たことはない。
その言葉に打たれたように、深雪がうなだれる。邑上も何も言わない。俺は動くことすら出来ない。赤井 雪江は
微笑んだまま、赤い月を見上げていた。
その時、弔いの風が吹いた。
その風は決して強いものではなかった。そんなことが無ければ、流れたことすら気付かない微風だった。それなのに…
がたん。
赤井 雪江を支えていた手すりが大げさな音を立てる。音だけだ。手すり自身に変化は無い。
だが、致命的な亀裂の入ったこの世界が決壊するには、その音だけで充分だった。
赤井 雪江の顔に驚愕の表情が浮かぶ。バランスを崩した彼女の体が、ゆっくりと後ろ側に倒れ込んでいく。
その先に彼女を支えてくれるものは無い。在るのは、遥か下にあるのは、加嶋 霧子が最期に辿り着いた
あのレンガ敷きの石畳。
スローモーションのように、時間が粘性を帯びる。その粘ついた空気の中で、深雪が目を見開く。
俺は今度は邑上よりも早く駆け出した。縋るように、赤井 雪江が俺に手を差し伸べる。
彼我の距離はどれ程あったのか。俺の足は、刹那の時間にそれを乗り越えることが出来るほど速かったのか。
赤井 雪江の体が完全にバランスを崩す前一瞬前に、俺の伸ばした指先が彼女のそれに触れたような気がした。
彼女はそれを…振り払った。
赤井 雪江の体がゆっくりと闇に沈んでいく。大地を喪った彼女が墜ちていく。その表情はまるで殉教者のように、
その運命の全てを受け入れているように俺には視えた。彼女の顔が視える筈もない俺にも、それが見えた気がした。
重く鈍い音が、俺の目の前に横たわる深遠から聞こえて来た。
「いやあああーーー!」
深雪の悲鳴が遠くに聞こえる。俺は振り返らない。今度は振り返ることが出来なかった。
目の前のそれから目を逸らすことが出来なかった。
俺の目の前に、あの日の風景が広がっていた。広間は薄い雪で覆われていたけれど、赤い月の光を反射するそれは
レンガを敷きつめた石畳のよう。
染み込んだ血の赤とばらけた髪の黒、血の気を失った白い貌。
俺があの日、喪った日を見出したあの日に視たものが実は今日この日の風景だったのではないかと思える程に、
それらはあまりに酷似していた。赤井 雪江の最期の姿は彼女が求めて止まなかった少女の最期と全く同じだった。
俺の瞼の裏で何かが弾けた。今まで大事に抱えていた何かが、より大きなものによって上書きされ、消えて逝く。
そして、俺の中で一つの物語が幕を下ろした。
|