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頬に当たる夜風に起こされて、俺は目を開けた。
ゆらゆらと揺れるカーテンから覗く月の光が、二人きりの世界を淡く染め上げていた。幻想的なその風景の中で、
幻想そのものの少女は毛布に包まったまま小動物のような愛らしい仕草で干し葡萄をついばんでいる。
「…美味しい?」
古い長椅子がきこきこと情緒を奏でる。その背凭れに顎を乗せてそれを眺めている俺に、少女は無言のまま
笑って応えてくれた。
この不思議な少女に出逢ったのは何時の頃だったか。俺は長椅子の背凭れを抱えたまま、ぼんやりとそんなことを
考えていた。
もう1、2ヶ月程前になるだろうか。彼女を最初に目にしたのは、今日と同じ月の綺麗な夜だった。
白い月に誘われるように目的も無いままふらふらと夜の散策に出掛けた俺は、この黒ずんだマンションから寂しそうに
窓を覗く少女を見つけた。
彼女はいつもその窓から世界を見下ろしていた。最初はこの奇怪なマンションに住む奇妙な住人の一人なのだろうと思い、
月がそうするようにただ世界を見下ろすその少女を、俺もまた月を見上げる人のように、刹那視界に収めては
ただ通り過ぎるだけだった。
それから幾日も経たないうちに、俺はそのマンションが遠い昔に忘れられ、捨て去られた廃マンションなのだと知った。
その建物が幽霊マンションなどという不名誉な仇名で呼ばれていることも、それと殆ど同時に俺の耳に届いた。
生きている者など誰も居る筈のない窓の奥から静かに世界を見詰める少女、あの建物がそんな不吉な名で囁かれている
その理由を考えれば、あの窓から見下ろす少女を見つけたのはきっと俺だけでは無かったのだろう
俺や彼らが見ていたものは夢か幻か、それとも幽霊か。そんなオカルトは退屈な日常を紛らわす為のささやかな娯楽に
過ぎない。月を見上げる人間達は、けれども決して其処に至ることを望みはしない。1969年に彼の船が初めて月に至るまで、
月旅行などはただの空想、物語の産物でしかなかった筈だ。それが当たり前、それが常識的な反応というものだ。
だが、俺はそれを望んでしまった。俺の好奇心は、そんな他愛無い噂では俺を満足させてはくれなかった。或いはそれは、
魔術師を自称する奇妙の友人の影響かも知れない。誰よりも強くそれに惹かれるが故に、誰よりも其処から遠く離れた
場所に身を置くあの神秘家の。
かくして俺はこの場所を訪れた。月明かりだけがやたらと眩しい夜の、奇妙な独りきりの肝試し。この幽霊マンションに
足を踏み入れた時の俺が何を望んでいたのか、今となってはもう思い出せない。
ありふれた好奇心だったのか、それともただの暇潰しだったのか。いずれにしろ俺は月面に足を踏み入れることなど
望んではいなかっただろう。
だが俺は其処に至ってしまった。独りきりの筈のあの夜の、在る筈の無い他人。思えばこの部屋と夜の空気を隔てる
陰気極まりないあの開かずの扉こそ、退屈でそれでいてかけがえのない現実世界に帰る為の最後の機会だったのだ。
だが、俺はその扉を開いてしまった。
そうしてあの日、俺は月に至った。あの窓からただ月のように世界を見下ろしていただけの少女と、
それをただ見上げていただけの俺との、訪れる筈のない出逢いを経験してしまった。
頬に当たる夜風に起こされて、俺は目を開けた。
あの日夜空に浮かぶ月でしかなかった少女は、今は目の前で俺の持ってきたタッパーから干し葡萄を摘みあげては、
嬉しそうにそれを口に運んでいる。
よくあんな甘いだけのものを食べられるものだ。小動物のようにそれをついばむ彼女をただ眺めながら、
俺はそんなことを思っていた。
あの日の出逢い以来、俺は月の綺麗な夜は決まって此処を訪れていた。おそらくは中学生くらいなのだろう、
五つも歳の離れたこの少女とのデートを楽しむにはこの部屋はあまりに殺風景で、せめて月がそれを彩ってくれることを
願っては俺は晩秋の白い月を日々待ち望んでいた。と言ってもそれを待ちきれない俺は、週に2、3日のペースで此処を
訪れてはいるのだが。
彼女が口にしているあれも、そんな味気のない逢瀬を楽しむ為の、せめてもの手土産だった。最近は此処を訪れる時、
俺は必ず近場のコンビニで菓子やパンを買ってはこの部屋に持ち込んでいた。彼女が喜ぶからというのもあるが、
この何も無い部屋で何も言わない少女と何もせずに過ごすのに、時間以外に何か共有できるものが欲しかったというのが
その理由だ。そうして考え出た答えが、せめて同じものを食べるという至極単純な結論であり、今彼女が口にしている
ものだった。
彼女はまだ嬉しそうな顔で俺の出したその答えを口に運び続けている。答えを思いついた俺は、ただそれを眺めているだけ。
同じ時間は共有しても、当初の俺のささやかな目論見は見事に外れてしまっていた。どうにもこの前に持参した
干し葡萄入りの菓子パンが良くなかった。深夜のコンビニで選べる程の菓子が残っていなかったこともあり、仕方無しに俺は
自分があまり好きではない干し葡萄が無残にも散りばめられてしまっているそのパンを買って持って来たのだが、
俺の意図に反して彼女はそれが痛く気に入ってしまったらしい。それ以来彼女は干し葡萄ばかり食べ続けている。
結局、俺の部屋の冷蔵庫には俺自身口にすることがないそれがタッパーに収まって、小さな冷蔵庫の馬鹿にならない
スペースを占領している始末だ。
「美味しい?」
口から零れた俺の問いかけに、彼女は無言のまま笑って答えてくれた。その屈託の無い笑顔に、俺もまた頬を緩ませる。
彼女がこれだけ気に入ってくれたのだから、それもまあ悪くは無いだろう。食べるものは共有出来なくとも、こんな不思議な
時間を共有する関係も悪くはない。
そんなことを考えている俺が退屈しているように見えたのだろうか、少女は小首を傾げた後、ふいに立ち上がった。
ばさりと軽い音がして、その肩から毛布が床に落ちる。彼女はそのまま俺の前まで歩いて来て、何を思ったのか先程まで
飽きることなく握り締めていたそのタッパーを無言で差し出した。
「…食べろ、と?」
恐る恐る俺が聞くと、少女は満面の笑顔で頷いた。きっと引き攣っているだろう俺の顔を前にしながらも揺るぐことのない
その笑顔を見ていると、どうにも彼女は俺がこれを苦手としていることを解っていてしているような気がする。
少し意地の悪く見えるその笑顔を前にして、それでも俺は逆らえずにそのタッパーを受け取った。タッパーの中には
干し葡萄がまだたっぷりと残っていた。もともと調理用のものを一袋買って詰め込んでおいたものなのだ。
如何に彼女が沢山食べようと、今日一日だけでそうそう食べきれるものではない。仕方なく俺はその中から小さめのものを
一つ選び、口に運ぶ。やはり…甘い。
何とか飲み下してタッパーを返そうとしたが、彼女は後ろでに手を組んだ姿勢のままでそれを受け取ろうとしない。
にこにことしたその表情は、明らかに絶好の悪戯を見つけた年相応の少女のもの。間違いなく俺の反応を面白がっている。
嬉しそうというか楽しそうなその笑顔は、話すことが出来ない少女の届く筈のない言葉をはっきりと代弁していた。
そう、彼女は話すことが出来なかった。
本当のところがどうだかは知らない。悪戯好きな彼女のこと、本当は話せるのに俺の前ではそういうふりをしている
だけなのかも知れない。いずれにしろ、この少女と出逢ってから今まで、俺は一度たりとも彼女の声を聞いたことは無かった。
だから俺は未だに彼女の名前すら知らないのだ。
最初に彼女と出逢った夜、俺は逃げるようにその場を去った。その時は、それこそ幽霊でも見たつもりでいたのだ。
だが、それでも気になり何度か此処に足を運んでいるうちに、俺は彼女が幽霊でも幻でもなく実在する一人の
人間であることを知った。物陰から隠れるようにして様子を伺っていた俺のことを少女は知っていたらしい、初めて俺が
声を掛けた時も、彼女は驚きもせずに微笑んでくれた。
その時、少女は乾いた血のこびりついた包帯を頭に巻いていた。いくら語りかけても一向に返っては来ない一方通行の
言葉と、何処か子供じみた少女の振る舞いから、最初俺は少女が何らかの理由で此処に置き去りにされた病人なのだと
思った。
少女が治療を必要としているならば、彼女がこんな場所に居て良い訳はない。俺は彼女を病院へ連れて行こうとしたが、
しかしそれは彼女自身によって拒まれた。部屋から追い出された俺は、俺にもうその気が無いと彼女が納得するまでの数日間、
この部屋に入れてもらえなかった。
何故あの時俺は彼女を病院に連れて行くのを諦めたのだろう。強引に連れ出すことも出来た筈だ。
人を呼ぶことも出来ただろう。だが俺はそうしようとはしなかった。俺以外の人間が此処に通っていた形跡があったからだろうか。
それから数日後に俺が訪れた時彼女は包帯を巻いてはいなかったし、そもそも話すことが出来ない少女が誰の援助も無く独り
この場所で生活出来る筈もない。誰かが何らかの理由で少女を此処に住まわせ、彼女もまたそのことに納得しているのならば、
事情を知らない俺が余計なことをすることもないだろうと、その時はそう自分を納得させたのだ。
だが、今にして思えばそれが欺瞞に過ぎなかったことが俺にも解る。
俺は彼女と逢いたかったのだ。この美しい少女を独り占めにしたかったのだ。
もの言わぬこの少女と、優しく埃の積もったこの朽ちかけた部屋のことを、俺一人の秘密にしておきたかったのだ。
それ以来、月の綺麗な夜には俺は決まって肝試しに出掛けている。月の綺麗な夜の誰も居ない筈の廃マンションの一部屋で、
何も語らない少女とのただ共に時間を過ごすだけのデート。この退屈な時間をデートなどと思っているのは多分俺だけだろう。
それでも俺は満足だった。沈黙だけが絶え間なく聞こえるこの時間の中に在る時、俺は確かに幸せを感じることが
出来るのだから…
何時の間にか、少女は俺の前から姿を消していた。意地の悪い監視役が消えて、俺は漸く口の中を蹂躙する甘さから
解放される。部屋を見渡すと、彼女は一人窓から外の風景を眺めていた。口の中の干し葡萄の味が消えるまでの間、
俺もまた窓の外眺めている少女を眺める。白い月に照らされて闇の中に浮かび上がる少女の姿は幻想的で、
まるで一枚の絵画を眺めているかのように俺に錯覚させる。
今、彼女の口元に笑みは無い。窓の外に何か気になるものでも見つけたのか、それとも考え事でもしているのだろうか。
俺といる彼女はいつも微笑みを絶やさないが、時折今のような表情を見せることがあった。俺にはその理由は分からない。
子供じみた振る舞いをする彼女を俺は知恵の遅れた少女なのかと疑った時もあったが、こうして同じ時間を過ごしているうちに
俺はそれが大きな間違いであることを知った。少女は間違いなく年齢通りか、或いはそれ以上に成熟した精神を宿している。
記憶を喪っているということもないようだ。そんな彼女が、何故独りこんな場所に何日もの間身を隠しているのか、
何故在った筈の日常からこうして逃げなければならないのか。其処に何を残してきてしまったのか、その理由を俺は知らない。
彼女がその理由を語ることは勿論なかったし、俺も知ろうとはしなかった。それを知ってしまうことで、この心地よい関係が
壊れてしまうことが怖かったのかも知れない。
ちくたくと、古い時計が時を刻む音を聞いたような気がした。気のせいだろう、此処には時の経過を告げるものなど
何一つ無いのだから。
少女はまだ窓の外を眺めていた。それはまるで時間が止まったかのようで、ただ彼女の顔を撫でる月の光の軌跡だけが、
音も無く流れていった時間を物語っていた。
外の世界の時計の針は、そろそろ12時を回ったところだろう。時計を見なくとも時の流れを知ることが出来るという無粋な
俺の特技の一つが、俺が時の無いこの部屋の住人になりきれていないことを実感させる。
今夜はもう帰ることにしよう。いつもなら少女はもう寝ている時間だし、俺もとっくに帰っている時間だ。
心地良い夜風に当てられてうたた寝をしてしまい、思わぬ長居をしてしまったようだ。今夜はなんだか名残惜しい気分だが、
また月の夜に逢いに来れば良い。
「今夜はもう帰るよ」
立ち上がって少女に告げる。窓の外を眺める彫像のようになっていた少女が、驚いたように振り返った。
それ程面白いものが夜の世界に在ったのだろうか、しかし振り向いた少女が浮かべていたものはいつもの微笑ではなかった。
「また来るよ」
俺のその言葉は、不安とも困惑ともとれるその表情を浮かべた少女の慰めに少しはなったのだろうか。
別れ際に彼女がそんな顔をしたことはなかったから、俺にはその程度の言葉しか言うことは出来なかった。
そういえば、この部屋でこんな言葉を吐いたのはこれが初めてかも知れない。
結局俺はそれだけ言って、現実へと続く扉のノブに手をかける。
…少女が何かを呟いたような気がしたが、俺は振り返らずにその扉を押した。
汚れきった玄関ホールを抜けると、月が俺を出迎えてくれた。来た時はあんなにも煌々と輝いていた白い月が
今は霞んでいて、それに胸騒ぎを覚えた俺は意味もなく携帯の電源を入れて興味もない今の時間を確認する。
液晶に映し出された時間は俺の予想と寸分違わず、一瞥しただけで俺はそれをジャンパーのポケットに捻じ込んだ。
赤いレンガの敷き詰められた広間をゆっくりと歩いて行く。歩きながら、俺はこんな時間が長くは続かないだろうことを
予感していた。また来るなどと口にはしたが、次に俺が訪れた時にも彼女が此処に居るなどという保障は何処にも無い。
あんな少女がこんな場所に何時までの居るということは、そして其処に名前も知らない男が通い詰めるなどということは、
誰の目から見ても疑いようもなく不自然なことだろう。明日にでも誰かが彼女を連れ去ってしまうかもしれない。
だがそれは当たり前の、仕方のないことだ。その時が来ても、それが今だったとしても、俺はそれに異を唱えるつもりはない。
そう思いながらも、それでも俺はそれが一秒でも先の未来であることを祈らずにいられなかった。
その時、その瞬間まで俺はそう願っていた。
ふいに月が翳った。
暗くなった世界に驚いて、俺は夜空を見上げる。しかしその視線は、中天に在る筈の月を捉えるよりも速く別のものに
捕らえられた。
朧(おぼろ)な月を背負った幽霊マンションの三階、先程まで俺の居たあの部屋の窓に少女が座っていた。窓枠に腰を下ろし、
白い素足を夜の空気に投げ出している。少女のその危険な行為に目を瞑れば、それは見慣れた筈の風景。
しかし彼女の顔に浮かんでいるのは、見慣れたあの微笑でも楽しそうな笑顔でもなかった。
何かを悟ったような、或いは何もかもを見限ったような、冷たく澄んだ瞳。あの年頃の少女が浮かべる筈もない、
ぞっとするほど美しく、そして触れられない程悲しい表情で、少女は俺の居る世界を見下ろしていた。
そして…
そして声を上げることすら出来ない俺の方を振り返ることもなく、それはまるで深い眠りに墜ちて行くように、ゆっくりと、
少女は遥か遠い地面へと倒れ込んで行った…
雲の合間に隠れていた月が再び世界を映し出す。
白く輝く月の下に、煤けたレンガ敷きの石畳の上に一輪の花が咲いているのを俺は見た。
染み込んだ血の赤とばらけた髪の黒、血の気を失った白い貌。
闇に沈んだ世界を彩るそのコントラストを、俺は美しいと思った。
何処か遠くで悲鳴のような声が聞こえた気がした。ただ目の前の情景を眺める為だけの存在になっていた俺は、
その声に無感動に振り返る。けれど、もう其処には何も無かった。白く輝く今夜の月も、それを隠す紫色の雲も、
俺の立っていた筈のレンガ敷きの石畳さえ、もう其処には無い。
在るものはただ救いの無い漆黒の闇と、その中に響く割れ鐘のような不快な音。
膝から力が抜けて、俺は前のめりに崩れ落ちる。闇の中に投げ出された俺に残されたものは、耳に残る何か乾いたものが
砕ける音と、強烈な眩暈だけ。
消えて行く意識の中で、俺はもう二度とあの少女と逢うことが出来ないことを悟り、それを悲しく思っていた。
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