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雪はうっすらと積もり始めていた。まだ歩くのに差し支える程ではないが、このまま降り続ければ日が暮れる頃には
結構な量になっているだろう。
今年最初の雪を踏みしめながら、俺達三人は無言で歩いていた。三人とも、寒さで身を小さくしている。
本当は走るべきなのかも知れない。もしも深雪が危惧するように赤井 雪江があの幽霊マンションで身動き出来ないような
状態になっているのだとしたら、この美しい粉雪は降り注ぐ毒となって彼女に残された時間を削っている筈なのだから。
それでも俺達は歩を早められずにいた。それは寒さの為なのか、それとも来たるべき悲劇を、もう既に取り返しの
つかなくなっている事態を心の何処かで認め、それを一秒でも先に延ばしたいと考えているからなのだろうか。
散るものは白く空に、舞い降りた雪の結晶は穢(けが)れた街の喧騒を洗い流すかのように、辺りはとても静かだった。
まだちらほらと人通りがあるのに、まるで世界に俺達しか存在していないかのように思えてしまう。
だからだろうか。三人だけのその静寂の中に紛れ込んだ異物の気配は、積もり始めた雪に音を喰われた筈の俺達の耳にも
はっきりと聞き取ることが出来た。
誰もまだ何も言い出さない。三人の誰もがそれを認めたくなくて、他の二人が口を開くのを待っているのだ。
だが、その沈黙は何よりも雄弁にそのことを語ってしまっている。
最初にそれを認めるべきなのは俺。何故なら俺にとってそれは、他の二人と違って始めての経験ではないのだから。
「やっぱり尾けられているみたいだな」
俺がそれを認めると、深雪は気味悪そうに身を震わせ、邑上はわざとらしく溜め息を吐いた。
「全く、お前と居るとろくな目に合わないな」
邑上が深雪の髪をつんつんと引っ張りながら言う。彼女が振り返ろうとしたのを止めたらしい。その口調は心底迷惑そうであり、
それでいて何処か楽しげでもあった。
「まさかとは思っていたけど、やっぱりそうなのね。信司、あんた何かろくでもないことして誰かの恨みでも買ったの?」
引っ張られた髪を撫でながら深雪が言う。流石に気味が悪いのか、常時なら許さないだろう弟の無礼も
今回はお咎め無しのようだ。それでも真っ先に邑上のせいにする辺り、遠まわしな抗議なのかも知れないが。
「俺じゃなくて直人だよ、尾けられているのは。前にも似たようなことがあって、俺が濡れ衣着せられたからな。ああでも、
姉貴を尾け廻している趣味の悪いストーカーかも知れないな。直人が姉貴と仲良くしているのを見て業を煮やしたとか」
そんな訳ないでしょ、と弟の冗談めかした言葉を深雪が一蹴する。先程から三人とも必要以上の小声で、
視線は前を向いたままだ。深雪に至っては俺達の方をすら見ようとしない。余程後ろを振り返りたくないのだろう。
「あたし、そんな話聞いてないよ。直人君、何か心当たりでもあるの?」
「記憶はないんだけれど…」
少し拗ねたような深雪の言葉に、俺は曖昧に応える。嘘は言っていない。心当たりはあっても記憶は無いのだ。
記憶が無いことが心当たりと言えば心当たりである。
何者だろうか。俺は無言で考える。須藤 寛一だろうか。だが彼は、昨日俺の前に姿を現している。彼が俺の事情を
知っているのかどうかは知らないが、一度対面した人間を尾行することに意味などあるだろうか。それとも深雪が
危惧するように、昨日とは状況が違うということなのだろうか。
しかし、彼が今俺達を尾けている犯人だとしたら疑問が残ることは確かだ。何処で俺達を発見したか、という疑問が。
例えば先程まで俺たちが居た喫茶店。たまたま其処に彼が居たものと仮定する。邑上も深雪も彼とは面識が無いのだろうが、
俺は一度面と向かって彼と言葉を交わしているのだから、店の中に彼が居れば気付かない筈は無い。
勿論、他人の顔を認識することが出来ない俺に限ってはそんなことはないのだが、須藤の方がそう思う筈ではないか。
仮に須藤が赤井 雪江から俺の視覚のことを聞いていたとしても、そんなファンタジーを信じるような男だっただろうか。
それとも、店を出てから俺達に気付いて尾行を始めたのか、俺達が店に入って来たのを見て上手く席を外し、
外で俺達が出てくるのを待っていたのだろうか。どれもあり得そうであり、あり得ないようにも思える。やはり須藤ではないのか。
「それで、どうする直人。このままあの廃マンションまで引き連れて行くのか。それとも途中で撒くか。此処はまだ人通りが多いし、
俺達が気取った素振りを見せれば一目散に逃げて行くと思うが」
邑上がいつか視せた刑事ドラマの主人公のような顔つきでそう提案する。俺は唸った。姿無き追跡者が何者なのかは
分からない。その目的も。そんな訳の分からない奴に何時までも追い回されるのはごめんだ。少なくとも彼は、
この一週間のうちに二度、彼が須藤 寛一であるなら三度、俺を尾け廻したことになる。次が無いとは到底思えない。
「誰だか確かめよう。袋小路に上手く誘い込めば、何のつもりか問いただせるかも知れない。それに、雪江さんのこととも
何か関係あるかも知れない」
雪江という名前に反応して深雪の目に力強いものが宿った。またちくりと心が痛む。俺が本当に聞き出したいのは
赤井 雪江のことではないのに。
痛む良心を冷たく突き放して、俺は追跡者を誘い込む計画を画策する。この辺りは大通りには人通りが多いが、
少し裏道を行けば途端に人影が無くなる。あの幽霊マンションなどがその最たる例だが、その他にも人通りの少ない
小路などが多数ある。その中には一見では分からない袋小路になっているものもあった筈だ。そこに彼を
誘い込むことが出来れば、捕まえることも出来るだろう。彼の人物がどれ程危険なのかは判らないが、今回はこちらも
三人居るし、何かあっても少し走ればまだ人通りのある大通りに逃げ込むことが出来る。そうなったとして、その前にちらりと
でも姿を見ることが出来れば、邑上や深雪が俺の代わりにその人物の顔や服装を覚えてくれることだろう。
かなり勝算が高いように思える。やってやろう。
そうと決まれば行動は早い方が良い。あまりおたおたしていては追跡者に気取られるかも知れない。俺は頭の中から
この周辺の地図を引っ張り出し、待ち伏せするのに適当な袋小路を検索する。いくつかの候補の中から選んだその道まで、
5分も歩けば辿り着けるだろう。
目で邑上に合図し、進路を変えてなるべく自然に見えるように裏道に入って行く。彼は尾いてくるだろうか。
ぺたり。
ぺたり。
今や聞き逃す筈もないその下手糞な尾行者の足音は、歩調を変えずに俺達の後につい来た。もともと俺達が向かっていた
場所を知っていたかのようだ。それは狙い通り。だから俺は一見してあの幽霊マンションへの近道に思えるような袋小路を
選んでやったのだ。
ぺたり。
ぺたり。
俺達は慎重に、しかし自然に見えるようにその場所を目指す。程なくして目的の場所が視えてきた。都合良く辺りに
人の気配は無い。この小路の先は見通しの悪いL字型の袋小路になっていた筈だ。L字の曲がり角は、それがあることを
知らない人間には見つけ難いから、壁の角に隠れて待ち伏せれば、相手が俺達を見失って慌てている隙にこちらからだけ
一方的に彼の姿を視界に納めることが出来るだろう。
最後の角を曲がり、俺達は其処に身を潜ませた。三人とも声を殺し、緊張に身を震わせている。高鳴る心臓の鼓動は、
お互いのその音が聞こえてきそうな程だ。この感覚は、かつて同じ状況で味わったことがある。だが、あの時は恐怖に心を奪われていた。今、仕掛けているのは俺の方だ。
さあ、正体を見せてみろ。
足音はゆっくりと、しかし確実にこちらに近づいて来ていた。
ぺたり。
ぺた…
足音が止んだ。薄暗い路地に刺す光の向こうに、ぼんやりとしたシルエットが浮かび上がる。光の向こうの人影は
戸惑うように、辺りをきょときょとと見回している。俺達を探しているのだろう。
「おかしいな…」
その人影が小さく呟く。それは勿論彼の独り言だったのだろう。虫の泣くように小さなその声は、耳の良い俺にだけしか
聞こえなかったかも知れない。だが、生まれた時から誰かに伝えられることを望まれなかった哀れなその言葉は、
確かに俺の耳に届いてしまった。その呟きが言葉になったことによって、その主である人影もまた、人間としての生を受ける。
その人影は少年だった。中学生くらいだろうか、何処かで見たことのあるような紺のブレザーを纏い、彼もまた独りきりで
降る雪の寒さに震えていた。
その彼が、恐る恐る路地の中に足を踏み入れる。不安げに辺りを見渡すその仕草に、少年にしてはやや長い髪が揺れる。
瞳が大きい、まだ男になりきれてはいない、少年。ただ顎のラインの堅さが、男性としての僅かな成長を感じさせる。
およそ人を尾行するなどという行為からは想像もつかないようなその人物が、俺を恐怖させていた姿無き追跡者の正体だった。
「意外…可愛い子ね」
深雪が小さく呟く。
「ああ…」
「むう…」
俺と邑上は曖昧に頷く。男に対して女性に可愛いという形容詞を使われると、聞いている男としては本音がどうであれ
同意し難いものがある。しかし確かに、こんな路地裏に引き込んでしまったことに罪悪感を抱かせるような儚げな存在ではある。
「何であんなのに尾行されたりしているんだよ、お前。何かしたのか?」
「するか。て言うか、何かって何だよ」
そうは言ってみるが、記憶が無いという心当たりは依然としてあった。あんな少年に恨まれるような覚えは全く無いのだが…
無い筈なのだが、そもそもその覚えが無いということが問題なのだ。
まさか本当に俺の知っている人物ではあるまいな…何だか自分に自信がなくなって、俺はまじまじとその少年を
凝視してしまった。ありがちなブレザーの学生服、学生鞄、スニーカー、体つきはこの年代の少年としては平均的か。
その分、顔つきのあどけなさが強調されている。何処にでもいそうな、気弱そうな少年…
その時ふと違和感を覚え、俺は弛緩しかけた心を再び緊張させた。何だろう、この違和感は。確かに、現れたのは
尾行などという犯罪まがいの行為が似合わない少年ではある。だが違和感の正体はそれではない。では、少年自体に
違和感を覚えたのか。しかしいくら観察してみても、彼は何処にでも居そうな普通の少年にしか視えないし、
特に変わったところも見受けられない…
「ああ、そう言えば直人君には彼が視えないのよね。
ええとね、少年よ、少年。学生服を着た男の子。中学生くらいで、ちょっと女の子みたいで可愛いわね。運動しているような
イメージじゃないわ。部活動をしているとしたら、きっと文学系の倶楽部か何かよ…」
…そうか。やけに偏った深雪のその説明に、俺は感じていたその違和感の正体を知る。
俺には彼が視えているのだ。そう意識しなければ気付くことが出来なかっただろうが、俺には見たことの無い人間を
認識することは出来ない筈なのだ。どんなに注意深く特徴を捉えようとしても、その基となる情報は両耳からさらさらと
零れ落ちてしまう。当たり前だ、本当は俺には見えていないのだから。
だが、今の俺の目にもその少年の姿ははっきりと視える。不安げな面差しも、それでいて決意を秘めた眼差しも、
其処に在るものとして確かに認識することが出来る。彼は街を行き交うその他大勢のような、歪な貌無しなんかでは断じてない。
それはつまり、客観という楽園から追放された俺の主観(せかい)に、彼は既に在ることを許された存在だということ。
だが、俺の記憶の中に彼はいない。つまり、それは…
彼こそが俺の求めていた存在、終わった筈のゲームの続き、加嶋 霧子に繋がる存在だということだ!
「おい直人、どうした?」
俺のただならぬ様子を察知して問う邑上の声に、しかし俺には応えてやれる余裕などある筈もない。彼の魔術師の
言葉でさえ、今の俺には遠く届かない。
「おい、直人!…まさか、お前にも視えているのか?」
ああ、視えているとも。
彼を逃がす訳にはいかない。俺は今までの生涯でかつてない程必死に思考を巡らせる。そう、今此処で彼を逃がす訳には
いかない。おそらくはこれが正真正銘最後のチャンス。これを逃せば、俺には二度と加嶋 霧子という人生に触れる機会は
巡って来ないだろう。
この場所の地形と情報を脳内の何処かから素早く取り出して、俺は彼を捕らえる為の方法を模索する。俺達が今居る場所は
袋小路。彼の姿を確認するのにはうってつけの場所ではあったが、捕らえるとなると容易くはない。考えられる方法は二通り。
一つは彼の隙をついて此処から一気に飛び出して強襲する方法。もう一つは道なき道を迂回して彼の背後に回り込む方法だ。
どちらが有効だろうか。この場所は袋小路とはいえ、別に監獄のような石壁に囲まれている訳ではない。壁を登り私有地を
踏み越える覚悟があるのなら、袋小路から抜け出して別のルートであの道に出ることも決して不可能ではない。
だがそれには時間がかかるし、誰かに騒がれる可能性もある。上手く回り込めたとしても、完全に彼の背後をとるまでに
気取られれば結局同じことだ。ではやはり飛び掛るか。彼我の距離は数メートル。彼はまだ俺達の存在に気付いていない。
此処から俺が急に飛び出せば、彼は驚愕して咄嗟の行動はとれないだろう。数秒間の時間は稼げるはずだ。
その間にこの距離を埋めることが出来るだろうか。俺と、あの日の少女とを阻むその距離を。
そちらの方が確実か。俺は飛び出すことを決意し、目標を見据える。彼はまだ、俺の存在に気付いていない。
…筈だった。
少年と目があった。彼の瞳孔が驚愕によって開かれ、俺が予定していた貴重な数秒間を奪っていく。何故だ、彼は先程まで
下を向いていた筈なのに。俺は彼の視線の先にあったものを確認する。其処には路地裏に迷い込んだ僅かな粉雪が
薄く積もっていた。そうか、足跡か!
機を失った俺が膝に力を込めるより早く、少年は俺に背を向けて脱兎のごとく走り出した。乱された地面が水中を
動いているかのように鈍く感じる俺の最初の一歩を受け止めるより早く、何かが脇を飛び出して少年の後を追って行った。
邑上。
少年とそれを追う邑上が光の向こうに姿を消す。それに続こうした時、何かが膝にぶつかって俺は大きく体勢を崩した。
重い乾いたものが倒れる音と、湿ったものが散らばる音が狭い路地裏に響く。ポリバケツか何かだ。糞、さっきまでは何も
無かった筈なのに!
何とか転ぶことだけは免れたが、体勢を立て直す為に費やさざるを得なかった数秒間は致命的だった。路地を出て
彼らが走り去った方向を眺めても、既に彼らの姿は無かった。雪の上に点々と残る足跡も、すぐに舞い落ちる粉雪に
掻き消されるだろう。今から走り出しても、彼らに追いつくことは不可能だ。
情けない気持ちで振り返ると、驚いたような呆れたような表情の深雪がゆっくりと歩み寄って来た。どうやら
この追いかけっこに参加するつもりは初めからなかったらしい。何とも気まずいものを感じ、俺は仕方なしに
まだ消えずに残る足跡が続いていった方向に視線を戻す。今となっては頼れるのは邑上だけだ。
「頼むぜ、魔術師」
僅かでもそれがあの悪友の力になってくれるよう、俺はその言葉を小さく口に出して呟いた。
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