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寒さに驚いて目が覚めた。雨でも降っているのかと窓を開けて手を伸ばすと、手の平に小さなものが舞い降りて来た。
雨の雫より遥かに軽く、しかし束の間確かに其処に残る冷たい感触…雪。それを認識した瞬間、
俺の目に映る窓の外の風景は一変した。雪化粧とまでは言えないまでも、白く純粋なそれは、街のあちらこちらを幽かに、
そして清楚に彩っていた。
雪のちらつく寒い冬のある日。俺の人生で最も長いその一日が、今、始まった。
「雪江先輩が行方不明なの」
その日の朝、突然鳴り出した携帯電話から聞こえてきたのは、そんな深雪の言葉だった。
「今日は朝から雪江先輩と会う約束をしていたのだけれど、何度電話しても出てくれなくて…」
あの新任教師がどれだけ律儀な人間だろうと、会う約束を破ったというだけで行方不明と決め付けてしまうのでは、
そう思う方の人間にもいくらか問題があるだろうと思うのだが。
「ううん、それだけじゃないの。あたしも悪い風邪でもひいたのかと思って雪江先輩の部屋まで行ってみたんだけれど、居ないの。
その、部屋の鍵が開けっ放しのままで。念の為学校にも連絡を入れてみたんだけど、今日は出勤する予定は無いし、
来てもいないって」
成程、確かにそれは異常だ。赤井 雪江が如何に重大な急用で深雪との約束を守れなかったにしろ、出かける前に
部屋の鍵を掛けるくらいの時間はあるだろう。そうでなかったとしても、鍵が開いたままなのはやはりおかしい。
居留守を使うにも、鍵が開いていたのでは全く意味がないし、そもそも赤井 雪江が深雪に対して居留守を使う理由も
無いと思う。
いや、そもそも居留守などという発想が出てくる俺がおかしいのか。起き抜けでどうやらまだ脳が通常営業を
再開していないようだ。
「朝飯を買いにコンビニに行っていたというようなことではないんですか?コンビニでなくとも、ちょっとその辺まで出かけて
すれ違いになったとか。それなら、電話に出なくてもおかしくないでしょう」
「もう一時間以上も部屋の前で待っているのに、全然帰ってくる様子がないの。それに、雪江先輩携帯は持って出ていると思う。
部屋に見当たらなかったから、多分。でも、電波が届いていない訳ではなさそうなのに、出てくれないし…」
部屋の鍵を掛けないで出掛ける程度の用事に、財布や携帯を持って行くものだろうか。その辺りは人によりけりだろうから
断言は出来ないが、如何にこの辺りが都心に比べれば田舎であるとしても、一時間以上かかる用事に部屋の鍵も掛けないで
出掛けたのであれば、いくらなんでも無用心に過ぎる。それに携帯を持って出ているのに電話に出ないというのも変だ。
携帯に電波が届いているにも関わらず持ち主がそれに気付かない状況というのは、概ね携帯とその主が離れ離れに
なっているか、何らかの理由で持ち主が着信に気付かないかのいずれかだ。そのうち前者が起こりうるのは十中八九自宅だし、
後者なら何度か電話すれば流石に気付くだろう。そう考えると、赤井 雪江が電話に出ないのは出たくても出られない
状況なのか、携帯が壊れたかといったところか。例えば事故に遭って動けなくなっているとか…いや、鍵も掛けずに
出掛けられる程度の場所で動けなくなる程の事故に遭ったのなら、深雪に所在が掴めない筈もないか。平和な街だ、
そういった話題なら近くを通れば聞きたくなくても耳に入ってくるだろう。
「そもそも、雪江先輩が約束を破ったり、そのことを連絡してこないなんてこと自体がおかしいの。そういうことには凄く
しっかりした人だから。
だから、あたし心配で…ねぇ直人君、一緒に探してくれない?」
普段の彼女からは想像も出来ないような弱々しい深雪の懇願。彼女には俺の勝手な都合で散々世話になったし、
赤井 雪江にしても知らぬ仲という訳ではない。二人に失踪した少女の探索を手伝ってもらっておきながら、
その一人が失踪した時に何もしないというのであれば、如何に俺が冷たい人間であったとしても冷たすぎるというものだ。
それに…
「わかりました。俺に何が出来るかは分かりませんが、お手伝いさせてください」
「ありがとう、直人君。正直、ちょっと心細かったんだ。信司も連れ出すつもりだけど、あいつじゃいまいち頼り甲斐が無いし」
それでも俺よりはマシですよ、と思ってもいないお世辞を返して、俺は深雪と落ち合う段取りをとってから電話を切った。
出掛ける用事が出来た以上、何時までもだらだらとしている訳にもいかない。まずは目と脳を覚ます為に、
軽い朝食と苦い珈琲でも淹れることにしよう。
冷凍庫から凍ったパンを取り出してトーストにしようとしながら、俺は壊れたと思い込んでいた時計が再び動き出した感覚を
感じ、密かに高揚している自分に気が付いた。
赤井 雪江の失踪は、加嶋 霧子のそれと無関係ではないかも知れない。
ならば彼女を探すことで、俺は再び彼の少女と関わることが出来るかも知れない。
赤井 雪江を探すのも深雪に協力するのも、結局俺にとっては自らのエゴの延長に過ぎないのではないか。
誰かにそう言われた気がしたが、俺はその胸糞悪い思念に気付かない振りをして凍ったパンをトースターに放り込んだ。
凍ったパンがトーストになるまで、あと5分。
昼過ぎのドトール・コーヒー。今週訪れたのはこれで二度目である。赤井 雪江の職場、私立麻布中学校から程近いこの店が
待ち合わせの場所だった。
「結局お前、何しに来たんだよ」
「言うなよ。俺も今それを考えているところなんだから」
邑上の辛辣な言葉も、今回ばかりは的を射ていると言わざるを得ない。
あれから深雪は赤井 雪江の部屋のあるマンションまで迎えに来させた後、二人して彼女の職場を探索して来たらしい。
俺は此処で彼らと待ち合わせ、それに付き合う筈だった…が、考えてみれば俺は彼女の通う学校に行くことが出来ないのだ。
俺の視覚は俺の記憶に無い場所を映すことが出来ない。あの事故に遭う前に俺が訪れたことのない場所では、俺には
何も視えないし、出来ないのだ。いや、それどころか二人の足を引っ張ることになるだけだろう…それこそ文字通りの意味で。
以前此処を訪れた時に味わった盲目の恐怖は、今でも俺の背筋に突き刺さったままだ。
そもそも、俺は赤井 雪江彼女自身をすら認識することが出来ないのだ。それ程までに彼女と何の接点も無い俺が、
彼女の行動範囲を事故前にこの目に納めていた可能性など天文学的に低かろう。現に、最近の彼女が最も多くの時間を
過ごしたであろうあの中学校すら、俺はその門を潜ることすら出来なかったのだ。
端的に言えば、赤井 雪江を探すという目的において、俺は世界でも有数の役立たずなのだった。
「すみません、深雪さん。本当に何の役にも立たなくて」
「ええと、気にしないでね。謝らなくても良いわよ。もともとあたしが無理に誘い出したんだし…」
それに、話を聞いて意見を言ってくれるだけでも十分心強いしね、と深雪が何とも心温まるフォローを入れてくれる。
「こいつの浅知恵がどんな役に立つかは知らないけどね」
そんな姉の言葉を台無しにする発言をしたのは、言わずもがな俺の悪友、邑上 信司その人である。全くもって、
この姉弟は良いコンビだと思う。
「…良いからあんたは珈琲を貰って来なさい。全く気が利かないんだから」
いつものように深雪がそんな弟を嗜める。邑上は肩を竦め、それが姉上様のお望みなら、と芝居がかった口調を言い残して
席を立った。
「ごめんね、あんな弟で」
「いえ、あいつの言うことももっともですし。それで、何か収穫はあったんですか」
俺が問う。収穫とは勿論、学校での探索の成果のことである。事前の情報収集によれば、赤井 雪江は今日は
登校していないし、その予定も無かったとのことだった。その言葉を信用しなかった訳でもないのだろうが、
それでも深雪は学校を探したいと言った。
-何か急な用事ができて学校に来て、そこで何かトラブルがあったのかも知れないし…-
自信の無さそうな深雪の言葉が脳裏に蘇る。おそらくは、深雪にしても赤井 雪江の自宅と彼女の職場である学校以外に
彼女の居そうな場所を思いつかなかったのだろう。数少ない親友である筈の深雪でさえ、赤井 雪江のことをその程度しか
知らなかったのだ。悔しそうな深雪の言葉には、きっと自らの親友を理解することが出来なかった自分への、
そんな悔恨の念が含まれていたのだろう。
「…雪江先輩、やっぱり学校には居なかった。何人かに尋ねてみたけど、今日先輩の姿を見た人は誰もいなかったわ。
あの先生の言うとおり、今日は登校していないのだと思う」
視線を落とし、小さな声で深雪が言う。気の利いた慰めの言葉も思い浮かばず、俺もまた言葉を無くした。
あれだけ力になってもらっているのに、こんなことでさえ俺は深雪の力になることが出来ない。いや、そもそも、
力になれるなどと思うこと自体がおこがましいのか。俺は赤井 雪江の失踪に加嶋 霧子の手がかりを見出し、
密かに喜んですらいたではないか。そんな人間にどんな言葉がかけられると言うのだ。
「あの、ええと、気にしないでね。あたし、そんなに落ち込んでいる訳じゃないから。もともと学校にはいないって言われていたし、
見つからないってことはそんな大事にはなってはいないってことなんだし。
それより、学校には部活かなんかで結構生徒が残っていてね。その子達に色々聞いたのだけど。この歳で学校を練り歩くの、
やっぱりちょっと恥ずかしかったな」
俺を落ち込ませたと思ったのか、深雪がことさら明るい声でそんなことを言った。現金なもので、誤解した彼女の明後日な
慰めの言葉でも、俺の罪悪感は幾分軽くなった。胸の前で両手を小さく振り、必死に何でも無いというような素振りをする
彼女は、そんな慌てた様子が何とも微笑ましい愛らしい少女の姿として俺の眼には映る。彼女が中学校で生徒相手に
聞き込みをしている様を視たとしても、きっと俺には何の違和感もない日常的な風景に視えるのだろう。
いや、そんなこと今はどうでも良い。
「それで、部屋の様子はどうだったんですか?何か変わったことはなかったんですか」
気を取り直して俺がまた問う。気遣ってくれる深雪の為にも、俺は少しでも彼女の力にならなければいけない。
もともと今日はその為に来たのだ。初手で躓いた以上、せめて無い知恵を絞らなければ。
「ええと…」
「とりあえず死体は無かったみたいだぜ。そんな怪しい状況で、無いほうが珍しいと思うけどな」
何時の間にか戻って来た邑上が、トレイの上の珈琲を配りながら話に割り込んできた。
「あんた、まだそれを言うか!」
「みたいって、お前は彼女の部屋は見て来なかったのか?マンションまで深雪さんを迎えに行ったんだろう?」
すかさず気色ばむ深雪を制し、俺が尋ねる。
「こんな奴、雪江先輩の部屋に入れてやる訳ないじゃない。そんなことしたら、あたしが後で雪江先輩に怒られるわよ」
弟が配る珈琲をひったくるようにして受け取りながら、深雪が言う。邑上は、信用ないなあ、などと呟きながら何事も
なかったように珈琲を啜った。こんな状況ですら姉をからかうことに余念がないのか、それともこいつなりの気遣いなのか。
いずれにしろ、不謹慎とも受け取れるその言葉で深雪は調子を取り戻したようである。傍から見ていて羨ましくなる程、
良いコンビなのだ。
「それで、姉貴。雪江さんの部屋に何か変わったことはなかったのか。俺を締め出したんだから、当然その分自分でしっかり
検証して来たんだろう?
姉貴が何も手掛かり見つけていないなら、はっきり言って俺らには探しようがないぜ」
何処かで聞いたような台詞を再び邑上が吐く。やる気が無いのか、それとも部屋に入れてもらえなかったことを
恨んでいるのかは判らないが。
「うるさいわね。ちゃんと色々見て来たわよ。
ええと…まず、ドアに鍵が掛かってなかったわ」
それはもう知っている、とすかさず邑上が姉に突っ込む。俺も頷きかけたが、深雪が凄い目で睨むので慌てて止めた。
「後、携帯が無かった。先輩は帰宅したらすぐに携帯を充電器に差し込むから、多分持って出たのだと思う」
また邑上が何か言いかけたが、今度は深雪が先じてそれを視線で止めた。邑上が肩を竦める。
「他には?」
「そうねえ。他に変わったことといったら…ちょっと部屋が散らかっていたことくらいかしら」
促す俺に、深雪が自信無さげにそう答える。
「それの何処が異常なんだよ?」
「あんたの部屋と一緒にしないの。雪江先輩凄く几帳面な人だから、何時行っても部屋は綺麗だったわ。でも、
昨日はちょっと散らかった感じだった。
あたしもそんなに何度も遊びに行ったことがある訳じゃないし、散らかっていると言ってもそんな気がしただけだから、
思い違いかも知れないけれど…」
だんだん語尾が小さくなる。深雪にしても、あまり自信が無いのだろう。それも無理はないだろうと思う。
こんなことになることが分かっていたのでもない限り、他人の部屋のインテリアをそこまで細々と記憶していたりはしないだろう。
ならば、深雪は何故彼女の部屋にそんな印象を持ったのだろうか。
「散らかっているって、掃除されていなかったってことですか?埃が溜まっていたとか」
「ううん、埃とか汚れとかそういうのじゃなくて、何て言うか、その…物が定位置じゃなかったのよ。新聞とか雑誌とか
テーブルの上に出しっぱなしだったし、ビールの空き缶も置きっぱなしだったし。あたしがお邪魔した時はそんなこと一度も
なかったわ。ビールにしたって、深雪先輩はそんなに呑む人じゃなかった。それは、全く呑めない訳じゃないと思うけれど」
自分の台詞に自信を取り戻したのか、深雪が自分の言葉に頷きながら状況を説明する。もっとも、そんな様子を見せれば
すぐに反論する人間が隣に居ることを失念しているのだから、その自信もハリボテかも知れないが。
「それは単に、姉貴が来ることが分かっていて慌てて掃除しただけじゃないのか?俺だって、姉貴が泊まりに来る前には
それなりに掃除も整理もしたんだぜ。酒にしたって、本当は酒好きなのを気取って隠していただけかもしれないだろう?
独りの時は毎晩手酌していたのかも知れないぜ」
自分で聞いておいて容赦の無い突っ込み。深雪は、それはそうかも知れないけれど、と何か言いかけて結局口を噤んだ。
他に話すことも見当たらず、しばし無言の時が流れる。店内の心地良い喧騒と三人が啜る珈琲の音だけが、無言の俺達に
代わって何かを語らっていた。
俺は考える。邑上はああ言ったが、俺には深雪の言いたいことが少しは理解出来る気がする。俺はそれ程でもないが、
几帳面な人間というのは部屋のオブジェをそうそう移動したりはしないように思う。他人には散らかっているように見えても、
部屋の主が最も多くの時間を過ごし位置から見てベストの配置になっていたりするものなのだろう。そういう人間は、
雑誌一つをとっても定位置に置いてないと気になったりするものだと思う。かく言う俺などは、欲しいものが自分の思った
位置にないとそれを見つけることが出来ないのだ。だから事故後は特に、物の位置というものに気を使っているのだ。
こう言っては悪いとはまるで思わないが、散らかし放題の邑上にはその辺りの心情が理解出来ないのだろう。
それなら、と俺は更に思索を練る。深雪の印象が正しいとしたら、何故赤井 雪江の部屋は散らかっていたのだろうか。
俺は昨晩の予期せぬ彼女との会合を思い出す。赤井 雪江は彼女の恋人、須藤 寛一とデートをして、おそらくは一度彼女の
部屋に戻ったのだろう。部屋の乱れもビールの空き缶も、彼女以外の人間が其処にいたと考えれば簡単に納得出来る。
そして彼女の話によれば、半ば喧嘩のような状態で須藤をあの幽霊マンションまで連れて来て、そこで口論になり、別れた。
その後俺は彼女と話をし、帰り道で須藤 寛一とも出遭った。
俺と別れた後に赤井 雪江は部屋に戻ったのだろうが、その時隣に須藤 寛一は居たのだろうか。もし赤井 雪江が彼とは
落ち合わずに独りで自分の部屋に帰ったのなら、寝る前に空き缶の片付けくらいはしそうなものだ。ならばあの後二人は
落ち合って赤井 雪江の部屋まで一緒に帰り、朝まで共に過ごしたと考える方が自然か。そして今朝深雪が其処に訪れる前に、
二人が一緒に、或いは赤井 雪江だけが先に部屋を出たのなら部屋が片付いていない理由の説明にはなる。
では、何故部屋の鍵が掛かっていなかったのだろうか。赤井 雪江が先に部屋を出て、須藤が鍵を掛けずに帰ったのだろうか。
例えば鍵を渡されていなかったとか。でも、朝まで共に過ごすような仲の男女が部屋の鍵を渡していないというのは
不自然ではないのだろうか。その辺りはあまり経験が無いので判らないが、鍵を持っていたなら須藤がどんなにルーズな
男だったとしても、鍵くらい掛けて出るだろう。それに、それではそもそも赤井 雪江が深雪との約束をすっぽかした理由が
解らない。
そこまで考えて、俺は自分の考えに穴があることに気付いた。
赤井 雪江はそもそも昨晩から帰っていないのではないか?
昨晩、彼女は須藤と言い争いをしていた。その詳細は知らないが、出掛けにごたごたしていたことは確かだろう。
飛び出すように部屋を出て行ったのであれば、鍵を掛けていなくても不思議は無い。そうであれば、彼女の部屋に残された
不可解な状況の全てを説明することが出来る。
俺は彼女の失踪を甘く考えていたのかもしれない。どうせたいしたことではないと、心の何処かで
たかを括っていたのかも知れない。だが、それは違ったのだ。雪がちらつく真冬の晩に、鍵も掛けていない部屋を
放ったらかしてあの寒々とした幽霊マンションで一夜を過ごしたというのであれば、それがただ事である筈が無いではないか!
今更ながら、俺はことの重大さに全身の血の気が引いていくのを感じた。
「どうした、何か顔色が悪いぞ。まあ顔の造りそのものは、前からたいして良くも無いが」
俺の様子に気付いた邑上が、どさくさに紛れて酷いことを言ったような気がする。だが、俺はそれどころではない。
「実は俺、昨晩雪江さんに逢ったんだよ。それを思い出したんだ。
あれから部屋に帰ったんだとばかり思っていたけれど、ひょっとしたら帰っていないのかも知れない」
「え…それ、どういうこと?」
驚いた深雪が目を丸くして尋ねる。
「いや、昨日夜中に目が覚めて、近所を散歩していたら雪江さんに偶然逢ったんですよ。世間話をして別れたんですけど。
何事もなく別れたから気にも止めなかったんですけど、ひょっとしたら雪江さん、あれから部屋に戻っていないのかも知れない」
「…何故そう思うんだ。何事も無く別れたんだろう?何か思うところでもあるのか?」
邑上が仏頂面で俺に問いただす。何かに耐えているようなその表情と、最初の質問を姉に譲った理由は、
さっきからテーブルの下で深雪に足を踏まれていることと無関係ではないかも知れない。俺はことの顛末を
二人に話して聞かせた。
「…そう。須藤さんも一緒だったのね。だったら何かあったのかも」
俺の説明から一拍置いて、深雪が小さな声でそう呟く。彼女の口から漏れたとは思えない程その言葉は冷たく、
まるで今此処にいないその男を呪っているかのようで、それは俺の背筋に悪寒を走らせた。
「姉貴、その男のことを知っているのか?」
同じものを感じたのか、邑上が姉に尋ねる言葉にはどこか腰が引けた色を隠せない。
「殆ど話したこともないけれど…大人しい雪江先輩に手を上げるような男だもの、ろくな奴じゃないに違いないわ。
そもそもどんな理由であれ、男が女に暴力を振るうなんて許せない!
ああでも、どうしよう。あの男が雪江先輩に何か酷いことをしたのかしら。心配だわ」
深雪のもともと白い顔が紙の様に白くなる。赤井 雪江が帰宅していないのなら、その心配は決して杞憂だとは言い切れない。
邑上も今度ばかりは茶化さずに、真っ直ぐに俺の目を見て言った。
「確かめてみた方が良いんだろうな、今すぐに。
直人、お前が雪江さんと逢ったっていうのは何処でだ?」
「…幽霊マンションだ。俺が彼女を最後に視たのは」
俺の言葉に邑上は天井を仰ぎ、深雪はいよいよ顔色を白くさせた。加嶋 霧子が失踪した後、おそらくは最期に
目撃されたであろうあの場所、幽霊マンションと噂される陰気な廃墟。その霧子を探す赤井 雪江が最後に目撃されたのも
その場所なのだ。これほど不吉な符号の一致もないだろう。
救いを求めて、俺は窓の外に目を向ける。今朝から降り続ける雪は心なしかその勢いを増したよう。その冷たさを思い出し、
俺は身を震わす。
長い一日になるのだろう。
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