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酷い頭痛がして、俺は目を覚ました。
「痛ぅ…」
最悪の目覚めだった。そもそも、何故俺は眠っていたのだろう。割れるように痛む頭に手をやると、激痛が走って
その手にべっとりとした感触が残った。
これは…血だ。そうだ、俺は確か深雪に鉄パイプで殴られて…
「…!」
急激に意識が覚醒し、またも走る激痛に俺は顔を顰めた。瞼を開いても、目の前はぼやけて良く視えない。右目に手をやると、
またも其処に鋭い痛みが走った。どうやら痛みの原因はこの作り物の右目にあるようだ。殴られた衝撃で割れてしまったらしい。
目の前はまだ開けない。俺は手探りで壁を探しあて、それを頼りに立ち上がった。体のあちこちがまだずきずきと痛むが、
骨折のような大きな怪我はしていない。割れた偽眼も、据わりが悪いことを除けば今のところは問題ないようだ。
俺は壁に身をもたれながら、それに沿って歩いてみる。
足の裏で床の感触を確かめているうちに、徐々に目の前が開けてきた。程なくして、俺は完全に視界を取り戻す。
此処は幽霊マンションの三階、あの開かずの部屋だ。ということは、倒れているうちに誰かに移動させられたということは
ないようだ。位置が分らなくなると視界を失う俺は、そのことに少し安堵する。殺されかけたようだが、どうやらそれ以上の
被害には遭っていないらしい。そんな馬鹿馬鹿しい言葉が浮かび、俺は苦笑する。
殺されかけた…誰に?
深雪だ。彼女が何時の間にか握り締めていた鉄パイプ、それが俺の頭蓋に振り下ろされ、二つ目の右目を砕いたのだ。
叩きつけられた金属の衝撃と、目を霞ませる赤い血に隠れた彼女の貌を思い出し、俺はまた眩暈を感じた。
深雪が、何故。
答えを待っても、この部屋に彼女はいない。残されたのは死にかけた俺と、死んだ誰か。俺は部屋の中央に目をやる。
其処には何かが在った。それが何かは分からないが、其処に在ることだけは俺にも判る。何とも矛盾にした話ではあるが、
其処に見えない何かが在るのが俺には視えるのだ。
赤井 雪江だろうか。彼女も、深雪によって死体となったのだろうか。しかし、一体何故。あんなに仲の良かった赤井 雪江を
深雪が殺すとは考えられないし、俺にしても彼女に鉄パイプで殴られるような理由は無い。
そもそも、俺は誰かに殺されなければならないような人生を送って来てはいない筈だ。ましてや、数年ぶりに再会した
悪友の姉に恨みを買うような真似などしていない。そんなこと、したくても出来ないだろう。
だが、あの鉄パイプに明確な殺意があったことは確かだ。そうでければ、本物よりも丈夫なこの偽物の目が
壊れたりはしない。一歩間違えれば俺は死んでいただろう。いや、一歩間違えて生きていたと言うべきか。
俺の人生において、命を狙われるような理由があるとしたら、あの空白の一日以外にはあり得ない。
でも、それと深雪とは何の関係もない筈だ。俺が彼女と再会したのはあの日より遥か後のこと。今彼女が
この幽霊マンションに居る理由だって、赤井 雪江に対する友情や俺に対する善意でしかない筈。
どんな運命の気紛れがあれば、深雪が加嶋 霧子と繋がるというのだ…
空白の一日だって?
俺の中の別の俺が嘲笑する。この期に及んでまだ惚けていられるつもりか?
惚けるとは、何のことだ。さっき見たあの夢のことか?
夢?あれをまだ夢などと言い張るつもりなのか?
そう、あれは夢なんかではない。あれは俺の記憶、喪った筈のあの日の記憶。
いや、その事実でさえ真実ではない。俺が喪ったのはあの日の記憶だけではなかったのだ。失くしたのは、亡くしたと
思い込んでいたのは、亡き少女と共に過ごした時間の全てだ。
ああそうだ、俺は本当に今まで一体何を惚けていたのだろう。自らをあざ笑う内なる俺が、今こうして考えている俺と重る。
そうして俺は、今漸く真実に辿り着いた。
俺はあの少女と、あの赤い花となって散った少女とあの時既に出逢っていたのだ。それも一度や二度ではない。月の輝く夜が訪れる度に俺は此処を訪れて、語らない少女と無言の時間を愉しんでいた。俺は少女に恋をし、そして彼女が
散って逝く様をこの目で見たのだ。そして全てを忘れ、その事実から逃げていた。
亡骸となった少女を美しいと思ってしまっ罪から逃げていたのだ。
主の居ない右の眼窩から、涙が一筋零れ落ちた。この雫はきっと赤い。そうでなければただの幻だ。出るべき幕を忘れた
愚かな役者に、アンコールに応える資格などある筈はないのだから。
壁に手をつき、鉛にように重い体を引き摺りながら、俺は出口を目指す。今の俺の姿は、きっと滑稽極まりないだろう。
今にして思えば、俺が本当に記憶を失っていたかどうかも妖しい。ただ目を逸らし、思い出そうとしなかっただけのようにすら
思える。俺は彼女の記憶を自らの手で埋め、その土の上でそれを必死に探す振りをしていただけなのかも知れない。
大した役者じゃないか、そんな独り芝居に邑上や深雪、赤井 雪江を巻き込んでいたのだ。何故深雪が俺を殺そうとしたのかは
解らないが、そうされても仕方のないことを今まで俺はしていたんじゃないか。
眩暈と吐き気を覚え、俺は口を押さえる。それを無理やり飲み下して、俺は現実へと続く扉を目指す。其処に救いがあると、
また自らをそう欺くかのように、俺の足は止まらずに動き続ける。頭蓋の中をうるさく木霊する割れ鐘の音は、今や収束して
一つの輪郭をとり始めていた。規則正しく響くそれは、誰かの足音のようであり、呼吸音のようでもある。それに構わず、
俺はゆっくりと歩き続ける。扉のノブまであと数センチ。触れようとした瞬間、それは俺の手から逃れるように俺から遠ざかった。
ゆっくりと扉が開き、外の空気が流れ込んだ。
「直人か?お前、まだ居たのか」
聞き慣れた声が耳に届く。扉の向こうに居たのは、見知った顔の自称魔術師だった。
「何だ、お前血塗れじゃないか。一体何があったんだ?」
遅れて来た俺の悪友は、今更のように少し慌てた声でそう言った。そんな大怪我をしたつもりはなかったのだが、
自分で思っているよりも出血しているのかも知れない。
外の空気は冷たく、日の光の感触は欠片もない。役立たずの俺の目にも、外の世界は既に夜を迎えているように映った。
ということは、俺が気を失っていたのは2、3時間にもなるということだろうか。こんな時間まで、こいつは何をしていたのだろうか。
まさか、今の今まであの少年と追いかけっこをしていた訳でもあるまい。
「お前、今まで何処で何をして…」
問いかけた俺の声は自分の喉から出たとは思えない程掠れていて、最後まで語ることなく途切れる。どうやら、喉の奥に
血が流れ込んでいたらしい。話すのが何とも難しかった。
「いや、それは後で話す。それより今はお前の方だ。お前、酷い有様だぜ。それだけ血塗れで、よく意識があるものだよ。
そういえば赤井 雪江には会えたのか?いや待て、話は後だ。今救急車を呼んでやる」
早口でまくしたて、邑上が携帯を取り出そうとする。俺はそれを制する。今はそんな場合ではない。
「大丈夫だ。多分、殆ど俺の血じゃないから。それより、深雪…さんを見なかったか?」
「姉貴?見ていないぜ。俺は今しがた来た所だからな」
確かに血は乾いているみたいだな、と邑上。どうやら少し落ち着きを取り戻したようだ。俺は彼を押し退けるようにして、
廊下の手すりまで歩いて行って寄り掛かる。冷たい金属の感触が、今は心地良かった。
「待てよ、そんななりで何処に行くつもりだ。殆ど返り血っていったって、お前の怪我だってちょっと其処で転びました、
って程度のものじゃないぜ。
本当に一体何があったんだ?一体誰の血を浴びたっていうんだ」
邑上が後ろから俺の肩を掴む。その言葉も手も今はうっとおしくて、俺は邪険にそれを払い除けて言い放つ。
「深雪さんに鉄パイプで殴られた。今まで部屋の中でずっと気絶していたんだ。あと、この血は雪江さんのものだ。
部屋の中に死体があったからな」
邑上の息を飲む気配が背後から伝わって来た。余程驚いたのだろう、完全に予想外といった感じだ。なら、少なくとも
こいつは関わってはいないということか。
「ば、馬鹿なこと言うな!何で姉貴がお前を殴らなきゃならないんだ。そもそも姉貴は…それに、赤井 雪江を殺したのも
姉貴だって?そんな馬鹿な…そんな馬鹿なこと、あってたまるか!お前、夢でも見ていたんじゃないか?」
邑上が俺の前に回りこんで来て怒鳴った。
夢、か。成程、ならばこの血も痛みも夢なのか。あの少女とのこと以外、本当のことなんて何処にも無いということなのか。
「そうかもな。なら、お前の目で確かめてみてくれよ」
目も合わせずに、俺はそう呟く。邑上は一瞬俺を睨んだ後、其処に居ろよと言い残して開かずの部屋に入っていった。
その言葉に従うことなく、俺は冷たい手すりを頼りに廊下を歩む。足元にはもう隠しきれない程雪が積もっていて、
けれども空に散る雪の気配は無い。あの扉の向こう側、この空の下にはやっぱり救いなんか無かった。それでも俺は、
何か引き摺られるように歩いて行く。俺は何処に向かおうとしているのだろう。
その時、ふと、誰かに呼ばれた気がした。鈴を転がすような美しい声。聞いたことのない声。
聞いたことのない、あの少女の声。
上からだ。その声は上から聞こえた気がした。あの少女が、結局名前も聞くことが出来なかった彼女が上から俺のことを
呼んでいるような気がした。目をやれば、屋上へと続く螺旋階段が俺を待っていた。それは疑いようもなく
幻聴だったのだろうけれど、何故かその時、俺はそれを疑うことすら出来なかった。
手すりに凭れながら、雪の積もった廊下をゆっくり歩く。気ばかりが焦って、視界だけが体を抜け出して
先に行ってしまいそうな幻覚を覚える。下から見上げれば、螺旋階段は屋上に続いていて、けれども其処はしっかりと
錠が掛けられた扉で封じられていた。あそこに辿り着いたとして、だから何だと言うのだろう。其処には何も無い、
其処から先に行くことは出来ない。それでも俺は、其処を目指さずにはいられなかった。
夜へと伸びる螺旋階段を一歩一歩上っていく。
最後の一段に足をかける。目の前には閉ざされた扉。錆付いたそれは、ついに此処まで辿り着いた俺を試すかのように
無言で立ちはだかっている。錠には、間違いなく鍵が掛かっていた。この頑丈そうな南京錠が在る限り、この先へは決して
進めないだろう。それが視えているのに、解っているのに俺はそれに手を伸ばす。阻む壁となった鉄格子に手を伸ばす。
扉は音もなく開いた。
視れば南京錠は霧散していた。さっきまで視えていた筈のそれは、刹那の間に影も形もなくなっていた。
いや、そうじゃない。途切れそうな意識の中で、冷たいまま残った思考の一片がそれを理解する。
鍵など初めから無かったのだ。
俺が在ると思い込んでいたから、偽りのそれは俺の世界に存在していたのだ。
初めから開いていた扉、俺より先に此処を訪れた誰かの為に道を開けていた鉄格子の扉を潜り抜ける。
頬に当たる風が冷たい。顔を上げると、視界が開けた。
其処は雪を敷き詰めた箱庭だった。夜空に浮かぶ月は血の様に赤く、流れ落ちるそれに染められて
白い筈の雪もまた赤く泣いていた。
闇の中に赤く昏く、けれどもそれに染められることなく、彼女は其処に存在していた。疲れきった体を手すりに預け、
まるで祈るように夜空を仰いでいる。
深雪…ではない。
俺が此処に来ることを知っていたのだろうか、彼女は突然訪れた俺に驚いた風もなく、笑みを浮かべながら俺に言った。
それはまるで散歩中に友人とすれ違っただけのようにさりげなく、俺には視えないその笑みもきっと同じように
さりげないものだったのだろう。それも当たり前かも知れない。この赤い雪の夜にあって、それと同じ名を持つ彼女は
在って当たり前の存在なのだから。
「こんばんは、卯波さん。月の綺麗な良い夜ですね」
まるで彼女の為に訪れたような夜の下で、赤井 雪江が嫣然(えんぜん)と微笑んでいた。
切るように冷たい風が俺と彼女の間を吹き抜けて行った。中天には泣き腫らした瞳のような月が、
もの言わぬ傍観者となって俺達を見下ろしている。それはまるで彼女を照らすスポットライトのようで、その赤い光を反射する
白い雪は彼女の為のステージのよう。観客も、共演者すら居ない彼女独りきりの舞台で、配役のない俺は舞台に迷い込んだ
通行人のように、ただその光景を前に佇むことしか出来なかった。
風が吹いて、赤い粉雪が闇に散る。
「こんばんは、卯波さん。月の綺麗な良い夜ですね」
今にも壊れそうな夜の下、赤井 雪江が独り其処に佇んでいた。
「雪江…さん?」
掠れた俺の声がかろうじてそれだけの言葉になる。その言葉を受け取って彼女は微笑を浮かべた。彼女の貌を視ることが
出来ない俺にも、何故か今彼女が微笑んでいることが解った。
「そう、雪江ですよ、卯波さん。一体誰だと思ったんですか?」
それは冷たい微笑だった。ぞっとするほど美しく、凍りつくように冷たい微笑。冷たくて危険な微笑。
「雪江さん。何時から此処に?」
俺は未だかつてこんな顔で笑う人間を見たことがない。見たことがない俺に、その微笑が視える筈もないのに。
「昨日からです。もっとも、それはこの廃マンションに居るのは、という意味ですけれど。
私がこの場所に来たのは…そうですね、二、三時間前といったところかしら」
微笑みながら彼女は言う。
「丁度、あの部屋で貴方を殺そうとした後です、私が此処に月を見に来たのは」
つむじ風が粉雪を巻き上げて、闇の中でなお赤く輝くそれが砕け散ったステンドグラスのように俺と彼女の周りに降り注ぐ。
その破片に肌を裂かれるように、刃物のように冷え切った空気が俺達を苛んでいた。
「俺を…殺そうとした?」
「ええ。貴方を鉄パイプで殴ったのは私です。卯波さん、もしかしてまた忘れてしまったんですか?」
約束に遅れてきた恋人を咎めるような軽い調子で、赤井 雪江は俺にそう言った。俺は身を震わせる。それは決して
寒さのせいだけではない。
あの時俺を殺そうとしたのは、迷いのない殺意を俺の頭上に振り下ろしたのは、深雪ではなく彼女だったのか。
俺は今理解した。
そう、それは俺が此処に来る時に越えてきた、あの鍵が掛かっているように視えた鉄格子の扉と同じことなのだ。
俺はあの時、あの部屋に居るのは俺と深雪だけだと思っていた。あの部屋の中で毛布に包まっていた遺体に触れた時、
俺はそれが赤井 雪江だと疑いなくそう信じた。だから、あの時俺を背後から襲うことが出来る人物は深雪以外にはあり得ない。
俺の意識がそう結論づけるよりも早く、俺の無意識はその答え、間違った答えを導き出していたのだろう。だから俺には、
彼女が深雪に視えてしまったのだ。その時の彼女の貌が今俺の目の前にいる赤井 雪江と同じく、
霞んで視えなかったにも関わらず。
だが、一体何故?何故俺は二度も彼女に殺されかけなければならなかったのだろう。
そう、今確かに彼女は言ったのだ。また、と。
「貴方が俺を襲ったのは、これが初めてではないのでしょうね」
「ええ」
こともなげに彼女が頷く。今まで聞かれなかったから答えなかっただけだとでもいうように、その言葉に罪の意識は全くない。
「あの時はまだ貴方の顔も名前も知らなかったけれど。あの日、あの中庭に立っていた貴方を背後からあの植木鉢で
殴ったのは私です」
首を傾け、懐かしむように赤井 雪江があの日を語る。手すりの向こう側、彼女の視線の先にはあのレンガ敷きの石畳の
広間がある。其処は少女が朽ち果て、その光景を最期に俺が光を喪った場所だ。
「今度もそうですけれど、まさか生きているとは思わなかったわ。本当に丈夫なんですね。羨ましいわ」
その場所を見詰めたまま、彼女は口の端を吊り上げた。いや、俺にはそう視えた。そう視える程に明確な悪意が、
その言葉には在った。彼女のその言葉が恐怖と言う感情に輪郭を変えて、俺の心臓を捕らえる。彼女の悪意が
怖いのではない。彼女の危険性に恐怖した訳でもない。彼女が、今俺の目の前にいる赤井 雪江という女性が
理解出来ないことが怖かったのだ。
俺はかつて、これ程明確な悪意に出遭ったことがなかったから。これ程までにあからさまな悪意を抱かせる理由が、
今までの俺の人生には存在していなかったから。
「どうして…」
「どうして?」
俺の口から零れた落ちた言葉を赤井 雪江が拾い上げる。その静かな声が、まるでガラスにひびが走る音のように
俺には聞こえた。
「それは私の質問だわ。貴方こそどうして、霧子ちゃんを殺したんですか?」
彼女はまだ微笑んでいた。それなのに、彼女の放ったその言葉はまるで刃物のようで、凍てつく空気にさらされて
氷柱(つらら)となったそれが俺の胸に突き刺さった。僅かな時間をおいて、氷が溶ける様にその言葉の意味が俺の体に
染み込んで来る。
俺が…加嶋 霧子を殺した。赤井 雪江は今、そう言ったのだ。
「違う。俺は彼女を殺してなんかいない」
喘ぐ様な声が俺の口から零れる。
そう、俺は彼女を殺してなんかいない。この言葉は以前邑上にも言われたことがある。その時の俺には聞こえない振りを
することしか出来なかったが、今は違う。今の俺には、確信を持ってその言葉を否定することが出来る。
全てを思い出した今なら。
彼女、加嶋 霧子は俺の目の前であの窓から落ちたのだ。下からそれを見ていた俺に、彼女が殺すことが出来る訳は
ないのだ。
俺はあの少女を殺してなんかいない。今ならそのことに確信が持てる。それなのに、俺の言葉は喘ぐ様に
か細く弱々しいものでしかなかった。そう、俺がそれに確信を持っているということなど何の意味も無いのだ。
意味が在るのは、俺が加嶋 霧子を殺したと赤井 雪江が思っているという事実だけなのだから。
「俺は彼女を殺してなんかいない」
だから俺は、再度真実を繰り返す。
「嘘よ。貴方が殺したんだわ」
まるで詩を口ずさんでいるような軽やかなイントネーションで赤井 雪江が応える。俺は彼女の発する何か狂気めいたものに
気圧されて後ずさった。俺は真実を告げている筈なのに。それなのに、俺が必死の思いで吐き出したその言葉すら、
彼女の強固な世界にひび一つ入れることは出来ないのか。胸に染み込んでいた恐怖と言う寒さが、今度は焦燥感となって
俺を苛む。
「違う!俺は誰も殺してなんかいない!」
それから逃れる為に、俺は声を張り上げた。その声は震えていて情けない金切り声でしかなかったけれど、
せめて何か激情に身を委ねなければ、今にもこの雰囲気に飲み込まれて意識が途切れてしまいそうだったから。
赤井 雪江に反応はない。彼女にこれ以上話させてはいけない。俺は空気を吸い込む。冷たい冬の空気に肺が凍りつく前に、
彼女の世界を否定しなければ。
「俺は彼女を殺してなんかいない!あんただって分かっている筈だろう!あんたがあの時俺の後ろにいたというのなら、
俺に彼女をあの窓から突き落とすことなんて出来る訳がないんだって!」
「じゃあ、どうして霧子ちゃんは死ななければならなかったの!?」
突然、赤井 雪江が叫んだ。あまりのその突然さにまるで彼女が爆発したかのように視えた俺は、その爆風に弾き飛ばされた
雪に目を塞がれる。勿論、そんなものは錯覚だ。目を開ければ、床一面に降り積もった雪は何一つ乱されることなく先程までと
同じ風景を形作っている。だが、それでも俺は稲妻の直撃を受けたかのようなその衝撃から立ち直ることが出来なかった。
例え先程までと何一つ変わらない雪景色であっても、恐ろしい雷雲は過ぎ去ってはいなかったからだ。
赤井 雪江はもう俺から視線を逸らそうとはしていなかった。彼女は真っ直ぐに俺を見ていた、いや睨んでいた。
もし視線で人が殺せるなら…などありきたりに表現すれば邑上辺りが陳腐と笑うかも知れないが、それでももし本当に
視線だけで人が殺せるのなら、俺は間違いなく魂の一欠までの残さずに彼女に殺されているだろう。
禍々しい赤い月に照らされてもなお影としか認識出来ないその貌の奥に光る両の目から、俺は視線を逸らすことが出来ない。
その視線はもはや物理的な重さを伴い、硬くて鈍い二本の鉄杭となって俺の両目から頭蓋骨を貫通しているからだ。
それはもはや呪いだった。赤井 雪江は今、或いはもっと以前からか、全身全霊をかけて俺を憎んでいたのだ。
「そうよ、霧子ちゃんが死ななければいけない理由なんて無いの。何故家出なんかしたのかは知らないけれど、
あの子はとても強くて、自分で自分を殺すようなことは決してしないわ。私はその強さが羨ましくて、あの子を探して追いかけて、
そうしてあの日、私は漸くこの場所に辿り着いたの。そうしたら貴方があの玄関から出てきて、その直後にあの子は
あの窓から飛び降りた。漸く此処まで辿り着いたのに、私はついにあの子の声すら聞くことが出来なかった。
貴方があの子に何かしたのでしょう?此処はあの時からもう誰も住んでいない廃マンションだった。確かに貴方はあの子を
直接突き落としてはいないけれど、誰も居る筈のないこの場所であの子が死ななければならない理由を作れるのも
貴方しかいないわ。
貴方があの子を殺したのでしょう?あの人と同じように、酷いことをして霧子ちゃんを死に追いやったのでしょう?」
全身を巡る憎しみを振り絞るように、赤井 雪江が俺を問い詰める。言葉だけでは足りないのか、凶器のような視線を
俺の鼻先に突きつけたままで。
「違う…俺は何もしていない…」
彼女の世界は壊れない。いや、それどころが彼女の世界は今や俺の世界までも侵食しようとしていた。
俺はあの少女、加嶋 霧子に何もしていない筈だ。俺と居る時、彼女はいつも笑顔を見せてくれていたではないか。
それなのに、赤井 雪江が言葉を重ねるごとに、まるで彼女の言葉こそが真実であるように思えてしまう。
俺の中に在るあの少女との思い出が、凄惨で救いのない惨劇として塗り替えられてしまう。
「俺は何もしていない…」
俺の呟きはもはや誰に向けられたものでもなかった。ただ、俺が俺の世界を守る為に縋り付いているだけの言葉。
「嘘よ。貴方が殺したんだわ」
赤井 雪江は容赦なく繰り返す。そんな彼女も、この夜の骨に染み込む様な寒さに侵食されて震えていた。
思えば、彼女は昨日からこの廃マンションにいたのだ。その疲労は限界に近いのだろう、彼女は屋上にぐるりと
張り巡らされた手すりに身を預け、かろうじて身を支えている。これ程の憎しみを休むことなく俺にぶつけ続けている彼女が
今にも俺に襲いかからないのは、俺と彼女を隔てる白くて赤い雪の絨毯を乗り越えるだけの体力が今の彼女には
もう無いからだろう。もし今それが彼女にあったのなら…俺はその先を想像することが恐ろしかった。男女の体力差だとか
凶器の性能だとか地の利だとか、殺人という行為においてそんなものは何の意味も持たない。人を殺すのは、人を死に
至らしめるのは、凶器でも手段でもない。人を殺すのは殺意なのだ。一点の曇りも無い憎しみを抱く者だけが、それを行う
資格を持つのだ。
「俺じゃない…」
俺にはもう壊れた機械のようにそう繰り返すことしか出来ない。
「貴方が殺したのよ」
赤井 雪江も壊れた機械のようにそう繰り返す。
「加嶋 霧子は自殺ですよ。直人には何の関係もない」
低い声が夜に響いた。それは世界に亀裂の走る音。
赤い風が吹いて、刹那視界が赤く埋め尽くされる。目を開けた時、其処に邑上が立っていた。
いつの間に現れたのか、赤い月を背負い白い雪を踏みしめて、魔術師・邑上 信司が其処に立っていた。
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