Ⅳ   ラプラスの悪魔は嗤う



-ラプラスの悪魔、って言葉を聞いたことがあるか?-
 漆黒の闇の中に声が響く。
 邑上か。俺今すごく眠いんだよ。そんな話は後にしてくれないか。
 -ラプラスの悪魔とは、物理学者ラプラスが提唱した仮想的な存在のことだ-
 闇の中の一点から白い靄のようなものが湧き出し、ゆっくりと人の輪郭へと収束していく。現れた人影は案の定、
したり顔の俺の悪友、邑上 信司。
 眠気は徐々に遠ざかる。こいつは勝手に話だすくせに、聞かいてやらないと不機嫌になる。しかたなく、俺はこう返す。
 知っているよ。宇宙に在る全ての粒子の位置と運動を記憶しているとする悪魔のことだろう?全ての粒子の位置と
運動が分かるから、これからそれがどのように運動していくか予知することが出来る、っていう。
 -そうだな。まあ別に悪魔でなくとも、神でも妖怪でも、スーパーコンピューターでも超人でも構わないんだが。
 物理学ではパラドックスを説明する時に、よく悪魔という言葉を使って証明するみたいだな。要するに、ある時刻における
宇宙の全ての粒子の位置と運動を記録しているなんて無茶な存在を、ラプラスは悪魔と名付けた訳だ。
 そしてそれ故にその悪魔には、これから起こること、かつて起こったことをピタリと言い当てることが出来る。まるで
ベテランのハスラーが自分の一打によってビリヤード台の上で何が起こるか、どの玉がどの角度と速度で動くかが
分かるようにね。ハスラーが悪魔に、ビリヤード台が宇宙に、玉がこの世にある全てに変わっただけさ-
 そうだ。このやりとりは俺の記憶だ。かつて、俺と邑上の間で交わしたものだ。
 俺はその悪魔ではないが、これは俺の記憶だから、これから奴が何を言うか今の俺にはそれが全て分かる。こいつが
何と言い返すかももう知っているのに、それでも俺はまた同じ愚問を繰り返してしまう。何故なら、それは既に起こって
しまったことだから。
 この闇の中では、俺の意思すら記憶に過ぎない。
 でも、宇宙には人間がいるだろう?人間の意志は誰にも予測なんか出来ない特別なものじゃないのか。
 人間である俺のそんな言葉をある程度予測していたのだろう、それでも邑上はわざとらしく顔を歪め、さも馬鹿にしたように
皮肉を返す。
-お前がそんな熱心なキリスト教徒だとは知らなかったな。でも残念ながら、人間は特別な存在なんかではないよ。
 人間の脳は複雑な化学物質の実験場みたいなものだとはいえ、その一つ一つの現象はごくありきたりな化学反応に
過ぎない。オキシドールに豚の肝臓の切れ端を落としてそれで水素が発生するっていう、中学生の教科書に載っている
化学反応となんら変わりはないさ。
 お前が、いや、お前に限らず多くの人間がそういう風に思っているのは、単に人間の脳がそれを理解出来るようには
できていないからだ。お前が知っているかどうかは判らないが、今の地球で人語を解するのはどうやら人間だけみたい
だからな。だから自由意思なんて空っぽの概念がさも当然のように闊歩しても、誰も文句を言わない訳さ-
 興に乗ってきたのか、したり顔の魔術師はまるで科学信奉者のようなことを熱弁する。
 そうだ。人は自らの意思をすら自由にすることが出来ない。自分自身では気紛れや衝動で動いたつもりでも、本人が
気付かないだけで、脳内では化学物質という計算機で何らかの計算が行われ、その答えとして行動しているに過ぎない。
その計算式を腹心ならざる脳が自分に明かさないだけで。今、記憶の中にぽっかりと浮かんだ俺の意思には、それが良く解る。
 ならば、彼(か)の悪魔もそうなのだろうか。自らの肉体も意思すら記憶し、先で起こることを予知する為だけの材料に
してしまっているのだろうか。悪魔は、それを悲しいとは思わないのだろうか。
 でも、悪魔なんてこの世にはいない。
 -そうだ。ラプラスの悪魔なんてこの世にはいない。だが、それこそがラプラスの悪魔の恐ろしいところなのさ。この、
誰が考えても架空の存在に過ぎない出来過ぎの悪魔は、存在するしないに関わらず当時の物理学者たちを絶望に
追いやったのだから-
 周囲は相変わらず、塗り潰したような黒一色。そんな中まるでスポットライトを当てられているかのように、邑上だけが
明確に輪郭を保ち熱弁を奮っている。だが、俺の視界に張り付いている記憶の中の俺の目には世界が見えているのか、
そのことを気にもせずに先を促す言葉を舌に乗せる。
 どういうことだ?
 -例えば日本の誇る大怪獣ゴジラが東京にやって来たとする。東京は大パニックだろうな。なにせあいつは非常識に
でかくて暴れん坊だ。東京タワーを壊すは自衛隊のジェットを叩き落すは、あまつさえ炎だか放射能だかを吐いたりもする。
瓦礫の下敷きになって都民は全滅だ。こんな恐ろしいものはない。
 でも、誰もゴジラを恐れたりはしない。小学生でもね。何故か?それはゴジラが存在しないからだ。存在しないことを
小学生でも知っているからだ。
 そう、どんなに迷惑な大怪獣でも、存在しなければ恐ろしくはない。ゴジラが存在しないと知っている小学生は、
そのこともちゃんと解っている訳だ。存在していなければ、自分に害を及ぼすことなんて出来ない、ってね。
 でもラプラスの悪魔にはそれは当て嵌まらなかった。ラプラスの悪魔は存在していなくても人間に害を及ぼすことが
出来たのさ-
 此処に至って、科学信奉者然として熱弁を奮っていた胡散臭い青年は、ようやくその本来の姿を取り戻しつつあった。
輪郭のないモノと戯れ、ただ一人自分の感性のみを信用して、象徴と比喩によってそれらを視る…魔術師。
 どういうことだ?
 記憶の中の俺が、再度問う。そんな居もしない悪魔、俺は怖くなんかないぜ?
 -それはお前に想像力が無いからさ。それじゃ犬猫と変わらないぜ。ちょっと考えてみれば解る話じゃないか。
 それがいるいないに関わらず誰かにとって完全な予知を可能とする宇宙。其処には、どんなに足掻いても逆らうことの
出来ない運命が存在するってことの証明になるんだよ-
 ああ、と記憶の中の俺が納得の溜息を漏らす。それを同じ視点から見ている闇の中の俺は、冷めた気持ちで邑上の
次の言葉を待つ。
 -そう、ラプラスは初めて、論理学を用いて運命論を証明してしまった物理学者なんだよ。
 これは、想像力のある人間には大変恐ろしい結論だったろう。人は、自分の努力によって未来がより良いものに変わると
思えるからこそ、努力することが出来る。だがラプラスの悪魔は、どんなに努力しても用意された未来は一つしかないことを
証明してしまった。いや、努力をすることすら初めから用意された現在なのだから、これはよりいっそう性質が悪い。
捻くれたスラムの少年が聞いたら、そのまま非行に走ってしまいそうだな。まあ年期の入った物理学者でも、それは
大差なかったのかも知れないけれど-
 流れるように、闇の中に邑上の言の葉が舞う。それを聞いている記憶の中の俺にも、スラムの少年と同じだろう、
ラプラスの悪魔が不快な達観となって爪を伸ばす。
 だがその爪も、しばし同じ悪魔となった今の俺には届かない。当時の人間の絶望を楽しむかのような、目の前の魔術師にも
それは同じことのようだ。
 -まあ、今現在ラプラスの悪魔は不確定性原理によって否定されているけれどね。
 きっと当時の物理学者はラプラスの悪魔が怖くて仕方なくて、それで不確定性原理を確立したんだろうな。宇宙の中には
どうやっても予測することの出来ない領域が存在するという理論なんだけれど。もっとも、それで自由意志の存在が
証明された訳ではないんだがな-
 なんでこんな話を俺にしたんだか。邑上は長かった講釈をそう纏め、俺の方を見る。
 記憶ではないこの俺の在るかどうかも判らない背中に、じわりと汗の気配が滲むのを感じる。そう、この記憶の舞台に
招かれて初めて、邑上は俺と視線を合わせた。
 記憶の中の過去の俺ではない、今此処でこうして記憶を反芻している俺に。
 俺の中のラプラスの悪魔が歓喜の声を上げる。時計の針が時を刻む音が聞こえた気がした。動き出したその秒針が、
悪魔を縛っていた決まった未来という鎖を断ち切ったのだろうか。ならば、悪魔は悪魔でいられるのだろうか。
 悪魔ではない、漆黒の闇に浮かぶ魔術師は、現在の俺を見つめながら現在の俺すら知らないその言葉を吐く。



 -でもそれは俺のような魔術師の仕事。
 在りもしないものに振り回されるなんて、愚かなことだと思わないか?-



>> Back Page          >> Next Page

>> Top Page