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殆ど空になった3つの珈琲杯と冷え切った一杯の珈琲がテーブルの上に取り残された。
少年が帰った後、俺達はしばし無言でただ目の前にある味のしない飲み物を啜っていた。
「…やるせない話よね…」
ぽつりと深雪が呟く。残り少なくなった珈琲のカップを手の中で転がしながら、最後の一口を飲んでしまおうかどうか
悩んでいるような素振りだ。
「その…霧子ちゃんは男の子だったんでしょう?まだ信じられないのだけれど。
でもそうだったのだとしたら、何となく雪江先輩の気持ちが解る気がするわ。
雪江先輩は彼女が好きだったんじゃないかしら。彼女の男の部分に惹かれていたんじゃないかしら」
それならあたしにも解るんだけれど。深雪が手の中のカップに視線を残したまま、小さな声でそう付け足した。
「別にわざわざ恋愛感情なんて解り易過ぎる名前を付ける必要もないだろう。人間の感情なんて和音じゃないか。
一つの行動の理由が単色の感情から生まれるなんてことは決してない。自分たちが理解したつもりになる為に周りの人間が
後から勝手にそう決め付けるだけで、その時その時の行動の理由なんて本人にだって解りはしないさ。
赤井 雪江が加嶋 霧子の為に罪を犯した理由なんて彼女が自分で言っていた言葉だけで充分だ。他の言葉を探す
必要なんてない。
彼女には加嶋 霧子が必要だった。ただそれだけのことだろ」
新しい煙草に火を燈しながら邑上は言う。彼の視線もまた、黒い液体の上に注がれている。
「それに今となっては、加嶋 霧子が本当に男として生を受けたかどうかは判らないしな」
え、と深雪が視線を上げる。悪友の意外な言葉に、俺もまた顔を上げた。カップの底の黒い液体に映り込んでいた貧相な
男の顔が、不満げに俺から目を逸らした。
「だって、本人が言っていた訳でしょう?簡単に確かめられることなんだし、間違いないんじゃない?」
「判るものか。言っただろう。自分が男か女かだなんて、双方の体を並べて置いて、じっくり眺めて比べてみなければ
本当は判らないんだよ。子供の頃に親と風呂に入った時の記憶を覚えているだとか、同姓の友人と一緒に銭湯にでも
行っただとか、さもなければエロビデオの類を持っていたりとかしない限りは、本当は確かめようがない筈なんだ。
ただ、世の中には男と女の二種類しかいないから、女でないなら男だろうと、漠然とそう思っていただけで…
加嶋 霧子のように殆ど他人と触れ合うことがなかった人間なら、判らんよ」
何故か少し怒ったような口調で邑上がそうまくしたてる。そういうものかしらと、深雪は釈然としない顔で首を傾げた。
「でも、彼女が病院に通っていたことは本当のことだろう?お前の言っていた、その、ホルモン注射とかを打ってもらいに
通っていたんじゃないのか」
俺が言うと、邑上はますます不機嫌そうな顔になって、
「…あの病院には精神科もあるからな」
と、低い声でぼそりとそう呟いた。
成程、そういうことか。全ては少女の幻想だったのかも知れないと、邑上はそう言いたかったらしい。
思春期の少女にありがちな妄想。或いは、そんなこともあるのかも知れない。でも、今となってはどちらでも同じことだ。
彼女はもういないのだから。
幻想から現れた少女は、最後まで幻想のままで幻想に帰って行ったのだ。
「…あたし、もう帰るね。何だか頭が痛くなってきちゃった。病院に戻るわ」
珈琲の残りを全て飲み干して深雪が席を立った。
「ええ。深雪さんお気をつけて」
「病院に着くまでは死ぬなよ。これ以上の厄介ごとはごめんだからな」
去り際に弟の頭を軽く叩いて、深雪が店の扉を開いて出て行った。一瞬繋がった外の世界から、冷たくて新鮮な空気が
深雪と入れ替わりに此処まで流れて来た。
「深雪さん、元気が出て良かったな」
「まあな。単純な女だから。それと、姉貴にさん付けなんかしなくて良い」
本当は嬉しいくせに、邑上は仏頂面のままでそう吐き捨てた。
-君にとって雪江先輩…ううん、赤井先生はどんな先生だった?-
少年が店を出て行く直前、深雪は彼にそう聞いた。追い詰められたような、或いは縋りつくような声だった。
深雪は赤井 雪江の理由を探す為に、病院を抜け出してまで俺達に付いて来たのだ。だが其処で待っていたものは、
彼女の望んでいたものではなかった。彼女は彼女なりに、何かを取り戻そうと必死だったのだろう。
「…良い先生でした。授業はちょっと解り辛かったけれど、いつも一生懸命な感じがして。他の生徒の受けは悪かったけれど、
僕は好きでした」
振り向いた少年は泣き腫らした目で一瞬きょとんとした表情をしたが、すぐに懐かしむような笑顔でそう言った。
「…ありがとう」
その時の深雪の笑顔を、俺は一生忘れないだろう。例え俺の視たそれが幻に過ぎないのだとしても、彼女はきっと
俺が視たものと同じ笑顔を浮かべていたに違いないのだ。
透明な、この上なく透き通った笑顔。深雪の中でも、長かったこの物語がやっと終わりに辿り着いたのだろう。
「俺達も出ようぜ」
邑上が席を立つ。伝票を握り締め、俺もまた席を立つ。俺ももう、此処から帰らなければならない。長い長いトンネルのような、
安らかでしかし何も無い幻想の物語から、あの寒々しくて清々しい現実へと。
甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。見上げると、高くて青い空を二羽の鳥が羽ばたいていた。
「全く、人を馬鹿にしたような良い天気だな」
まだ火の燈いていない煙草をくわえながら、何故か不満気に邑上が言う。
申し合わせた訳でもないのに、俺達の足は自然と喫茶店の裏手にある駐車場へと向かった。
車が少なく閑散としたその場所には、もう殆ど溶けてしまった残り雪がそれを惜しむように佇んでいる。
ほんの少し寒さを感じて、俺はジャンパーのポケットに手を突っ込む。と、薄くて角ばったものが指先に触れた。
取り出してみると、それは赤井 雪江から貰った加嶋 霧子の写真だった。あの少年に渡すつもりだった、あの少女の写真。
結局渡しそびれてしまった。
「なあ邑上。彼女はなんで今更死を選んだのだろうな。それは色々辛かったのだろうけれど、それでも今までは
耐えてこれた訳だろう?」
其処に視えない少女の顔を覗き込みながら、俺は何とはなしにそう聞いてみた。
「直接的な原因は、多分衝動的なものだろう。
俺は医者じゃないから医学的なことは解らないし、須藤 寛一から受けた暴行で本当に彼女が言葉を
話せなくなってしまったのかどうかも知らない。でも、彼女がそれを機に言葉を捨ててしまったことは確かだろう。
加嶋 霧子は自分の世界に踏み込んでくる人間を極端に恐れ、そして警戒していた。彼女は自分の属性や過去について
誰かに知られることを、或いは意識されることすらも恐れていた。だが、彼女が恐れていたものは所詮は情報で、
言葉と言う概念のない世界では意味を持たないものだ。
だから彼女は言葉の無い世界、あの開かずの部屋だけでは自由になれたのだろう。
彼女がお前だけには気を許していたのも多分それが理由だ。お前、彼女のことを知ろうとしなかったんだろう?
お前の方からも、殆ど話さなかったんじゃないのか?
お互いの過去を知らず、そしてこれかも知ることのない相手だからこそ、彼女はお前にだけは心を開くことが出来たんだ。
でも彼女はあの日、窓の外を眺めていて…」
「…赤井 雪江を見つけてしまった訳だ」
加嶋 霧子を誰よりも愛し、必要としていた彼女の教師、そして悲しくもそれが理由で彼女にとって最も恐ろしい敵と
なってしまった赤井 雪江を。少女が最も安らぐことの出来る世界、あの何も無い部屋にさえ彼女は現れてしまった。
少女が逃げ込める先は、もはやこの世には無かったのだ。
加嶋 霧子という大地を喪って墜ちて逝った赤井 雪江。そして、加嶋 霧子は水を疑ってしまった魚だったのだ。
誰にとっても当たり前に存在し、それでいて生きていくのに無くてはならない感覚。
彼女はそれ疑い、そして乾いた世界に逃げ込んでしまったのだ。
結局のところ、直接的な彼女の死因は邑上の言うとおり衝動的な自殺ということになるのだろう。だがその時既に、
少女は生きていくのにどうしようもなく必要な何かを失くしてしまっていたのだ。
とても重要で、それでいて喪うまでは誰も気付くことの出来ない零の感覚を。
ならば、彼女を死に追いやったものは…
「…そういうことだな。なんだ、お前にしては上手いこと言うじゃないか」
口にくわえたままになっていた煙草に、邑上は漸く火を燈そうと愛用のジッポライターを取り出した。しゅぼっ、という
小気味良い音がして、一筋の白煙が空に伸びる。邑上がそれを懐にしまおうとするのを、俺は手を差し出して引き止めた。
「何だよ。吸うつもりなのか?」
俺は笑いながら軽く首を横に振り、それを受け取った。
この写真はあの少女が俺に残してくれた唯一の形見だ。でもきっと、彼女はこれが此処にあることを望みはしないだろう。
なら、彼女の為に俺に出来ることはこれくらいのことだけだ。
俺は少女の写真を火にくべた。これだけが俺が彼女にしてやれる、最初で最期の手向けだから。
邑上の指先に燈る煙草から伸びる白煙を追うように、もう一筋の煙が雲一つ無い青空へ向かって伸びていく。
遊ぶように舞うように、二筋の煙が風のない空へと吸い込まれていく。それはまるで悲しい二つの魂が許しあって
天に昇っていくかのようで…
何時までも、何処までも、遥か空の果てを目指して伸びていくその軌跡を、俺達は見上げていた。
「俺は魔術師だからな。魂の存在も、ましてや天国なんてもの、信じてはいない。
…でも、もしもそんなものが本当に在るのだとしたら、彼女達の魂が其処で癒されることを願うよ」
もう殆ど見えなくなってしまったその風景を見上げながら、邑上が少し照れた顔でそんな台詞を呟いた。
この男にしては似合わないこと極まりない。でもそれが、神に反逆するこの魔術師なりの、精一杯の鎮魂の祈りなのだろう。
それにならって、俺も別れの言葉を心の中で呟く。
さようなら、霧子。もう二度と、君のことを想い出すことはないだろう。
「それで、お前はこれからどうするつもりなんだ?」
白煙が消えて完璧な青を取り戻した空の下、邑上がそんなことを聞いてきた。
「どうするって、何がだ?」
「地元に帰るのかどうか、って話だ。お前の兄貴と約束したんじゃなかったのか?一週間以内にそれの返答をするって」
そういえば、丁度一週間前に兄とそんな約束をした覚えがある。すっかり忘れていたが。
「そうだなあ…」
盲人はやがて夢でさえものを見ることが出来なくなるという。俺のこの奇妙な擬似視覚も、やがて消えて完全な闇に
飲まれるのだろうか。ひょっとしたら、それはそう遠くない未来のことなのかも知れない。もしそうなったら、その暗闇の中で
俺は自由に生きることが出来るのだろうか。
あの小さな世界の中で笑っていた、誰かのように。
「そうだなあ…」
うん、と俺は伸びをして目を閉じる。其処にはもうあの少女は居ない。其処に在るのは、傷つけあうだけで
決して交わることが出来ない無数の世界を浮かべた、宇宙という名の無限の暗黒だけ。
自転する独りきりの世界。その狭間で摩擦し、摩滅していくだけの哀れな人間達。俺は、いや、俺達の誰もが、
きっと死ぬまで理解しあうことなんて出来ないのだろう。おそらくは、永遠に。
「そうだなあ…」
…それでも。
それでも、例えそうだったとしても、そのことさえ判っていれば、何時の日か理解しあうことが出来るのではないか。
そんな俺の勝手な願いも、瞼の裏に広がった残酷なる無限は、ただ黙ったまま受け入れてくれたような気がした。
それなら・・・この瞼に燈る光が消えるまでの残りの時間で、そんな取るに足らない幻想の答えを探してみるのも、
悪くないのかも知れない。
「そうだな。その答えは、とりあえずこの目を開いてから考えることにするよ」
零の衝動 了
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