ⅩⅠ   零の感覚



 ばさり。
 気の早い冬の太陽が沈んで闇に染まった空に、まして人も出歩けないようなこんな大雨の夜に、あり得ない
鳥の飛び立つような気配がした。その鳥は俺の足元から飛び立って一直線にくすんだマンションの壁にぶつかり、
絶え間なく響く雨音の中に乾いた金属音を混じらせた。
 鳥ではない。これは…傘?
「酷い顔だな。幽霊でも見たのか」
 どこかで聞いた、いや、よく耳にする人を食ったような言葉と声。その声の主の名を思い浮かべるより早く、
水滴のはじける霧が集まって俺の前に一人の人間の像を結ぶ。
 ずぶ濡れになり、俺に払われた手を庇うように立つ俺の友人、邑上 信司。



「全く酷い奴だな、お前は。いくら電話しても追って沙汰が無いし、わざわざ迎えに行ってやったらいきなり逃げ出すし、
傘に入れてやろうとしたら暴れるし。おかげで俺までずぶ濡れになったあげくに傘まで無くしてしまったじゃないか。
弁償ものだぜ」
 雨はまだ降り止まない。俺と邑上は幽霊マンションの軒下で雨宿りをしていた。お互い雨の当たらないぎりぎりの位置に
立って、マンションの入り口に背を向けた格好だ。もっとも、俺も邑上も既にずぶ濡れで、これではもはや雨を避ける
意味もないのだが。
「お前の方こそ趣味が悪い。尾行するような真似しやがって。悪ふざけが過ぎる」
 視線を目の前の広場に向けたままで、俺。なにしろあれだけの醜態を晒した後だ。気まずさと怒りで邑上の顔を
まともに見ることが出来ない。正直これ程の大雨が降っていなかったら、とっととこいつから離れたいところだ。
「声をかけようとしたらお前が勝手に走り出したんじゃないか。わざわざ荷物を拾って持って来てやった友人にその言い草は
酷いぜ」
 そう言う邑上はやはり視線を前に向けたままで、小脇に抱えていたものを俺に押し付けてきた。先程転んだ拍子に
俺が落としてしまった買い物袋だった。俺達と同じく雨に打たれて濡れてはいるが、ビニール製の袋のおかげで中身は
無事なようだ。
 それを受け取るときに視えた邑上の横顔があまりにもいつも通りだったので、俺はなんだか怒っているのが
馬鹿馬鹿しくなってしまった。そうすると途端に安堵感が込上げてきて、今の今まで感じていた筈の怒りや羞恥を
塗り潰してしまった。その安堵感も束の間、すぐに疲労感へと姿を変える。
「まあ、お前の趣味が悪いのは今に始まったことじゃないか。魔術師」
「だから俺は別にお前を尾行なんかしてないって」
 雨に止む気配は無い。背後から忍び寄ってきた冷たい風が濡れきった背中に触れて、今度は生理的な震えが俺の中を
駆け抜けた。俺達の背後には、陰気な幽霊マンションの入り口がまるで地獄への入り口のようにぽっかりと口を開けている。
きっと、今俺の目の前に広がる暗闇よりもずっと濃い闇がわだかまっているのだろう。振り返れば、その向こう側を俺の目は
視ることが出来るのだろうか。それはいずれ確かめて見なければいけないのだろうが、今はただ億劫で、だから俺の視線は
相変わらずあの少女のいた広場を捉えたまま、言葉は隣で俺と同じように佇む悪友に向けられた。
「だいたい何であんな所に居たんだよ、お前は」
「いくら電話してもお前が出ないから家まで迎えに行こうとしていたんだよ。そしたら丁度良く道を歩いているお前を
見かけたから声をかけようとしたら、これだ」
 だからわざわざ追って来てやったんだ、とわざとらしく肩を竦めて邑上が言う。ポケットの中の携帯電話を取り出してみると、
確かに邑上からの着信が数件入っていた。液晶に表示された着信履歴のある時間まで読み取れるということは、
俺が気付かなかったのだろう携帯電話の振動も俺の無意識は気付いていて、ご丁寧に時刻までチェックしていてくれていた
という訳だ。まるでいなくなった愛犬を探し出してみたら他の飼い主に何の疑問もなく飼われていて、おまけに
元の主人のことを綺麗さっぱり忘れていたというような何とも情けない気分になって、俺は小さく溜息を吐いた。
目の見えない俺にとってそれは喜ばしい脳の働きには違いないのだろうが、もう少し上手く機能しないものだろうか。
「その例えは難度が高いな。解るような気もするんだが」
 くしゃくしゃになった煙草のソフトケースを取り出しながら、邑上が俺の感想をそう評価する。やはりくしゃくしゃになった
煙草をくわえて火を燈そうとするが、湿っているせいかなかなか上手くいかない。寒さで手が震えているからなおさらだ。
苦労して火を燈し暗闇の中にそれでも白く浮かび上がる煙を吐き出す。
「だいたいお前は大概のことに気付かないな。今だって雨の中ぼんやりと立ち尽くしていたのだって、どうせ大降りになるまで
気付かなかったからなんだろう?事故に遭う前からそういう傾向はあったよ。お前のその喜ばしい脳の働きとやらと、
あながち無関係でもないと思うがね」
 視線を俺に移して邑上が言う。此処に来て、ようやく俺達は顔を合わせた。考えてみれば今日初めてだ。季節外れの
大雨が降るこの寒空の中にあって、邑上のくわえた煙草に燈る灯りは蛍の光のように儚く、それでいて何処か頼もしかった。
「お前と違って集中力があるんだよ。お前の尾行に気付いたのだって、電車を降りてからだったしな。気付いてしまえば、
ずっと前から尾けられていたことにも気付くのだけれど」
 俺がそう言うと邑上は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、そのまま視線を目の前の広場に戻してお得意の講釈を垂れ始めた。
「それは…零の感覚という奴だ」
 じりっ、というどこか暖か味のある音がして、邑上のくわえた煙草から灰が落ちた。
「零の感覚?聞いたことが無いな」
「俺の造語だからな」
 成程、それでは聞いたことがない筈だ。
「人間の五感というのはどれも優秀で、いつでも多量の情報を絶えず脳に送り続けている。でも、日常で受ける微細で
無意味な感覚をいちいち意識していたりしたら、情報過多のストレスで狂ってしまうだろう。だから、人間の脳は意味が無いと
判断した情報、ノイズにはフィルタをかけてしまう訳だ」
 例えば空気の匂い、唾液の味、衣服の感触、電化製品の発する単調な振動音。それらは例え最初は気になっても、
他のことに思考を割けばすぐに消えてしまう。つまりはそういうことだろう。
「嗅覚なんかはすぐに疲労で麻痺してしまうというが、まあ概ねそんなものだろう。蛙なんかは動くものしか視えないって
いつかのテレビ番組で解説していたな。そんなもの、蛙に聞かなければ判らんと思うがね」
 皮肉っぽく口の端持ち上げ、再び煙を吐き出す邑上。
「思うに、蛙は動くものしか見えないだけで、そうでないものも視えているんだよ」
 見えると視える。わざわざ煙草の灯りで虚空に文字を書いて説明してくれる。
「自分が動いている間は周りの全てが見える。自分が止まってしまえば見えなくなるが、その中で動くものがあればそれを
見る。蛙にとって重要なのは動いているもの、つまり生きた餌だってことなんだろうけれど。だからといって止まっているものが
視えないとは限らない。止まっているものは変化していないということだから意識する必要が無いだけで、脳が覚えた景色は
背景としてちゃんと蛙にも視えていると思うね。ちょうど、アニメ映画を作るときのセル画みたいなものさ。いや、それこそ
お前の擬似視覚そのものじゃないか」
 それが蛙とお前にとっての零の感覚だ、と邑上は言う。蛙と一緒にされるのもどうかと思うし、それで蛙に親近感を覚える
訳もないのだが、解り易いことは確かだ。
「でも蛙やお前はともかく、人間となるともう少し解り辛い。
 お前の言葉をなぞるなら、鼻の粘膜の匂い、舌の細胞の味、皮膚の表面で毛の触れ合う感触、自らの血流の奏でる音と
いったところか。
 例えば長いこと正座していると足が痺れるだろう?つまり痺れるという感覚がある訳だ。でも、本来痺れるというのは
麻痺するということで、感覚が無い状態を指す筈なんだ。それなのに、正座の後には痺れるという感覚が在るように
思ってしまう。これは人間が常に感じているノイズを含めた状態を零として認識しているからなんだよ。だから麻痺して
ノイズまで無くなると、脳はマイナスの感覚というものを誤認してしまう。感覚が無いというのは実は間違っている。
無いと思ってしまうのは脳の働きで、感覚器官そのものは常に働き続けているということだ」
 だから零の感覚なんだ、と邑上が纏めた。俺はというと、人間よりも蛙に分類されたことに憤りつつも、思いの他
長い台詞だった為に突っ込むタイミングを逃してしまった。仕様がないので話を戻すことにする。
「じゃあ、俺が足音や雨や携帯の振動に気付いて、いや気付いていたことに後から気付いたというのは…」
「お前の脳が無意味だと判断して情報を捨てていた情報ということ…いや、違うな。お前の無意識が報告の必要は無いと
判断して意識には伝えなかった情報だな。後から思い出すことが出来た訳だから。
 情報に対する価値判断ってのはかなり個性がでるんじゃないかと俺は思う。小心者の無意識は逐一意識に感覚を
伝えるってことだろうし、その逆もまた真なりだろう。お前みたいに研ぎ澄ましていれば鋭いのに別のことに集中すると
途端に周りが見えなくなるようなタイプは、きっと情報の価値の優先順位がもの凄くはっきりしているってことなんだろうな」
 邑上は短くなった煙草を指に挟むと、それを目の前の虚空に向けて差し出した。刹那、軒先から落下した雫が煙草の
先端を貫く。じゅう、という小気味良い音と共に僅かながらも辺りを照らしていたオレンジ色の炎が消滅し、
暗闇がその濃さを増す。なかなか器用なものだ。
 湿った煙草が地面に落ちる。沈黙が訪れ、降り止まない雨の音と邑上が次の煙草を取り出そうとするがさごそという
音だけが、しばし暗闇の支配者となった。
 長く場違いな講釈ではあったが、先ほどまで俺を悩ませていたことの理屈が解って俺は少し安心した。しかし悩みの原因が
依然不明なままであることに気付き、礼を言おうとしていた舌に俺は別の言葉を乗せる。
「それは解ったけど、結局お前は何故俺を尾けてきたりしたんだよ。約束の時間まではまだ余裕があった筈だろう」
「くどいようだが、俺は別にお前を尾行してなんかいないからな。後、お前のせいでもうその時間の余裕も無くなったよ」
 腕時計の照明をつけて時間を確認しながら、邑上が言わなくても良いことをわざわざ言う。
「その予定が早まったから、その旨お前に伝えようとしただけだ。お前もその場に居た方が良いだろうと思ってな」
「予定が早まった?」
 予想外といえば予想外な言葉を耳にして、思わず俺は間抜けにも同じ台詞で聞き返す。
 赤井 雪江以外の人物から加嶋 霧子のことを聞きたい。それも、赤井 雪江のいない場所で。それが俺と邑上の共通した
見解だった訳だが、加嶋 霧子と近しい人物、出来れば同級生や同世代の友人が良いと俺が言うと、邑上は今日中に
当たっておくよと何とも頼もしい言葉をそっけなく返してくれた。
 しかし今、時刻は既に夜だ。面識のない人間、それもうら若い少女の家を訪問するような時間では決してない。邑上が
約束を守ってくれているのなら、既にその仕事を終えていなければならない筈だ。勿論、邑上が今日中に彼女、或いは
彼女達に話を聞くことが出来なかったのだとしても俺にそれを責める気もいわれもない。しかし、どうにもそういう訳でも
なさそうだ。そもそも、邑上は予定が早まったと言ったのだ。さらに、その場に俺が居た方が良いとまで言っている。
まさか本当に、これから誰かに会いに行くとでも言うのだろうか。
「降り止まないな、やっぱり。仕方ない、走るか。向こうを待たせるのも悪いしな」
「待たせるって、おい邑上、どこに行こうというんだよ」
 意を決して軒下から飛び出そうとしていた邑上が動きを止め、迷惑そうな馬鹿にしたような目で俺を睨む。
「何を言っているんだ。俺の部屋に決まっているだろう?」
 そう言って邑上は今度こそ雨の中に飛び込んでしまった。滝のような雨はすぐに彼の姿を隠してしまった。
今はその向こうから、ばしゃばしゃという水を蹴る足音が聞こえるだけだ。
 やれやれ、落ち着きが無いのはどうやら俺だけではないらしい。彼の魔術師が如何なる魔法を用意したものかは
知らないが、その謎の解明は後回しにしよう。これから邑上の部屋に行くというのなら、電車に乗らなければならない
ことになる。このずぶ濡れのみすぼらしい格好でそれはまずいだろう。一度俺の部屋に戻って体を拭いて、
出来れば乾いた服に着替えたいところだ。俺の部屋に傘は二人分あっただろうか。
 邑上は走り出してしまったが、先ほどの追跡劇の結果とあいつの慌しい足音を聞く限り、追いつくことはそう難しくも
ないだろう。視界が悪ければ悪いほど、追いかけっこでは俺が有利になるのだから。

 3秒数えて息を整え、俺もまた土砂降りの雨の中に身を投じた。一度だけ振り返ってあの幽霊マンションの入り口を返り視る。

 その奥にわだかまる闇、それはまるで俺がいつか其処に戻ることを確信しているかのように、今はまだ無言のままで
俺を見送っていた。



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