ⅩⅩⅢ   幻想の少女



 長い長い、気の遠くなるように長い夜が明けた。数多の星に支えられることなく一人ぼっちで世界を照らしていた
あの赤い月は何処かに消えて、今は抜けるように清々しい青空が冬の朝の空気の上に聳そびえている。
 清々しい、か。前に空気をそんな風に感じたのは何時のことだろう。酷く久しぶりな気がする。それでも本当は一週間といった
程度なのだろう。あの少女、加嶋 霧子を幻想の中に見出し、その影を追い求め、そして昨日、同じ幻想を抱いた女性が
逝くのを見届けて今日まで、数えてみればたったの一週間しか経っていないのだから。

 赤井 雪江があの幽霊マンションの屋上から墜ちてから、その後のことを俺は良く知らない。あの後、半狂乱の深雪を
宥めながら邑上が警察と救急車を呼んだ。救急車は赤井 雪江の為ではなく、彼の姉の為だ。深雪の怪我は決して
放っておいて良いものではなかったし、赤井 雪江に治療はもう必要なかった。
 赤井 雪江のことだけならば、警察を呼ぶ必要は無かったのかも知れない。少なくとも、彼女に少なからず同情の念を
抱いていた俺の感情的には、警察まで呼ぶことには少し抵抗があった。しかし、あの幽霊マンションの三階、
あの開かずの部屋には須藤 寛一の遺体が在ったのだ。彼が其処に居る理由を説明する為には、どうしてもこの事件を
明るみに出さなければならなかったのだ。
 さて、その時の俺はというと、あの廃マンションに救急車や警察が駆けつける前に急いでその場を抜け出していた。
邑上の入り知恵である。事の一連全てについて真実そのままを告げようとすると、どうしても俺の擬似視覚についても
触れない訳にはいかなくなるだろう。しかし警察にそれを説明し、かつ納得させるのはまず不可能だ。ことがことだけに、
最悪あらぬ嫌疑をかけられ拘束されるはめにならないとも限らない。そんなのはごめんだろうと言うのが我が悪友の言である。
 警察に嘘をつくのは何とも後ろめたいものがあったが、それを思えば幾分マシなことは確かだ。口の立つ邑上なら、
きっと上手いこと誤魔化してくれることだろう。そんな邑上のありがたい注言に従い、俺は昨日あの場所にいなかったことに
なったのである。もっとも、あの時は俺自身も結構洒落にならない怪我を負っていた訳で、邑上のそのありがたい言葉も
痛む体を引き摺って独り家路につかなければならないことを思えば、そのありがた味を素直に噛み締めることが
出来なかったことも事実ではある。しかし俺のそんな些細な我侭も、
-殴られるのは二度目なんだし、慣れたものだろ。前の時は死ななかったんだから、今度もきっと大丈夫だ。
邪魔だからさっさと帰ってくれ…部屋に着くまでは死ぬなよ-
 と友を思いやる心温まる言葉を聞いた後では、感動に喉が詰まって口に出せる筈もなかった。
 何とか部屋まで辿り着いた俺ではあったが、それが限界だった。それ以上一歩も歩くことは出来なかったし、そのままでは
痛みで眠ることも出来ない。そもそも、眠ってしまえば今度はもう起き上がれないのではないかとさえ思った程だ。
それでも俺は一足先に搬入されている筈の邑上姉弟と僅かでも無関係を装う為に気力を振り絞って小一時間程を待ち、
それから自力で救急車を呼んだのである。
 けたたましいサイレンの揺篭に運ばれて病院まで辿り着いた俺を迎えてくれたのは、一週間前までは毎日顔を合わせていた
大河医師だった。性質の悪い不良に絡まれたのだと言い訳する俺に、大河医師は半ば呆れながらもそれ以上は
何も聞かずに治療をしてくれた。検査の結果、幸い手術を必要とする程ではなく、偽眼を失った眼窩を洗浄して
生理食塩水に浸したガーゼで埋めて、頭に包帯を巻いてもらうだけで済んだ。念の為に三日程入院した方が良いと言う
大河医師に礼を言い、俺は半ば強引に再び家路についた。
部屋に着く頃には空は既に白み始めていた。深夜の割増料金をタクシーに支払った俺は部屋のベッドに倒れ込み、
そのまま深い眠りに落ちていった。漸く、俺の長い一日は終わりを告げたのである。

 そうして青く高い空の下、俺は彼が来るのを待っていた。見上げれば数羽の鳥達が甲高い鳴き声を上げながら雲一つ無い
空を流れていく。その向かう方向を目で追えば、その先のそう遠くない距離にあの幽霊マンションは在る。
昨日まで誰に顧みられることなく朽ち逝くに身を任せていたあの廃マンションは、完全に魂を喪った今になって多少の
賑わいを見せているようだ。賑わいと言っても、それは数人の警察関係者とその数倍の野次馬達によってではあるが。
近所で殺人事件が起きて、その容疑者が教師であれば、そして彼女もまたその場所で命を絶ったとくれば暇な隣人達の
興味を惹くことだろう。
死した後辱められるように踏み荒らされるあの廃墟に同情する訳でもなく、それを行う人間達に怒りを覚える訳でもなく、
それでも彼ら同じことをしていることに耐えられなくて俺はその方角から視線を逸らし、目の前に在る溶けかけた雪を
背負った車、俺の住むアパートの駐車場に駐められた誰のものとも知れない車をぼんやりと眺めた。
 別に彼らに踏み荒らされることがなくとも、あのレンガ敷きの石畳に淡く積もった雪は、この冬の日差しに溶かされて
跡形もなく消えるだろう。あの場所から始まった悲しい喜劇も、全て白日の下に曝されるだろう。雪が溶ければ
あの砕け散った鉢植えのように、醜くも穏やかな心休まる現実が姿を現す。俺はそれが悲しい訳ではなく、勿論嬉しい筈もなく、
怒りを覚えるべきか否かの判断すらつかず、ただぼんやりとその光景を思い浮かべていた。
 そういえばあの鉢植えは割れていたっけ。雪の中に埋もれたその破片、散らばった破片の硬い感触を俺は思い出した。
結局昨日、あの場所では何も起きていなかった。赤井 雪江が最期に其処に辿り着くまで、あの場所はただ静かに時を
待っていただけだった。
 あの鉢植え、何故割れてしまったのだろう。
「鉢植え?ああ、あの幽霊マンション広場に散らばっていた破片のことか?あんなもの、最初から割れていたじゃないか。
あれ、赤井 雪江がお前の頭を殴った鉢植えの破片だろう?お前には割れていないように視えていたのか?」
 いつものように何時の間にか、邑上が其処に立っていた。
「遅刻だぜ、魔術師。時計という素晴らしい文明の利器をお前は持っていないのか?」
 振り返らず、俺はそう応えた。



 会わせたい人間がいる。夢すら見ない深い眠りから俺を起こしたのは、そんな言葉から始まる邑上の電話だった。
「それにしても、お前こんな所にいて大丈夫なのか?昨日は大変だったんじゃないのか。」
 ひとしきり遅刻の文句を言ってから、俺は邑上にそう言った。
「ああ、全く災難だったぜ。あの後眠いっていうのに警察所まで連れて行かれてさ。あいつら、まるで人のことを
犯人扱いしやがって。腹立ったから抜け出して来てやったよ」
 邑上は恐ろしいことをさらりと言ってのける。
「お前…それ、大丈夫なのか?」
「お前だって病院抜け出して来たんじゃないのか?頭に巻いている包帯も眼帯も結構目立つぜ」
 そうは言うが、怪我人が病院を抜け出すのと事件関係者が警察所を抜け出すのでは随分違うだろうと思う。
俺は思わず辺りを見渡して、パトカーの影がないかと探してしまった。そんな俺の姿を、邑上は馬鹿にしたように横目で
眺めて言う。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。俺が容疑者だと疑われた訳ではない。なにせ、殴られて怪我をしたのは俺の
姉貴だからな。鉄パイプから指紋だって出るだろうし、聞かれたことには全部包み隠さず話したしな。
後で顔出せば問題ないだろう」
 聞かれなかった事は話さなかった訳だ。つまり、俺のことだが。
「嘘はついていないぜ?」
 澄ました顔で邑上は言う。流石と言うべきなのだろうか。後でやっかいなことにならなければ良いのだが。
「…加嶋 霧子の遺体が出たらしい」
 しばしの沈黙の後、心なしか声を落として邑上がそう告げた。
「赤井 雪江の部屋で見つかったらしい。何でも、押入れの中に冷蔵庫がもう一つ隠してあって、その中に膝を抱えた姿勢で
丁寧に毛布で包んであったって。
 須藤 寛一は良く気付かなかったものだな」
 俺の沈黙を応えとして受け取ったのか、邑上がその詳細を話す。
「…そうか」
 俺はそっけなく相槌を打った。邑上が僅かに心配そうな視線を向ける。
 不思議なことに、俺の中にはもう彼女に逢いたい、探したいという気持ちは無かった。俺の中の彼女の面影を、
赤井 雪江が連れて行ってしまったのだろうか。今はただ、穏やかな時を共に過ごした年下の友人を静かに悼む気持ちが、
陥穽となったその場所を埋めていた。
 それきり無言のまま、俺達は歩き出した。駅へと続く街並みを、まばらな通行人達に混じって通り過ぎていく。
昨日降った雪は通り過ぎる人の雑踏と中空の日に溶かされ、泥の入り混じった汚い水溜りと変じていた。
潔いとも未練たらしいとも思えるその風景は何処か滑稽で、その時の俺には何故か愛らしく感じられた。
 ばしゃり。
 すぐ後ろで水溜りが弾けた。その派手な音に俺は苦笑し、邑上は肩を竦めた。その音、不器用な足音は実は割と前から
聞こえていた。全く、今週は何度後を尾けられれば済むのだろう。それも決まって不器用な追跡者達ばかりだったが、
今日のお客様はまた格別な不器用さだ。あまりに不器用過ぎて、振り向かなくても彼女が誰なのか判ってしまう程だ。
「深雪さん。とっくに気付いてますよ」
 びくりと、引き攣るような気配が背後からした。これだけあからさまでも、本人は気付かれていないつもりだったのだろう。
俺と邑上が同時に振り向くと、其処には何故か不機嫌そうな深雪が立っていた。
「おはよう、深雪さん」
「…おはよう」
 俺が全国共通の朝の挨拶をすると、やはり不機嫌そうな膨れ面ままで少女の姿をした女性が応えた。
「邑上、深雪さんも呼んだのか?」
「呼ぶ訳ないだろう。姉貴は入院していたんだぜ。というか、まだ入院している筈なんだけどな」
 あと姉貴にさん付けなんかしなくて良いと、何だか懐かしい台詞を付け足して邑上が言う。
 そういえば、彼女も怪我をしていた筈だ。気付いて視れば、今の彼女の姿は心なしかやつれて視える。
機嫌が悪そうに視えるのも、まだ元気がないだけなのかも知れない。
「それで、何で姉貴がこんな所にいるんだ?化けて出る程の怪我じゃないって聞いたんだけどな
 邑上が茶化して言う辺り、深雪の怪我はそれ程酷くはなかったようだ。昨夜の彼女は立っているのも辛そうに視えたし、
それに彼女は目の前で親友を亡くしたのだ。それが昨日の今日では、塞ぎ込んでいたとしても不思議ではないだろう。
しかし今はいつも通りの彼女とまでは言えないまでも、それ程思い詰めているようでもない。そのことに俺は安堵すると共に、
彼女の芯の強さに密かに驚嘆していた。
「…病院なんて抜け出して来たわ」
 弟の言葉に一瞬眉を吊り上げた彼女だが、それでも答えたその声は抑えられた小さくて硬いものだった。
やはりあんなことがあった後では、すぐに元通りという訳にいかないのだろう。
「そんなことより、貴方達こそこれから何処に行こうとしているの?信司が何時にも増してこそこそしていたから慌てて
追いかけて来たけれど、また雪江先輩絡みなんでしょう?」
 深雪は何故か俺にそう問い詰める。なんでしょう、と言われても、そもそも俺は今日これから何処に、誰に会いに行くのかも
知らないのだから答えようがない。邑上の秘密主義は今に始まった話ではないから特に気にもしなかったが、考えてみれば
良い加減な話だ。
 邑上が小さく舌打ちしたのが聞こえた。追いかけて来たということは、邑上は俺の部屋に向かう前に姉の見舞いに
行っていたのだろう。意外というか、まめというか、この男にしては心温まるエピソードではあるのだが、
今回はそれが仇となったようだ。
「姉貴、あんまり面白い話にはならないと思うぜ。それに今回のことは基本的には姉貴には関係ない。
大人しく病院に戻って寝ていろよ」
 邑上はぶっきらぼうに言い放つ。姉を心配しているとも受け取れる言葉だが、当の深雪は弟の言葉を全く聞いていない。
どういう訳だか、彼女は俺に向かって話しているのだ。
「あたし今回のこと、こんな中途半端なままで終わらせたくない。雪江先輩と少しでも関わる話なら、あたしも知りたいよ。
お願い直人君、あたしも連れて行って!」
 真剣な顔で深雪が俺に詰め寄る。
 そうか。俺にとってはあの少女、加嶋 霧子を捜し求めた一週間だったが、深雪にとってのそれは彼女の親友、
赤井 雪江の物語だったのだ。彼女が墜ちていく様を目の前で見ていた今の深雪は、あの時の俺と同じ境遇なのかも知れない。
 それなのに彼女は俺よりも遥かに強く、その事実から逃げずに立ち向かっている。
「ねえ、直人君。あたし、知りたいよ…」
 俺はそんな彼女に眩しさを感じた。そんな俺に、彼女の必死の頼みを断れる筈もない。
「なあ、邑上。別に構わないだろう?」
 蚊帳の外にいる邑上に俺が言うと、邑上はわざとらしく溜め息を吐いて肩を竦めた。
「全く。どいつもこいつも好き勝手に行動しやがって」
 一番身勝手な邑上がぼやく。でも、その言葉は肯定の意だ。こいつと付き合いの長い俺や深雪にはそれが解った。
「姉貴。付いて来るのは構わないけどな、一度俺の部屋に戻って着替えてくれよ。下に病院服着ているがまる判りだぜ。
そんな格好で人と会うつもりだったのか?」
 邑上が反撃すると、深雪の顔に朱が刺した。恥ずかしがっているのか、それとも怒っているのか、俺には判らない。
またなんやかんやと楽しそうな姉弟喧嘩を始めたところを視ると、やはり怒っているのかも知れない。
恥ずかしがっていたのだとしたら、少なくとも俺のことは気にしなくても良かったのだが。
なにせ俺は、邑上の発言があって初めて彼女がそんな格好をしていることを知ったのだから。
 楽しそうな口喧嘩を後ろに聞きながら俺は歩き出した。
「行こうぜ。誰を待たせているのかは知らないけれど、もう大分遅刻なんじゃないのか?」
 俺が言うと、二人は慌てて追いかけて来た。それでもまだ小声で罵り合っている。羨ましくなるくらい、本当に仲の良い
姉弟だと俺は思った。
 青空を横切る太陽は、そろそろ中天に達しようとしていた。



 からんころんと鐘の鳴る軽い音がして、透明なガラス製の扉が開かれた。その音で新たな客が訪れたことを知った店員達が
元気な挨拶で俺達を迎えてくれる。扉の向こうは暖房の効いた暖かい空気に満たされていて、冷たく乾いた店外と
同じ世界とは思えない程、落ち着いた雰囲気に包まれていた。
 珍しく雪の降った夜の翌日だからだろうか。店内の客は数える程しかいない。それ以上に数の少ない店員達も今日は
何処か暇そうにしているように視える。
 邑上に誘導されて訪れた場所は何のことはない、俺の行きつけのドトール・コーヒーだった。赤井 雪江の勤めている…
勤めていた中学校のある駅前、俺にも見渡すことのできる内装を備えたこの店だった。
 俺はさして広くもない店内を見渡した。数える程しかいない客達も改めて視れば、例によって貌の無い人間達、
つまり俺の知らない誰かの群れである。邑上の待たせている相手はまだ来ていないのだろうか。この期に及んで俺は
それが誰だかは聞かされていなかった。と言っても、もうだいたい当たりはついているのだが。だから邑上も、敢えて
言う必要がないと思っているのかも知れない。
 と、一番奥の四人席に一人座っている貌無しが立ち上がった。少し緊張した雰囲気で、彼は明らかにこちらを向いている。
邑上に気付いたのか、それとも俺のことを覚えていたのだろうか。彼だよ、と邑上があごで指す。俺は彼を怖がらせないように
なるべくゆっくりと歩いて彼の前に立った。
「こんにちは」
 彼、少年が緊張の為か少し震えた声でそう挨拶をくれた。瞬く間にぼやけていたその貌に造形が刻まれる。
あどけない、まだ男になりきっていない少年の顔。昨日俺達を尾行し、邑上に追われて消えたあの中学生の顔。
俺の予想通りの顔が其処に現れた。
「初めまして、僕は藤堂 日明(とうどう あきら)です」
「卯波 直人です」
 俺も挨拶を返す。彼こそがこの可笑しくて悲しい、奇妙でありふれた物語を終焉へと導く道先案内人なのである。

「初めまして、じゃないよ」
 まずは彼の誤解を解いてやらなければならない。俺はその為にもっとも簡潔な言葉を選んで舌に載せた。
すると彼の顔はみるみるうちにより緊張した面持ちに変わってしまった。
「すみません。その、二度も後を尾けるような真似をして」
 俺の言葉を誤解して、少年が謝る。悪意も無いし、なるべく柔らかい言葉を選んだつもりだったのだが。見た目通り、
気の弱い少年なのだろう。
 二度も、と少年は言った。つまり最初、あの大雨の日に俺を尾行したのも彼だった訳だ。あの時は随分と脅かされたものだが、
今となってはそれに対して恨み言を言ってやろうなどという気は俺には全くない。
「そのことはもう良いよ。それに、俺達はその前にも会っている。夜たまに、あの幽霊マンションですれ違っていただろう?
挨拶を交わしたこともあった筈だよ。
 あの場所で加嶋 霧子の世話をしていたのは、君だろう?」
 少年が驚いたような顔をした。俺のことを覚えていなかったようだ。無理もない。俺達の縁など、それこそ
袖の触れ合うようなものだったのだから。それでも今俺達は此処で再会し、言葉を交わしている。
あの少女が繋いだ縁だ。そしてあの少女のことを誰よりも知っているのも、おそらくはこの少年なのだろう。
「では、やはり貴方だったんですね。度々あの部屋に訪れていたもう一人の人は。加嶋さんは何も話さなかったけれど、
僕以外に彼女の面倒を見てくれていた人がいたことはすぐに判りました。彼女は、それをすごく楽しみにしていたようです。
 彼女に逢いに来てくれて、ありがとうございました」
 少年は居住まいを正して頭を下げた。不器用ながらも丁寧なその礼は、きっと彼に出来る最大のものだったのだろう。
「その後には君達は会話しているぜ。直人、彼はあのチャットにも参加していたんだ。俺も直接逢ったのは昨日が
始めてだけれど」
 湯気の昇る珈琲杯を4つトレイに載せて、邑上が会話に割り込んで来た。珍しく気を利かせてくれたらしい。
「座りなよ。長い話になる」

 それぞれの珈琲杯を受け取り、それぞれが席に着く。以前赤井 雪江を含めた4人で囲っていた席だ。
今は彼女の代わりに藤堂 日明という少年がその席に腰を下ろしている。
 席に着くなり邑上は煙草を取り出し、火を燈けようとした。今まで我慢していたようだ。しかし取り出した煙草は
火を燈される前に彼の姉によって抜き取られ、灰皿の中に没する。
「何をするんだよ」
「怪我しているんだから止めなさいよ。未成年もいることだし」
「俺は健康そのものだが」
「あたしがしてるの。それから直人くんもね」
 今朝のあれではまだ足りないのか、飽きずにまた喧嘩を始める姉弟。そんな光景は本人達意外にはやはり微笑ましく
映るのだろう、少年の顔にも笑顔が浮かんだ。どうやら少しは緊張がほぐれてきたようだ。
「さて、と。本題に入る前に、何かお互い聞きたいことがあったら今のうちに聞いておきなよ。さっきも言ったが、
長い話になるだろうからな」
 すかさず邑上が進行役を買って出る。ありがたい申し出に、せっかくなので俺はこの少年に疑問をぶつけてみることにした。
「何故俺を尾けたりしたの?」
「本当にすみませんでした」
 二度目の謝罪が彼の口から出る。せっかく打ち解けてきた彼をまた緊張させてしまっただろうか。俺は怒ってないからと
言い含めて彼を促した。
「加嶋さんがあの部屋から居なくなって、僕も彼女を探していたんです。そうしたら偶然貴方と赤井先生が此処で
話しているのを聞いてしまって。それからまた貴方がこの街で買い物しているのを見かけたものですから、
悪いとは思ったのですが思わず後を尾けてしてしまったんです」
 すみません、と彼が再び口にした。
「俺と赤井先生が話しているのを聞いたんだろう。だったら、赤井先生に直接聞けば良かったんじゃないか?」
 口に出してから、俺はそれが意地の悪い質問だったことに気付いた。彼もまた俺と同じように、あの廃マンションに
少女を匿いながら周りにはそれを黙っていたのだ。しかも彼は、2ヶ月程の間ほぼ毎日あそこに通い詰めていたことになる。
そんな後ろめたい状況で教師にそんな話題を振ることは躊躇われたのだろう。
「ああ、やっぱりそれは良いよ。それより、何であそこまで尾行しておいて突然止めたのかな?」
 彼が再び謝罪を口にする前に、俺は慌てて話題を戻した。それに、それは気になっていたことでもあった。
「それは…雨が降り出してきたから。傘も持っていませんでしたし。それにあの後すぐにMagusさん…邑上さんとチャット・ルームで話す約束をしていましたから、その時間に遅れないように家に戻ったんです」
 あまりと言えば予想外な答えに、俺は思わず珈琲杯を取り落としそうになった。俺は生命の危険まで感じて
逃げ惑っていたというのに、その原因たる彼が引き返した理由が、まさか雨が降ってきたから、とは。
これでは格好がつかないどころの話ではない。横目で視ると邑上が細く笑んでいた。俺の格好がつかなくなった理由の
残りの半分は、辿って行けばこの悪友の秘密主義に繋がる訳だが、どうやらこいつはそれが嬉しくて仕様がないらしい。
「君はどうして霧子ちゃんの居場所を知っていたの?」
 怒りで無言になって俺の代わりに、深雪が的確な問いを口にする。
「家出直前に加嶋さんから直接聞いていたんです。丁度良い廃屋が近くにあったから、しばらくは其処で生活するつもりだって」
 これも意外な答えだった。加嶋 霧子は失踪前にこの少年に相談していたという。赤井 雪江が孤高と表現した彼女の
イメージからは、少々想像し辛いものがあった。それとも、彼女にとってこの少年は特別な存在だったのだろうか。
「君は霧子ちゃんの彼氏だったの?」
 深雪が少し悪戯っぽい笑顔で少年に聞いた。この少年が加嶋 霧子に想いを寄せていたことは話を聞けば誰にでも
解ることだろうに、敢えてそれを本人に聞いて反応を楽しんでいるのだろう。この辺り、やはり深雪も
妙齢の女性ということだろう…外見がどう視えようと。
 しかし、その言葉を受けた少年の反応は彼女も予想しないものだったろう。彼は顔を赤らめることも慌てて取り繕うことも、
まして誇らしげにそれを肯定することもしなかった。うなだれ唇を噛み、辛そうに彼はこう言ったのだ。
「いいえ。僕は加嶋さんのことが好きだったけれど、僕らは恋人同士ではありません。友達ですらなかったんです」
 机の上に置かれた少年の拳が振るえ、4杯の珈琲の表面に波紋を作る。
「姉貴、その話は後だ」
 少年の予想外の反応に戸惑う姉に、邑上がそう言う。
「どういうこと?何であんたはそんなことが言えるの?そもそも、何で日明君のことを知っているのよ」
 深雪はまだ訳が解らないという顔で弟に問い返す。
「それは勿論、昨日彼を追って姉貴達と別れてから、彼に追いついて話し込んでいたからさ。まさか幽霊マンションで
あんなことが起こっているとは思わなかったからな。俺はその時にこの少年から全部話を聞いていたんだ」
 あの邑上が時随分遅れてから登場したのは、そういういきさつがあったらしい。現実とは何とも噛み合わないものだ。
 会話が途切れる。今の段階でこの少年から聞きたいことはもう無い。俺がそう目で合図すると、
邑上は小さく咳払いしてから話を切り出した。
「良し、それじゃあもう良いな。本題に入ろう。
 日明君。昨日君が俺に話してくれたことを、もう一度彼らに話してくれ」
 厳かに、邑上が言う。少年は神妙な顔で頷いた。



-僕が加嶋さんの存在を知ったのが何時の頃のことだったのか、正確には覚えていません。僕は二年生で加嶋さんは
先輩ですから学年も違いますし、同じ部活に所属していたということもありません。加嶋さんとは何の接点もありませんでしたし、
特別な出逢いをした訳でもありませんでした。同じ学校に通ううちに何時の間にか彼女の存在が気になるようになったという
だけで、名前を知ったのは彼女の存在を知って随分経ってからですし、その頃にはまだ加嶋さんは僕の存在すら
知らなかったと思います。
 ことの発端は僕が所属する部活の夏季合宿でのことでした。僕は一年生の頃から学校のソフトテニス部に
所属しているのですが、毎年夏休みに入ると全部員参加の強化合宿があって、僕もそれに参加していました。
部活は男女別れて日程を組むので、合宿も男女別で行います。夜中に男子大勢が同じ部屋に集まってする話となると、
話題は自然と…-

「打ち明け話になる訳だ」
 所謂(いわゆる)、お前女子で誰が好き?的な夜、という奴。俺が当たりをつけて言うと、少年はこくんと頷いた。さもありならん。
体育系の部活というのは縦関係がはっきりしているものだから、先輩は後輩に一方的に秘密を話させることが出来る。
そうなると、少年達の会話は自然とそういう流れになるものだ。何時の時代でも何処の場所でも、それは同じようなものだろう。

-卯波さんの言う通り、そういう話になりました。僕は二年生ですから先輩の言うことには逆らえませんし、部活での実力も
ありませんでしたからそれは尚更です。嘘をつくことも出来ませんでしたし、僕自身そういう雰囲気に酔っていたんだと思います。
僕は素直に加嶋さんの名前を出しました。
 加嶋さんの名前を出したのは僕一人ではありませんでした。彼女は綺麗でしたし、それに冷たい訳ではないのに何処か
超然としていて近寄りがたい雰囲気がありましたから、男子女子問わず隠れた人気があったんです。
話題の言いだしっぺの先輩が、その中で籤を引いて負けた者が彼女に告白することにしようと言い出しました。
その先輩は自分では好きな子の名前を挙げませんでしたが、ひょっとしたら彼も加嶋さんのことが好きだったのかも知れません。
だからそんなことを言い出したんだと思います。僕達は反対しましたが、結局彼と周りの奴らが押し切る形で籤引きが
決行されました-

「それで君が負けた訳ね?」
 少し冷めた顔で深雪が確認する。される側の心情を思えば、罰ゲームのような状況で告白を強要すること、
それに従うことは確かにあまり関心出来ることとは言い難い。良くある話ではあるのだが。
「はい、不純な動機だとは自分でも思います。後で先輩に頼み込んで無かったことにしてもらおうかとも思いました。
でも、僕はその先輩の命令に従うことにしたんです。僕は臆病だから、こんな機会でも無ければ彼女に話かけることなんて
きっと一生出来なかったでしょうし、それにライバルが沢山いることも分かりましたから。
 僕は加嶋さんに告白することに決めました。きっかけはどうあれ、それは僕の意思です。でも、合宿が終わり夏休みも
終わっても、臆病な僕は中々それを言い出せずにいました。結局僕のふんぎりがついたのは、二学期が始まって
随分経ってからその先輩が偽のラブレターを送って彼女を呼び出す手はずを整えてくれたからでした。
 つくづく、自分の弱気が嫌になります。でも、それで漸く僕は彼女に想いのたけを告げるきっかけを掴んだんです。
 加嶋さんは約束どおり、校舎の裏に来てくれました。僕はなけなしの勇気を振り絞って、彼女に付き合って欲しいと伝えました」

-君は随分変わった趣味をしているんだね-
 胸に長いこと暖めていた想いを告げると、彼女は少し驚いたような、困ったような顔でそう呟きました。
それが、彼女の口から僕に向けられた最初の言葉だったんです。
 最初僕は、その言葉の意味が解りませんでした。彼女は美人ですし人気があることも知っていたから、僕と同じことをした
男子も今まで何人もいたのだと思っていましたから。でも、彼女は心底意外そうに、と言うよりも、まるで僕の言葉が自分とは
関係のない世界のものだと思っていたみたいに、不思議そうな顔をしていました。そして、
-気持ちは嬉しいけれど…お断りするよ-
 殆ど間を置かずに、気の毒そうな顔でそう言ったんです。
-どうして!?どうして駄目なんですか?-
 僕はそんなことを口走っていました。今考えれば、なんて女々しい言葉だったのかと顔から火が出そうな思いですけれど、
でもあの時の僕は必死だったんです。勇気を振り絞って告白したのだから、せめて考える素振りくらい見せて欲しい、
そう思ったんです。
-別に君だから駄目だとかそう言う訳ではなくて、ボクは男の子と付き合うとか、そういうつもりは全く無いんだ。
 ボクは誰とも付き合うつもりなんかないよ。君にはつまらない思いをさせてしまって申し訳ないけれど…-
 そっけなく、加嶋さんはそんなことを言いました。今にして思えば、それは言葉通り、相手が男だろうと女だろうと
深い人付き合いをするつもりはない、そういう意味だったんだと思います。加嶋さんは相手が誰であれ、自分の中に
踏み込まれることを極端に嫌っていましたから。
 でもその時の僕にはそんなことは解りませんでした。僕は更に食い下がりました。情けない話ですけれど、せめて理由を
聞かなければ引き下がれない気持ちになっていたんです。
-…君は口が堅い方かな。秘密を守ることは出来る?-
 しばらくして、彼女が髪を掻き分けながらぽつりと呟きました。
 僕は頷きました。その時は秘密というのが何のことかは知りませんでしたが、それから少しでも彼女の趣味が解れば
そうなる努力をすることも出来るし、それに憧れていた人と秘密を共有できるということが嬉しかったんです。
加嶋さんはミステリアスな人でしたから、学校の誰も知らない彼女の秘密を知ることが出来ることに、その時の僕は
浮かれていたのかも知れません。
 でも、それから彼女が口に出した言葉はとても信じ難いものでした。

 少年の口が其処で止まった。彼の憧れていた少女、加嶋 霧子との秘密。それを俺達に話すことを戸惑っているのだろうか。
それとも、その秘密自身が口に出すことも憚るような内容なのだろうか。
 いずれにしろ、俺も今更引き下がる訳にはいかない。俺とあの少女、そして赤井 雪江によって織り成されたこの物語を、
もう終らせなければいけないのだ。
「続けてくれ」

-ボクには良く似た姉弟がいたらしいんだ。性別の違う双子だったらしいよ。もっとも子供の頃の話だから、あまり良くは
覚えてはいないのだけれど。
 ボクらが7歳だか8歳だかの時、ボクらは同じ車に乗っていて、そして交通事故に遭ったんだ。酷い事故だったそうだよ。
その事故でボクは姉弟を亡くし、ボクも酷い怪我をして大掛かりな手術を受けたらしい。次にボクが目覚めたのは手術から
何日も経ってからのことだった-
 加嶋さんが語りだしたのは、そんな彼女の過去の話でした。僕には彼女が今それを僕に話す理由が解らなかった。
隠すような内容でもないし、現にその時僕はそのことを知っていましたから。例の先輩が噂に聞いたことを教えてもらったことが
あったんです。
-それは知っています。加嶋先輩には弟がいたんですよね?-
 僕がそのことを告げると、加嶋さんはまるで僕を哀れむようにそっと微笑みました。そして、とても信じられないような
言葉を口にしたんです。

「…彼女は何て言ったの?」
 聞きに徹していた深雪が口を開いた。母親が子供を宥めるような優しい声。少しでも彼の罪悪感を和らげようとしての
ことだろう。
 その言葉に促されて、少年は語り出す。それは時を越えて彼女から俺に届けられた言葉。最後まで聞かせてもらえなかった、
俺が愛したあの少女の、加嶋 霧子の真実の姿を…



-違うよ。ボクに居たのはね、姉だったんだ-



「ええっ!?それって…」
 思考の為の刹那の沈黙の後、深雪が驚きの声を上げる。そんな姉を、邑上が嗜めるように横目で睨んだ。
 俺は…何故か驚いていなかった。
 性別の違う双子だった加嶋 霧子。子供の頃に命を落としたのはその姉だと言う。簡単過ぎるパズルを解いてその意味に
辿り着いても、俺の中には何故か驚きは無かった。いや、心の中ではこれ以上ない程驚いていたのだが、そのもっと奥、
もっと深い部分にそんな自分を冷静に見下す別の俺が居たのだ。
 少年はもう俺達を見ていなかった。まるで懺悔するように俯いたまま、その口からは今はもういない少女の言葉が流れ出る。
 止め処なく、流れ出る。

-それって…どういう意味ですか?-
 加嶋さんにとってそれは、きっと身を切るように辛く、骨がきしむ程に重い告白だったんだと思います。それなのに僕は、
彼女にその言葉を聞き返してしまいました。理解している筈なのに、それ信じることが出来ない弱い僕は、彼女の言葉を
聞き返してしまったんです。
-言葉通りの意味だよ。ボクは生まれた時は君と同じ、男だったんだ-
 何てことないというように、彼女はさらりとそう言ってのけました。それを言った彼女の瞳は乾いていて、でもそれは
きっともう流すものがなくなってしまったから。彼女の瞳が澄んでいたのは、絶え間なく傷つくことで感情が
摩滅していたからだと思います。でも、その時の僕はそれに気付くことが出来なかった。混乱した自分の頭を整理するのが
精一杯で、彼女が傷ついていることに気付くことが出来なかったんです。
-ボクの父は有名な医者でね。色んな人間を助けて尊敬を集めている。
でもそんな彼も、夫としては最低だった。母以外の女性何人もと付き合っていて、家庭を顧みることは一切なかった。
母はそれで極度の男性不信に陥ってしまったんだ。子供の頃母は姉には普通に接していたけれど、同じ顔をしたボクのことは
毛虫のように毛嫌いしていた。理由もなく殴られたことも何度もあったよ。
 ボクらが事故に遭って、生き残ったのが男のボクの方だったことが彼女には耐えられなかったんだろうね。彼女にとって
都合の良いことに、その事故でボクは生殖器を失っていたらしい。それで母は、助かったのは姉の霧子であることにした。
男だったボクを、女の体にする為の手術を医者に頼んだんだ。担当医は父の部下だったからね。快く応じてくれたそうだよ。
 ボクが目覚めた時、その時ボクはもう姉の霧子になっていたんだ-

「その後加嶋さんの両親は離婚したそうですが、その時の調停で譲歩することを条件に、彼女の父は秘密裏に手術を
指示してカルテを改竄させたんだそうです。加嶋さんは可笑しそうに笑いながらそう言っていました」
 その時の情景を思い出しているのか、少年は自嘲気味に口元を歪めながらそう言った。
「信じ…られない。あんな可愛いらしい子が、その…」
 深雪は目を丸くしている。驚きすぎて口が塞がらないといった感じだ。無理もないことだろう。鹿島 霧子と付き合いの
あった俺でさえ、そんなことには欠片も気付かなかったのだから。顔、体形、仕草や表情に至るまで、彼女のそれは間違いなく
少女のものだった。少年の口から真実を告げられた今でさえ、それは疑うことさえ難しい程に。
「人間は第二次性長期に生殖器から分泌されるホルモンの影響によって、男なら男らしい角ばった体に、女なら女らしい
丸みを持った体に成長していく。それまでは男でも肉体的には殆ど女の子と同じなんだ。だから第二次性長期前に
生殖器を失った男は成長してからも殆ど女の子と見分けがつかないものらしい。病院に行って定期的に女性ホルモンを
注射していたりすれば尚更だろう」
 何時の間にか火を燈した煙草を指に挟み、邑上が煙と共に薀蓄を吐き出す。
 そうだ。加嶋 霧子は病院に、それも俺が入院していたあの病院に通っていたのではなかったか。
俺はあの病院で聞いた噂を思い出した。廃マンションに現れる少女の幽霊。彼女の姿をあの病院で目撃した者がいること。
不良に殴り殺されたホームレス、強姦された少女、そして開かずの部屋。
どれもがまともに考えるのも馬鹿馬鹿しいような陳腐でありきたりな怪談だと思っていた。
でも、それらは全て真実だった訳だ。それも全て一人の少女、加嶋 霧子に集約された噂だったのだ。
事実は小説よりも奇なりと言うが、まさにそれはこのことだろう。
「…哀れなのは、それが加嶋 霧子が自分で望んだことではなかったということだな。
 彼女には、いや、その時はまだ彼だった訳だが、彼女には選択の予知など与えられなかった。
それに時期も悪かった。7,8歳といえば、もの心つくかどうかのぎりぎりのラインだろう。ことがもっと早ければ彼女が
そんな生い立ちを悩むこともなかったかだろうし、もっと遅ければ受け入れることも出来たのかも知れない。不幸なことに、
加嶋 霧子はそのどちらでもなかった。だから彼女は男性だった頃の記憶を夢のように曖昧な状態で引き摺ったままで、
女性であることを強要され続けた訳だ。それは、想像を絶するストレスだったと思うよ。
 …なあ直人、お前には以前に話したことがあったと思うんだが、零の感覚という言葉を覚えているか?」
 まだ半分以上残っている煙草を灰皿に押し付けながら、邑上はそんな風に俺に話を振って来た。
「零の感覚?何よ、それ」
 しばし呆然としていた深雪が我に返り、弟の言葉に反応する。
「邑上の造語ですよ。いつでも当たり前に在るから感じることが出来ず、失ってしまうと逆にそれが在るかのように
感じてしまう感覚。
 確かそんな意味だったよな?」
 まあそんなところだと、邑上が新しい煙草に火を燈しながら相槌を打つ。深雪はもう、それは止めようとはしなかった。
吐き出された白い煙がぼやけた六芒星形(ヘキサグラム)を描いて天井に吸い込まれていく。
「性別というのも、零の感覚の一つだとは思わないか。人間は誰しも生まれた瞬間から必ず男か女かのいずれかで、
でも誰もそれを気にしたりはしないだろう?」
 邑上が言うと深雪が小首を傾げ、その言葉に異を唱える。
「普通気にするわよ。男と女ではランドセルの色も公衆トイレの入り口も違うし、買う服だって違うじゃない。
身だしなみも振る舞いだって女は男より凄く気を使っているわよ。自分の性別は誰だって常に気にしているものだと思うわ」
 ふうと、邑上が肺に溜まった煙を一口に吐き出した。
「そういう意味じゃないさ。男が男である権利、女が女でいられる権利は誰しも与えられていて、しかし誰もそれを
意識していないという意味だ。
 ランドセルを選ぶ時だってトイレの入り口を潜る時だって、自分の選択が正しいことは常に保障されている訳だろう?
服を買うにしても身なりをつくろうにしても、自分が男女いずれのカテゴリーからそれを選ぶべきかは考えるまでもなく
判ることだし、選んだものを身に付けることが自然であることも暗黙のうちに保障されている。
男の視る世界と女の視る世界というのは、やはり何処か違うのさ。男であると同時に女である人間もその逆の人間も
普通はいないから、双方比較する対象が無くて解らないだけだ。
 でも加嶋 霧子は違った。彼女は自分が男女のいずれであるか、いずれであるべきかに確信を持つことが
出来なかったのだろう。自分のとった選択が、自分の性に適っているという保障が何処にも無い訳だ。
誰の目にも見えずに存在している男と女の世界の境界、加嶋 霧子はそれを見てしまったんだよ。
 だから彼女は孤独だった。年頃になれば同性と異性に対する対応は変わるものだろう。いや、対応のされかたが
変わると言うべきか。性差を気にせず気兼ねなく付き合える人というのも居るだろうが、気兼ねなくなんて言っている時点で
既に違いを意識している訳だからな。
 だから彼女は、男子達のする馬鹿話にも、女子達の楽しげな会話の輪にも加わることが躊躇われた。
彼女は孤高を保つしかなかったんだ」
 赤井 雪江に干渉をされた時、だから彼女は全力でそれを拒絶したのだ。自分の中に誰も踏み込ませない為に。
自分の存在を守る為に。邑上は彼女の名は出さなかったが、俺には邑上がそう言わんとしていることが解った。
「…きっと、そうだったんだと思います」
 しかし邑上のその言葉に相槌を打ったのは、俺でも彼の姉でもない、俯いて拳を固めているその少年だった。

-これで解ったよね。ボクがこんな風に自分を呼ぶのも、ボクに相応しい一人称がこれしか無いからなんだ。
ボクはもう男ではないし、かと言って女としてもマガイモノだから。
 だから君の申し出には応えられない…もう応えも要らないと思うけれどね。
 君も男の子なんだから、セックスとかに興味あるだろう?ボクは多分そういうの、出来ないから-
 試したことはないけれどね。加嶋さんは微笑んだまま、子供を諭すように優しい口調でそう言いました。
 僕には何も言えなかった。あまりの衝撃に僕は動くことすら出来なかった。いや、動けないことにしていたんです。
本当は辛い筈の真実を語ってくれた彼女に、それを聞く前と同じ言葉を口にすることが出来なかった僕は、卑怯にも
だんまりを決め込んでいたんです。
 でも、加嶋さんはきっとそんなことは解っていたんだと思います。解っていて、それでも僕を試した。いや、僕に助けを
求めていたんだと思います。
 今なら僕にも解ります。加嶋さんが自分の過去を僕に話してくれたのは、僕にそんな力も勇気も無いことが解っていて、
それでも助けを求めずにはいられなかったからなんだと思います。それなのに僕は、加嶋さんに何も言うことが出来なかった!
加嶋さんのことを、きっと汚いものを見る様な目で視ていたに違いないんです!
 もしも…

-でも、もし君が…-

 もしも、あの時…

-もしも君が、こんな気持ちの悪い男女でも良いと言ってくれるなら…-

 あの時、僕が…

-もしそうなら…友達になってくれると言うのであれば、それは大歓迎だよ…-

 あの時僕が、彼女のその言葉に頷くことが出来たのなら…

-…ごめんね。忘れてくれて良いよ-

「もしあの時僕が彼女の言葉に応えることが出来ていたなら。寂しそうな笑顔で去っていく彼女の手を掴むことが出来たのなら、
加嶋さんは死なずに済んだのでしょうか?男だからとか女だからとかそんなこと関係ない。僕は一人の人間として、
加嶋さんのことが好きだったのに。
 …もしあの時、僕がそれを彼女に伝えることが出来たのなら、彼女は今でも僕のそばに居てくれたんでしょうか。
あんな寂しそうな笑顔じゃない、本当の笑顔でまだ僕の隣にいてくれたのでしょうか?」

 俯いた少年の瞳から溢れ出した透明な雫が、もうすっかり冷めてしまった珈琲の上に零れて落ちた。
 何時までも泣き続ける少年を、彼女の為に流される最後の涙を、それを受け止める冷え切った珈琲だけが静かに慰めていた。

 何時までも、慰めていた。



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