ⅩⅡ   邑上 信司の魔法



「チャット?」
 熱めの珈琲を胃に流し込んで暖をとりながら、俺はそう聞き返す。
「そう。チャット。オタクみたいでしょ?」
 珈琲を注いでくれた深雪がそう言う。奥でパソコンの準備をしていた邑上が、今時にチャットくらいでオタク呼ばわりとは
姉貴も旧世代の人間だなと当てつけた。
 邑上の部屋である。時刻はそろそろ8時。雨はまだ降り止まない。
 昼に買ったばかりの服のおかげで着替えることが出来た俺達は、その後すぐに電車に飛び乗って邑上の部屋に向かった。
其処で俺達を向かえてくれたのはなんと、俺の目には性質の悪い冗談としか映らないが真実邑上 信司の姉である、
邑上 深雪その人であった。



 個人的な目的でこの街を訪れ、なし崩し的に俺に協力してくれている邑上の姉、深雪。彼女がまだ地元に帰らずに
此処に居てくれているというのは俺にとっては好都合であり、感謝すべきことでもある。しかし彼女には彼女の生活が
あるだろうし、何時までも此処に留まっている理由はない筈だ。しかも彼女は俺と再会した日からずっと弟の部屋に
宿泊しているのだという。どこぞのホテルに宿をとっているというのならともかく、何故こんな場所にいるのか。
こんな場所などと口を出して言えば邑上から文句が飛んでくるのだろうが、独身男性の一人住まいなどというのは
ほぼ例外なく散らかっていて汚いものだし、邑上の部屋もその例に漏れず、いや、一般的な独身男性の部屋の中でも
さらに汚い部類になる。俺の部屋の方が、幾分マシなくらいだ。
「大学は今冬休みで暇だしね。それに私は雪江先輩に就職についての相談をしに来たの。直人君が探している女の子が
雪江先輩の生徒だというのなら私とも無関係とは言えないし、雪江先輩とは全部終わって落ち着いてから話がしたいしね」
 俺のカップに珈琲のおかわりを注ぎながら、雪江がそう言った。俺の目にそう映るだけなのだろうが、中学生にしか
視えない彼女が邑上の部屋で来客であるところの俺をもてなしている様子は、まるで親戚の家に遊びに来た少女が
背伸びしてお手伝いをしているかのようで、なんだか視ていて微笑ましい。
 とまれ、ありがたい話である。弟とはえらい違いだ。とても血の繋がりがあるとは思えない。
「それにホテルに何泊もすると高くつくしね。その点、信司の部屋なら無料(ただ)で何泊でも出来るし」
 彼女がそう続けると、作業中の邑上はパソコンに向かったままで、無料じゃない、ちゃんと宿泊費は払ってもらうと叫んだ。
続けざまに、姉に珈琲を所望する。
「それが一日いくらのつもりなのかは知らないけれど、請求書は直人君にお願いね。探偵助手の必要経費ということで。
それから珈琲は自分で淹れなさい」
 などととんでもないことを言う。前言撤回。全く似てはいないが、この二人には確かに血の繋がりがあるようだ。
「何故か姉貴が俺のベッドで寝て俺が寝袋で寝ているのだから、それくらいは当然だろう。俺の分も合わせて後で纏めて
請求するから覚悟しておけ。
 それより直人、俺にも珈琲を淹れてくれ。姉貴にとってはともかく、俺にとってはお前は来客なんかじゃないんだからな」
 仕方なく俺は奴の分の珈琲を適当に淹れて、邑上に手渡した。そのついでに彼のパソコンの画面を後ろから覗き込むが、
残念ながら何をしているのかはさっぱり解らない。俺だって仮にもシステムを学ぶ人間なんだからコンピューターに疎い
などということは決してないのだが、俺の目にはパソコンの画面は黒いままにしか視えないのだから仕様がない。
「それで、なんだよ、チャットって。そろそろ解るように説明してくれ」
 改めて俺が問いただすと、邑上は手を止めて椅子ごと俺の方を向いた。どうやら作業は終わったらしい。珈琲を一口啜る。
温いなと文句をつけることも忘れない。
「チャットっていうのはコンピューターの前にいる人間同士がネットワークを介してリアルタイムで文字列を交換する
コミュニケーションの手段だ。離れた場所の不特定多数の人間同士が文章で会話出来る。会話というより会議という方が
近いかな」
 俺の問いかけに、邑上は辞書に書いてあるそのままのような説明を返す。繰り返すが、俺も大学ではシステムを専攻する
人間だ。そんなことは解っていると言うと、邑上は其処の旧世代の人間に説明したまでだと言って笑った。
「加嶋 霧子の学ぶ麻布中学校は、偏差値が高くてわりと有名な学校なんだ。そういう学校なら中学生でもパソコンやっている
奴は多いし、調べてみたら案の定、ウェブサイトに専用の掲示板があったよ。だから其処に書き込んでいるめぼしい奴に
メールで連絡を入れて、俺の持っているホームページのチャットルームで話が出来ないかと持ちかけたんだ。適当に事情を
話したら、喜んで応じてくれたよ」
 成程、その手は考え付かなかった。実に邑上らしい裏技といえるかも知れない。しかし…
「でも、その人達信用できるの?本当にあの中学校の生徒かどうか判らないじゃない」
 どう視ても邑上より年上には視えない旧世代の人間こと深雪が、弟にもっともな意見をぶつけた。
「それは直接会っても同じことだろう。一応、過去の書き込みを読んで信用できそうな人間をピックアップしておいた。
メールでの確認はとってある」
 それに応じてくれた全員が嘘吐きということもないだろう、というのが邑上の言である。
「でも大したこと知らないかも知れないし、嘘をつくかも知れないじゃない。顔も見えないし、責任も無いんだし」
 旧世代の少女はなおも食い下がる。
「どうせ具体的に聞きたい内容がある訳でもないのだし、本人達が知っていると言う以上噂レベルのことは知っているだろう。
それに顔が見えない、相手が誰か分からないからこそ言えることもあるだろうさ」
 会話のログは後で消せる訳だしな、と付け足した。それでもいまいち納得出来ないのか、深雪は視線だけで俺に意見を
求めてきた。だが、俺に異存がある筈もない。此処まで迅速にやってくれたことは感謝すべきことだし、たいした情報が
得られなかったのなら改めて再調査すれば良いだけだ。
「それはもう始められるのか」
「何時でも」
 頼む、と俺が言うと、邑上はにやりと笑って机の上の灰皿を引き寄せてから煙草に火を燈けた。くわえ煙草の状態で、
パソコンにキーを入力する。

 邑上がキーボードを叩く、カタカタという小気味良い音が規則的に響く。
 今、パソコンの前の椅子には邑上が座り、それを俺と深雪が後ろから鈴なりに覗き込んでいる格好だ。考えてみれば
俺にはパソコンの画面に表示されているものは視えないのだし、邑上か深雪のどちらかに読み上げてもらわなければ
ならないのだから、俺が此処でこんな体勢でいる意味は全く無い。こんな体勢になってからそのことに気付いたのだが、
一度こうしてしまうと同じ体勢をとっている深雪の手前、なんとなく戻り難くなってしまった。機を見てテーブルの前の椅子に
座りなおすことにしよう。
「あんた、文章だと丁寧に話すのね」
「何時だって俺は丁寧だよ。姉貴ががさつで丁寧の意味を知らないだけじゃないのか?」
 姉弟がじゃれあう。多分、邑上がチャットルームに来た人にした挨拶について言っているのだろう。
 ちなみに邑上の名誉の為に言えば、彼は決して礼儀知らずな男ではない。礼儀を出し惜しみするだけだ。
「お、来た来た」 
 どうやら返信(レス)が来たようだ。皆礼儀正しいわね、と深雪が漏らしたところを見ると、今のところ邑上の人選は外れては
いないらしい。また何やらカタカタと邑上がキーボードに打ち込む。
「それで、何が聞きたい?」
 唐突に邑上が俺に振ってきた。聞きたいことは色々考えてあったのだが、チャットとなるとどういう態度をとって良いものか
判らない。俺もこの手の遊びを日常的にしている訳ではないのだ。
「とりあえず、加嶋 霧子との関係を聞いてくれ」
 ひとまず無難な質問をしたつもりだったのだが、邑上は答えてくれるかなあと小さく呟きながら、それでも何やらまた
打ち込んだ。数十秒の時が過ぎる。
「えーと、クラスメイト、クラスメイト、同学年、弟が同学年、下級生、と。
 クラスメイト二人と同学年は女生徒、弟が同学年も本人は女性、下級生だけ男だそうだ」
 なかなか大漁だな、と邑上が呟く。確かに、クラスメイトの女生徒が二人も参加してくれたというのは大きい。
「ああ、クラスメイト二人は何だか知り合いらしいな…って、当たり前か。お互いにハンドルネームで判ったらしい。
ますます好都合だな。知り合いがいたとなればきっと会話も弾むし、口も緩むだろう」
 そういうものかも知れない。俺はそのハンドルネームを聞こうとしたが、あまり意味が無いので止めた。
「信司のハンドルネームはMagus(魔術師)ですって」
 俺のそんな気配を察したのか、深雪はしかし何だか明後日なことを教えてくれた。その言葉に対して邑上の反応は特に無し。
当然だといった感じだ。徹底したものだ。
「それじゃあ彼女を直接知っている人達に、加嶋 霧子がどんな娘だったか聞いてくれ」
 俺がそう言うと、邑上はまたカタカタと何ごとかキーボードに打ち込む。と、割と早く返信があったのか、邑上姉弟が同時に
反応した。
「ふうん」
「珍しいわね」
 珍しいのか、割といるんじゃないのかと邑上が姉に問い、女の子では珍しいわよと深雪が返した。どんな情報なのか
知らないが、二人が教えてくれなければ俺だけが置いていけ堀だ。
「おいおい、頼むから読み上げてくれよ。俺には画面が視えないんだからさ」
「一人称がボクだったらしい」
 深雪は俺には画面が読めないことを忘れていたらしく、ごめんねと言ってから慌てて読み上げようとしたのだが、
邑上がそれを遮るように先に読み上げた。きっと邑上はわざとやっているのだ。
「別にオタクっていう風でもなかったけど。括弧笑い、と」
 邑上が心なし棒読みで答える。この部分は返信をそのまま読み上げているのだろう。
「Wって書いてあるように見えるけれど?」
「それが括弧笑いっていうのを省略したような意味なんだよ。俺は嫌いなんだけどな」
 成程。
「女の子でそれは、やっぱり珍しいんですか?」
「珍しいわね。小学校に入学したばかりの時に一人自分のことをそう言う子がいたけれど、他の子にからかわれてすぐに
止めたわ。中学生くらいで自分のことをボクっていう女の子は珍しいと思う」
 そうか、やっぱり珍しいのかと呟く、何故か妙に拘る邑上。でもそれが失踪の手がかりになる筈もない。
「他には」
「他には特に無いそうだ」
 特に無し?俺が聞き返すと、そう言っていると邑上が答えた。
「ええと、成績は良かったけど特にがり勉という風でもなく、休みがちだけど不良という訳でもない。体が弱いということも
なかったそうだ。一人称はおかしいけど、他におかしなことを言うような娘でもなかったらしい」
 カタカタ。また何事か邑上が打ち込む。
「一人称について聞いてみても、笑って誤魔化されたとさ」
 一人称について本人に何か聞いていないかわざわざ質問したらしい。邑上は自分のことをボクと言う女の子に何か特別な
感情でも持っているのだろうか。
「ああ、おかしいといえばその辺りがおかしいかも知れないって言っているな。話かけたら普通に応えてくれるのだけれど、
自分からはあまり話さない性格だったらしい。特に自分のことは殆ど話さなかったって。趣味とかについても
良く分からないって言っているよ」
 壁を作っていたってことかしらねと、弟の言葉に深雪が呟いた。
 なんだか加嶋 霧子に持っていたイメージが変わってきた。概ね想像していた通りではあるのだが、赤井 雪江の言っていた
加嶋 霧子のイメージよりも、ずっと社交的で目立たない生徒だったようだ。
 さて、次は何を聞くべきか。
「それじゃあ、家族については誰か知らないか。家に遊びに行ったことがある娘とかはいないのか」
 俺が問う。またカタカタとキーボードを打つ音が響く。
「いないってさ。加嶋 霧子は家に人を呼ばなかったし、誰かの家に遊びに行ったことも無い。少なくとも此処に居る人達は
そういう話は聞いたことが無いって」
「何度か遊びに誘ったけど、何だかんだと理由をつけて断わられたって言っている子がいるわね、同級生で」
 どうやら放課後に友人と会っていたりはしていなかったらしい。この年代の少女としては珍しいのではないだろうか。
俺も中学、高校の頃は毎日のように友人達とつるんで遊び廻っていた。今だってこうして、邑上とお互いの部屋に行ったり
来たりしているのだ。深雪が言った、壁を作っているという表現は的を射ているのかも知れない。
 一人称がボクであること以外はだいたい普通の女の子、ただし放課後に一緒に遊ぶような親しい友人はいなかった。
それが加嶋 霧子という少女らしい。
「恋人とかいなかったのかしら」
 突然そんなことを深雪が言った。ふと視ると、心なしか瞳が輝いているように視える。他人の恋愛話が好きなのかも知れない。
「中学生だぜ、姉貴」
「居るかも知れないじゃない。私が中学生の時だって、周りにそういう話が無かった訳じゃないわ。恋人がいたなら、
付き合いが悪いのも頷けるし」
 今だって中学生にしか視えない深雪がそんなことを言う。勿論そう視えるのは俺だけなのだろうが、半ば条件反射で
俺は突っ込みを入れてしまう。無論、心の中でだけだが。
 そういえば彼女も本来は立派な大人の女性なのだから、深雪の方こそその辺りはどうなのだろう。彼女の弟やその友人が
その手の話に縁遠いからといって、深雪までそうだとは限らない。
 俺がそんなどうでも良いことを考えている間に、邑上は律儀にも姉のその質問を電子の海に投げ込んだ。
「多分居ないだろうってさ。少なくとも公然とそういう話が出たことは無いって。可愛い子だから男子生徒には人気が
あったけど、その中に告白できる程の勇気を持ち合わせていた奴はいなかったらしい。まあ、餓鬼だしな」
 餓鬼でなくとも独り身の悪友が溢す。なんだかどこか拗ねたような台詞だ。俺がそう彼に言えば、邑上はきっと、
告白するに相応しい相手がいないだけだとでも言うのだろう。俺にしたって、他人のことは言えないのだが。
「やっぱり壁を作っていたってことかしら。
 あ、待って。恋人居たかも知れないって。同じ学校の男子生徒と二人きりで中庭で話しているのを見たって言っている子が
いるわ」
 急に華やいだ声で、深雪。二人きりで中庭で話していたからといって即恋人に繋がるとは俺には思えないのだが、もしそうなら重要な情報だ。彼が何か知っているかも知れない。
「ん?違うって。ふうん?」
「その時以外に彼女達が二人きりでいた所を誰かが見たという話は聞かないってクラスメイト二人は言っているわ。
そんなこと判らないじゃない」
 何故か少々声を荒げて深雪が言う。彼女は彼女で、この仮面座談会を楽しんでいるようだ。
「同じ学校の生徒なら、付き合っていたなら学校でも会うのが普通じゃないのか。これだけ色々知っている人達が知らないと
言うのだから、きっと別の用件だったんだろうぜ。落し物を届けただとか、生徒会の打ち合わせの時間の変更を知らせただとか」
 邑上が妙に具体的な例を挙げて姉の言葉に反論する。お互いに凄くシャイで普段会えなかっただけかも知れないじゃないと
深雪が弟に言い返す。どうにも深雪は二人をくっつけたくて仕方ないらしい。それを付き合っていると言うのかと、邑上が
場違いに論理的な言葉で返す。
「とにかく、学内に特別親しい友人は無し、と。おっと、加嶋 霧子の家族の話、噂レベルでなら聞いたことがあるって言う人が
居るぞ。弟が同学年のお姉さんか。俺も失踪したら、姉貴にあることないこと言われるのだろうか…」
 あんたのことなんか知らないわよと、弟の軽口に深雪が答える。仲の良い姉弟だ。本人達にそれを言えば一斉に
否定されるのだろうが、第三者の視点から視れば間違いない。
 と、邑上姉弟の評価をしている場合ではないか。噂レベルとはいえ、家族のことを知っているなら重要な証言だ。
なにせ赤井 雪江の言葉が正しいのなら、娘の失踪に一週間も気付かなかったような家族だ。その辺りに何か、
失踪の理由が隠されているのかも知れない。
「それを聞いてくれ。噂でも良いから」
「もう聞いたよ。ええとだな、加嶋 霧子は母子家庭らしい。これは信憑性のある情報で、多分間違いはないと言っているけど
どうだか。あと、その割には家が大きくて立派で、お金は持ってそうだと。なんでそんなこと知っているのやら」
 いちいち突っ込みながら、邑上が教えてくれる。この辺りは、赤井 雪江から聞いた話のイメージと概ね一致するようだ。
「兄弟姉妹は無し。そもそも、母親からして昼間に近所にいるのを見た人はいないって、だから何でそんなことまで知って
いるんだよ…ああ成程、近所に住んでいるのか。詳しい訳だ」
 加嶋 霧子の近所に住んでいて、しかも弟が彼女と同じ学校の生徒、しかも同学年と。たいした情報源だ。ますます邑上の
人選は正しかったことになる。
 だとすれば、この情報は信用できる筈だ。家に人が、それも子供がいれば、例え付き合いがあまり無かったとしても
近所に住んでいる人間には判るだろうと思う。現に、霧子自身がその家に住んでいることは傍目にも判ったのだろうし。
「それで、噂レベルなのは此処から。霧子には弟がいたのだが、それが小さい頃に交通事故で亡くなっていると言っている。
父親は裕福だったがそれが原因で親が離婚、その際たっぷり慰謝料をふんだくったから家が立派で食うにも困らないと。
噂話にしても下世話だな」
 下世話なことは確かだが、根も葉もない噂だけで弟やら交通事故やらという単語が出てくるものだろうか。
加嶋親子がずっとその家に住んでいるのかどうかは知らないが、もしそうなら近所に住む人がそういう話を耳にしていても
おかしくはない。あながち、噂と言い切ってしまうものではないかも知れない。
「母親は外に男を作っていて、そのせいで家庭は崩壊寸前ですって。殆ど性質の悪い昼ドラね。ああ、この人他の参加者にも
怒られているわ。当然ね。噂を聞いていたとしても、そうそう軽々しく口にすることじゃないわ」
 先程はありもしない恋愛話に目を輝かせていた深雪が、それでも此処では大人らしいもっともな意見を口にする。しかし、
疑わしくとも霧子の家庭のことについての情報が得られたことは大きい。そもそもその為のチャットだ。
 そして亡くなった弟やら交通事故やらはともかく、発言者の示唆する加嶋家の現状は赤井 雪江が語っていた状況と…
一致する。
 中腰の姿勢が辛くなり、俺は姿勢を正して腰を叩いた。珈琲を淹れて来るわねと言って、深雪もパソコンから離れる。
俺が邑上にウインクすると、邑上は分かっているよというような視線を返して再びキーボードに打ち込んだ。
 俺達がこんな座談会を用意したのは、それは赤井 雪江がいないところでしたい質問があったからだ。つまり本題は…
「赤井 雪江という教師との関係について、何か知っていることがあったら教えてください、と」
 邑上が小声で打ち込んだ質問を声に出す。この質問は、出来れば深雪にも見られたくないものだ。別に赤井 雪江を
疑っている訳ではないのだが、彼女の後輩であるところの深雪に聞かれたら、流石に気を悪くするかも知れないからだ。
 インターネットの向こう側の回答者は多量の文字数の返信を用意しているのだろうか、今回は今までと比べると少し返信が
遅い。深雪が此処にいない間に答えが返ってきてくると嬉しいのだが。
「加嶋 霧子はどういう訳かあの新任教師だけには冷たく当たっていたって。そうか、やはり彼女だけなのか」
 邑上が小声で教えてくれる。珈琲を淹れてくれている深雪に少し後ろめたかった。でも、これはどうしても聞いておかなければ
ならない。
「え?絡んでいたのは赤井の方だったって?」
 邑上が声を上げ、慌ててそれを小声に直す。俺も驚いて聞き返した。
「なんだよ、それ。加嶋 霧子が赤井 雪江に突っかかって行っていたんだろう?難しい質問とか授業に対する批判なんかを
公然と授業中に指摘していたって。違うのかよ」
「ちょっと黙ってくれ。今読んでいるんだから」
 邑上は噛り付くようにパソコンの画面を睨みながらそう言った。おそらく、チャットルームに飛び交う会話を
拾っているのだろう。もどかしい。邑上の視線を追ってみても、俺には其処に書かれている筈の文字は読めない。
俺の目に映る画面は相変わらず真っ黒なままだ。はやくしなければ、深雪が戻ってきてしまう。
「ちょっと複雑だ。説明するぞ、ちゃんと聞けよ」
 邑上が余裕の無い声で俺に告げる。この男が焦っているのだ。一体何が書かれているというのだろう。
「まず同級生1の発言だが、これは赤井 雪江が言っていた通りだ。加嶋 霧子は現代国語の時間、つまり赤井 雪江の
授業の時だけ、積極的に発言していたらしい。それは極端に難しい質問だったり、雪江のミスの指摘だったり、内容自身は
授業中に生徒がするものとして別におかしくはなかったのだが、とにかくすごい剣幕だったらしい。しかも、それに答えられない
雪江を公然と批判していたと言っている。
 …それで本当に大学を卒業したんですかって、そんなこと言ったのか。凄いな。これが彼女が進級した一学期の中頃から
ずっとなんだそうだ」
 …正直、驚いた。赤井 雪江の話と相違ない訳だが、思っていたよりずっと厳しい言葉を加嶋 霧子は彼女の副担任である
新任教師にぶつけていたらしい。それが一学期からとは。加嶋 霧子の失踪は夏休みの後、秋頃。二学期の終盤といった頃に
なる筈だ。そんなに長い間、雪江を苛め続けていたとは。俺の持っている加嶋 霧子という少女のイメージ、それも今しがた
聞いた情報を吟味してできたイメージとすら、随分とかけ離れている。
 しかし問題は此処ではない。此処までは、程度の差こそあれ情報通りだ。問題はその後だ。
「で、だ。それに対する同級生2の証言なのだが、最初に突っかかって行ったのは赤井 雪江の方なのだそうだ。一学期の
最初は生徒が教師に接する普通の態度だったそうだが、その時点で赤井 雪江は何かと加嶋 霧子に干渉していたらしい。
放課後に職員室に呼びつけたり、二人きりで廊下で話していたりしているのを見聞きしたって言っている。なんだよ、
そんなこと聞いてないぜ」
 最初に干渉したのは赤井 雪江の方だったというのか。ならば何故、彼女はそのことを俺達に黙っていたのか。言えない様な
内容なのだろうか。
「過剰に干渉する赤井 雪江に対して、最初は普通に対応していた加嶋 霧子も次第に苛立っていったらしく、そのうち
冷たい態度をとるようになったって。放っておいて下さいって叫んでいるのを聞いたって言っている。放っておくって、
何のことだ。とにかくそれから、段々と加嶋 霧子の態度が変わっていったらしい。ああ、言い争いを聞いたのは
同級生2だけだが、加嶋 霧子の豹変の時期に関しては同級生1も証言している。そこは間違いないらしい」
 どうやら、加嶋 霧子が赤井 雪江に対してそういう態度をとっていたのは、赤井 雪江の方に原因があったらしい。
そして赤井 雪江は何故かそのことを俺達には黙っていた。話す必要はないと考えたからだろうか。
「赤井 雪江はそれからも頻繁に加嶋 霧子に干渉し、その度に無視されたり冷たくあしらわれたり、時に
怒鳴られたりしていたらしい。失踪前は特に酷かったと同級生は二人とも言っているな。ああ、他のクラスの生徒も
知っているらしい。結構大事じゃないか。何だこれは」
 キーボードから離した腕を組んで邑上が唸る。何故赤井 雪江は加嶋 霧子にそんな風に干渉したりしたのだろうか。
二人には何か特別な関係があったのだろうか。それは加嶋 霧子の失踪と…或いは彼女の死とも、何か関係があるのだろうか。
「赤井 雪江が加嶋 霧子に干渉したことについて、何か知っている人はいないか。あと、霧子の失踪の理由についても」
 組んでいた腕を解いて、邑上が俺の言葉を画面に打ち込む。
「…知らないってさ。失踪についても、ある日突然学校に来なくなったとしか分からないらしい。どうやら、赤井 雪江が
彼女を殴ったことについては、本当に誰も知らないらしいな。
 加嶋 霧子が赤井 雪江にそんな態度をとったことは解るとして、解らないのはやはり赤井 雪江の方だな。学校では
一体どんな教師だったのだろう。聞いてみるか…って、熱っ!」
「雪江先輩が何ですって?」
 何時の間にか邑上の頭の上にはホットコーヒーがたっぷり入ったポットが鎮座していた。その取っ手の先からは深雪の手が
伸びている。耐熱ガラス製とはいえ、あれは熱いだろう。
 場の空気が凍りつく。俺と邑上は叱られる寸前の子供のように口をつぐんだ。いや、それは実際そのままだろう。
俺も怖くて後ろを振り返れない。邑上の頭からはいまだ珈琲の湯気が上がっているが、ポットを持っている彼の姉の頭からは、
もっと熱い湯気が上がっているのだろう。
「あんたまだ雪江先輩を疑っていた訳?先輩は善意であんたたちの調査に協力してくれているのよ。どうかしているわ」
「いや姉貴、違うんだ。俺は直人の質問をそのまま書いていただけで…」
 邑上は咄嗟に俺に罪を擦り付けた。機転が利くのは素晴しいが、それは友人としてどうか。さしもの魔術師も、
自分の姉には手も足も出ないらしい。背中に汗をかいたまま、俺は脳の片隅でそんなことを考える。
「黙りなさい。パソコンの前にいるのはあんたでしょう。直人君が何と言おうとあんたに良識があればそんな質問は出ないの。
雪江先輩を犯人扱いしてそんなに楽しいの?」
 直人君の、という部分で深雪はきっ、とばかりに振り返って俺の方を睨む。俺も思わず視線を合わせてしまった。怒っている。
姿は子供でも、その迫力は間違いなく大人のものだ。そのアンバランスさは、かえって怖さを増幅している。
俺は言い訳も出来ずに背中に汗をかくだけだ。
「いやでも、依頼人を疑うのは推理の基本で…」
「今私たちがやっているのは家出少女の捜索で、殺人事件の調査じゃないの。そんなものは警察の仕事でしょう。
あんたはミステリーの読み過ぎなのよ。
 …そんなに探偵ごっこがしたいのなら、勝手にすれば良いんだわ。でもそれならあたしは手伝わないし、先輩にだって
会わせないんだからね!」
 ポットを乱暴にパソコンのデスクに置いて、深雪はつかつかと歩いて部屋を出て行った。おいおい、何処に行くんだよと
邑上が彼女に声をかけると、深雪は煙草を買ってくるのよ、と叫んで乱暴に扉を閉める。建付けの悪い重い扉が閉まる
ばたんという音が響く部屋の中に、俺と邑上だけが取り残された。
「…深雪さんって、煙草を吸うのか?」
「…姉貴にさん付けなんてしなくて良い。
 姉貴は吸わないよ。お前の手前本気で怒る訳にもいかなくて、いたたまれなくなったんだろう。ただの照れ隠しさ。
お前が居てくれて良かったって、生まれて初めて思ったぜ」
 すごい剣幕だったが、あれでも本気ではないらしい。女性の怒りというのは、男性のそれとはまた違った怖さがある。
加嶋 霧子が赤井 雪江を非難する授業中の教室では、男子生徒はさぞかし肝を冷やしていたことだろう。
「雨も止んだみたいだし、せっかくだから姉貴がいない間に聞けるだけ聞いておこう。戻ってくる頃には姉貴の機嫌も
良くなっているさ。俺と違って単純だからな」
 さっきまでおどおどと言い訳していた男の台詞ではないが、確かに今深雪が機嫌を治してくれても次は許しては
くれないだろう。赤井 雪江の風評についての情報を得られるチャンスは今しかなくなってしまった訳だ。
切り替えの速い邑上が、先程入力しそこなった質問をキーボードに叩き込む。
「暗い、要領が悪い、と」
 返ってきた返信を邑上が読み上げる。
「真面目な教師であることは認めるのだけれど、とにかく要領が悪い。授業でも始終緊張していて、聞き取り難かったり
間違ったりで大変解り辛い。だから真面目に勉強したい生徒には評判が悪いし、そうでない生徒にも勿論相手に
されていない、と。面白い話が出来たり人生相談に乗ったりできるタイプの教師ではないみたいだな。散々だ」
 黙々と邑上が読み上げる。確かに散々な言い様だ。赤井 雪江自身にもその辺りに自覚はあったようだが、
生徒にこうも言われるようでは本人の苦労も相当なものだろう。
「親しい生徒とか教師とかはいないのかな」
 調査云々というよりも彼女のことが心配になってしまって、俺はそんなことを聞いてみる。
「いないみたいだな。そういう意味では、まともに相手していたのは加嶋 霧子だけだったみたいだ」
 これまでの話を聞く限り、加嶋 霧子の対応はとてもまともとは言えないだろう、しかし、確かに赤井 雪江の相手を
していたのは彼女だけだったのかも知れない。だから赤井 雪江は、加嶋 霧子にそうまで干渉したのだろうか。
「ふむ、此処までだな。他に何か聞いておきたいことはあるか?」
 時間は10時過ぎといったところだろう。今時の中学生が寝なければいけない時間でもあるまいが、彼らにも生活がある。
あまり長々と時間を費かわせるのも悪いだろう。この匿名座談会も、そろそろお開きにするべきだろう。
 最後に何か聞くことはないか。そう考えていた時、俺の頭に病院で聞いたあの不吉な言葉が浮かんだ。幽霊マンション。
「幽霊マンション…って聞いたことはないか」
「幽霊マンション?何だよ、それは?」
 ひょっとしたらとは思っていたが、やはり邑上はあの廃マンションの通称を知らなかったらしい。俺がそのことについて
説明すると邑上は興味深そうに頷いて、俺の言葉を彼らに伝えるべくキーボードの上に指を走らせた。

「何故そんなことを聞く?」
 突然、邑上が聞いたことのないような声で俺に問うた。

「え?」
 一瞬、邑上が俺の知らない人間になってしまったような気がして、俺は声を裏返した。背中に先程流れたものとは
全く違う冷たい汗が流れる。
「俺が聞きたいんじゃない。向こうが返してきたんだ。なんだ、いやに反応が早いな」
 邑上はいつもの邑上のままに視えた。いや、それでも、彼の背中にも俺と同じ冷たいものが流れたのかも知れない。
 変わったのは邑上ではない。画面の向こう側の雰囲気だ。文字でしか伝わる手段が無いにも関わらず、いや、
それすら視えない筈の俺にまで、画面の向こう側の状況が変わってしまったように思えた。
 加嶋 霧子の失踪と幽霊マンションの関連を知っているのは今のところ俺達だけの筈だ。こんなタイミングで幽霊マンションに
話題を振れば、加嶋 霧子の友人達が不信がるのも無理はない。今のは軽率な発言だったかも知れない。
「また聞いてきた。下級生の男子だな。おい、早く何か答えを考えてくれ。あからさまに不信がられているぜ」
 俺が気付いたことに邑上も気付いたのだろう。声に焦りが混じる。名前も顔も知らない、おそらくこの先会う機会も
無いだろう人間達だとしても、変に勘ぐられるのは気分が悪い。それにこれは考えたくないのだが、この面子の中に俺の
失明や加嶋 霧子の死に関わった人間がいないとは限らないのだ。
 咄嗟に俺は邑上を押しのけて、ブラインドタッチで文章をネットワークに送り込む。今始めて、黒一色の画面に俺の書いた
白い文字が現れる。それを読んで邑上が舌打ちをした。
「其処で加嶋 霧子らしい少女を見た人がいるって、誤魔化すにしてももう少し気の利いたものはないのか。これはやばいぜ」
 誤魔化すも何も、俺が今書いた一文は真実そのままだ。余計な情報を彼らに与えたことになるが、今はこれしか
思いつかなかった。後々面倒なことにならなければ良いのだが。
「まあ良いや。返信の時間空けてあることないこと勘繰られるよりは、本当のことを言った方が幾分マシだろう。向こうも
納得してくれたようだし。
 幽霊マンションはやっぱりお前の部屋の近くにあるあの廃マンションのことらしいな。学内では結構噂になっているらしい。
内容はありがちだな。自殺した少女の幽霊だとか、不良に苛め殺されたホームレスの怨霊が出るだとか、御札がべたべたと
貼ってある開かずの部屋があるだとか。夜中に人の話し声が聞こえるなんていうのもあるな。無理心中した一家が幽霊に
なって話しているって、大した想像力じゃないか」
 何時の間にか、画面の向こう側の雰囲気は平静を取り戻していた。返信の内容はどうやら、俺が病院で聞いた噂話と
同じものらしい。
「ああ、不良の溜まり場になっているのは本当らしいな。夜中にうるさい餓鬼共が屯(たむろ)していたり、壁一面に品の無い
落書きがあったりするらしい。これは弟君のいるお姉さんの証言。案外お前の部屋の近くに住んでいるのかも知れないな」
 あんな所に。先程まで俺達の居た、あの人を拒むような陰惨な廃墟を思い出して俺は思った。こんなことがなければ
俺なら決して近寄りたいと思う場所ではないが、まあ蓼食う虫も好き好きということなのだろう。
 俺なら決して近づきたくはない場所。それは間違いない。別に俺には廃墟を徘徊するような趣味は無いし、あんな場所に
隠れてしなければならないような後ろめたいこともしていない。していない筈だ。なら何故、俺はあの日、あんな場所に
居たのだろうか。あんな場所で事故に遭うようなことになったのだろうか。今更ながら、俺はそれを疑問に思った。
 しかし、いくら考えても答えは出ない。答えを知っているのは、きっと今も俺の瞼の裏に住んでいる彼女だけ。



 結局、チャットによって得られた情報はそれだけだった。参加者たちに礼を言い、邑上はチャットルームとの接続を切った。
勿論、会話のログを消去した後で、だ。邑上の管理するホームページはチャットルームも含めて、公の目に触れる場所にある。
まさかアクセスを辿って俺や邑上が特定されるということは流石に無いだろうが、参加者たちが此処での会話を誰かに話し、
人づてでこのチャットルームの存在が外部に漏れて今日の会話のログが良からぬ人間の目に触れないようにする為の
心づかいだ。深雪はああは言うが、加嶋 霧子を殺害した人間、少なくともその亡骸を隠蔽した人間はいるのだ。
注意を払うに越したことはない。
「結局新しい情報、というか加嶋 霧子の失踪の手がかりになるような話は無かったな。赤井 雪江の話の裏づけと、
後はせいぜい加嶋 霧子の赤井 雪江に対する態度の原因がどうも雪江の方にあるらしいといった程度か。それにしたって、
肝心の原因は分からなかった訳だし」
 やっぱり温いと、姉が煎れてくれた珈琲にも文句をつけながら邑上が言う。彼が今飲んでいる珈琲が温いのは、
勿論その熱の一部が邑上自身の頭を温めるのに費やされたからだ。幸い邑上は頭に火傷をせずに済んだようではあるが。
「手詰まりだな。どうする、やっぱり直接誰かを捕まえるか」
 誰かとは、勿論加嶋 霧子の失踪の原因と居場所を知っていそうな彼女の友人のことである。例えば学校の裏庭で彼女と
二人きりで話していたという少年。彼なら或いは手がかりになるようなことを知っているかも知れない。
 とは言え、俺達は彼の名前すら知らないし、調べるにしても難しそうだ。玄人(プロ)の探偵の探偵や警察なら決して
不可能ではないのだろうが、いかんせん俺達は素人なのだ。とにかく、加嶋 霧子のことを知る人間が少なすぎる。
「あの幽霊マンションに行ってみようと思う。明日、明るいうちに」
 先程のチャットで得られた情報をメモ帳に書き出しながら、俺は邑上の言葉にそう答える。俺の脳は一度見たり触ったり
したものは決して忘れないようではあるが、それは聞いたもの、平たく言えば言葉や記憶といった情報に関しては機能しない。
しかし、一度自らの手で書き出せば、文字自身は見えなくとも、俺の脳が形作ったイメージを視ることは出来るようになる。
今握っているボールペンにインクが入っているのかどうかは確かめようもないが、それでも今メモ帳に書いた俺の汚い文字は
読むことが出来る。仮に今日のことを俺が忘れてしまったとしても、邑上が余計なことさえ言わなければメモ帳に書かれた
文字は消えたりはしない筈だ。
「幽霊マンションに?何故?多分何も無いと思うぞ。まだあそこに加嶋 霧子があれば、いくらなんでもまだ発見されて
いないってことは無いだろうし」
 居るではなく、ある、と邑上は言った。あの日俺が視たものが幽霊や幻でなければ、いや幽霊だったとしても、
いずれにしろ加嶋 霧子が今現在も生きているということはあり得ない。あの幽霊マンションにあるとすれば、それは
失踪した少女の亡骸に過ぎない。そんなことはとうの昔に解っていることなのだが、何故か俺にはそれが
想像出来ないでいた。あの美しい少女が時に浸食され醜く朽ちていく様子というのが、俺には全く想像出来ない。
「分かっているさ。でも、何か手がかりはあるかも知れないじゃないか。加嶋 霧子があそこに居たことだけは確かなんだし。
 それに、俺は俺があそこに居たのかどうかを知りたいんだ」
 ああ成程、と邑上が呟く。俺の擬似視覚のことを誰よりも知っている邑上なら、こう言えば俺が何を言いたいのか
解ってくれることだろう。
「わかった。明日行ってみよう。
 今日はもう帰れよ。お前が居たんじゃ姉貴も部屋に入り難いだろうし」



「直人君…」
 邑上の部屋を出ると、扉のすぐ隣に深雪が待ち構えていた。壁に寄りかかったまま俺が出てくるのを待っていたらしい。
邑上の読み通りだ。
「ああ、その、雪江さんについて聞こうとしたのは本当に成り行きで…」
「そのことはもう良いわ」
 慌てて弁解をしようとした俺に、深雪がぴしゃりと言い放つ。先程は目に視えそうですらあった怒りの雰囲気も、
今の彼女からは感じられない。だからといって上機嫌ということもなく、彼女のその瞳には俺を疑うような色が浮かんでいる。
それはまるで隠し事をする子供を黙ったまま問いただす母の瞳のようで、それに気圧されて俺は沈黙する。
「雪江先輩の顔に痣があったこと、気付いてた?上手く白粉で隠していたから、信司は気付かなかったようだけれど」
 深雪が意外なことを言う。勿論、俺にそんなものが視えた筈はない。なにしろ、俺には彼女の顔すら視えなかったのだから。
「雪江先輩、今付き合っている人がいるらしいの。でも、あんまり良い人じゃないみたいで、先輩は否定していたけど、
あの痣もきっとその人につけられたんだと思う。あたしはそれが心配で、だからまだこの街にいることにしたの。先輩、
あまり人付き合いがなかったから、男の人を見る目が無いんじゃないかって心配で…」
 そうか。それで深雪は俺や信司が赤井 雪江を疑うような態度をとった時、あんなに怒ったのか。俺達にとっては単なる
加嶋 霧子の情報提供者に過ぎなくとも、深雪にとってはかけがえの無い友人なのだろう。
 改めて、俺はそのことについて深雪に詫びた。
「そのことはもう怒っていないわ。
 それより、直人君はなんで霧子ちゃんを…ううん、なんであの廃マンションで視たっていう女の子を捜しているの?」
 季節外れの大雨は既に止み、気温が急激に低下した夜の空気はその名残を濃い霧へと変えていた。その霧に霞んだ
深雪の姿はどこか非現実的で、ただ蒼(あお)い月の光を映したその瞳の輝きだけが、確かな存在として俺の前に存在していた。
「ねえ、なんで?」
 問いただすその声はどこか蠱惑的な響きを含んで、蒼く染まった夜の空気を震わせた。先程まで自分の先輩について
心配していた女性が、何時の間にか知らない少女に変わってしまったような気がして、俺は息を飲む。
 彼女は本当に俺の知っている深雪なのだろうか。俺の悪友、邑上 信司の姉であり、何の因果か数年前の少女だった頃の
姿で俺の前に現れた、彼女。霧の向こうに隠れるように佇むその少女は、俺の知っている彼女とは何処か違う雰囲気を
持っているように思えた。
「それはやっぱり、殺人事件なら放っておけないから…」
 その雰囲気に押されてだろうか。まるで操り人形になったように、俺の口からは思ってもいない建前の理由が言葉となって
流れ出る。
「嘘」
 その言葉を予想していたのか、それとも俺を操ってその言葉を言わせたのが彼女だったからなのか、霧の中の少女は
優しくも確信を持った口調で俺を断罪する。
「そんな理由で此処までする人なんていないよ。そんなのは警察の仕事じゃない。
 …自分の事故の原因を調べたい訳でもないんだよね。直人君、自分のことなんて全然考えていないみたいだもの」
 霧の向こうの少女が問いただす。無意識に、俺は自分の右目に指を触れた。その硬く冷たい感触が、俺にその答えを
教えてくれる筈もないのに。
 俺の右目は偽眼だ。左目だって、最早俺に何も教えてはくれない。今俺の目に映る深い霧も、それを照らし出す
蒼い月の光も、本当は俺に見えている訳ではない。何時か何処かで見た、俺の記憶を視ているだけ。
 でも、こんなにも美しい霧の月夜を、俺は知らない。
 では今俺を問いただすこの少女はあの時に視た少女なのだろうか。俺が本当の気持ちを言えば、霧の中の少女は
加嶋 霧子に姿を変えて、やっと俺の前に姿を視せてくれるのだろうか。
「解らないよ…」
 俺はそう言ってアパートの階段を下りた。深雪が追ってくる気配はない。霧の中の少女、きっと邑上 深雪でも
加嶋 霧子でもないその少女は、そのままの存在として俺の背中を見送っていた。

「ねえ、どうして?」



 呟くように彼女が最後に口にした言葉。それは一体誰のものだったのだろう。
 邑上の部屋を見上げれば、今まで我慢していたのか、窓際で邑上が美味そうに煙草を蒸かしていた。
 温かみのあるその白い煙は、蒼い月明かりにも冷たい霧にも溶けることなく夜の闇へと散っていった。



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