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蒼月を背負って夜を歩く。
日付はもう変わったのだろうか。真夜中の空気は冷たく、吹く風は刃物のように鋭くジャンパーを切り裂いて俺を切りつける。
星明りを頼りに帰路を歩む。
もっとも、俺の目に光は必要ない。在るもの全てを否定するようなこの闇の中にあってさえ、俺にはそれらが
語りかけてくる声が聞こえるかのようだ。朝の肌を刺す太陽の光も、昼の騒がしい人間達の言葉と行きかう車の振動が
作り出すノイズも此処には無い。ただ、何も無いということを具現した闇と寒さだけが、透き通った水となってその中を泳ぐ
俺に存在という名の波を届けてくれる。
これが俺の、零の感覚なのだろうか。水の中を泳ぐ魚は、きっと水のことなど気にはしないだろう。しかし、
水から打ち上げられてしまえば、乾いた空気にその命を吸い取られる。その時になって漸く、魚は自らを守っていた存在に
気付くのだ。人間も同じなのかも知れない。良くも悪くも、喪うまでそれが在ったことに気付けないのかも知れない。
それが、如何に大切なものであったとしても。
人間は光の中でしか存在を捉えることが出来ない。しかし、同時に人間は光によっても目が眩む。光の下で生きることを
運命付けられた人間にとって、闇の冷たさは零の感覚だ。光と闇、無いことを具現しているのは果たしてそのいずれか。
俺と彼ら、喪ったのは果たしてどちらなの方なのか。
今夜この夜の闇を歩く俺の道連れは、天空から俺を冷たく見下ろすこの月と星だけではない。今の俺には、彼の存在を
感じることが出来る。俺を待ち受ける、その殺した息遣いを聞き取ることができる。
今度はあの時のような醜態をさらすつもりはない。寒さから手を庇ったジャンパーのポケットの中で、俺は密かに拳を固める。
今と昨日では状況が違う。俺の目を眩ますあの雨の音はなく、おそらくは彼の目を眩ますこの闇の中にあって俺は自由だ。
それに今度は尾けられているのではない。彼は俺を待っているのだ。この寒い夜の一本道の、数十メートル先の曲がり角で。
俺は意を決して歩を速める。彼が、或いは彼女が、何者なのかは知らない。その目的も解らない。ひょっとしたら、
危険な人物なのかも知れない。だがそれでも、俺にとって彼は唯一の希望だ。加嶋 霧子を追い求める俺に、
昨日邑上はゲームオーバーだと告げた。俺にはもう彼女を追いかける手段は無い、と。しかし、今俺を待ち受ける人物は、
それが例えどのような人物であれ、きっとあの少女と関係があるのだ。ならば彼の来訪は、終わりを告げられたこのゲームに
最後に残されたコンティニューのチャンスなのだ。
蒼月を背負って夜道を歩く。一歩一歩、危険なその最後の希望に近づく。ぺたりぺたりと、俺の足元から俺自身の足音が響き、
高まった心臓の鼓動とのシンフォニーとなって濃密な夜の空気に響く。ぺたり、ぺたり、一歩近づく毎に彼の人物の気配は
強まる。噛み殺した呼吸音、苛立たしげな気配、煙草の臭い。それでも彼は、逃げずにこの寒空の下で俺を待っている。
後数メートル、その角を曲がれば彼は俺にその姿を現す…
最後の一呼吸、その味を噛み締めてから俺はその角を曲がった。
電柱の影で、何かが動く気配がした。
「あんた、あそこに居たよな?」
男の声がした。
電柱に影で俺を待っていた人物は男性だった。最悪、いきなり襲いかかってくることを内心覚悟していたのだが、
どうやらそういうつもりは無いらしい。俺は幾分肩の力を抜き、その男を観察することにした。
まだ若い男、だと思う。それでも俺よりは年上だろうが、三十路には届いていないだろう。もっとも、声からだけの
判断なのであまりあてにはならないのだが。
彼の貌は俺には視えない。俺にとって多くの人間がそうであるように、認識することの出来ない貌無しだった。
つまり事故以前に会ったことがない人物だということだ。もっとも顔の造詣が認識できないということは、あえてそれを
認識しようとするまで気にならないのだが。顔が視えないにも関わらず、それを気にするまで気にならないというのは、
考えてみれば何とも良い加減な話だ。
「何黙っているんだよ。あんた、あのマンションの前に居たんだろう?あいつのこと、知ってるのか?」
沈黙する俺に男は苛立っているようだが、俺は構わずその男を見極める。服装は顔と同じく判別出来ない。ただ、
この暗闇の中ではそれは俺でなくとも同じことだろうけれど。体格は中肉中背と言うにはやや大きくて筋肉質なような気がする。
体育会系といったところだろうか、だがあまりスポーツマンらしい爽やかさは感じない。これも声と気配からだけのあてに
ならない推測だが。
声。そこまでこの男を観察してから、間抜けにも俺は漸くその男の声に聞き覚えがあることに気が付いた。
聞きなれた声ではないが、ついさっき聞いたばかりの声だから覚えている。その時はもっと大声で、今のように
声を潜めていなかったから印象が違っていて判らなかったのだ。
この声の主の名はなんと言ったか。赤井 雪江が教えてくれた筈だ。確か…
「須藤 寛一」
「何で俺の名前を知っているんだよ。雪江にでも聞いたのか?」
その男、須藤 寛一が幽かに震える声で俺にそう問いただした。寒さの為だろうか。ならば無理もないだろう。
こんな寒空の下、随分長い間俺が通りかかるのを此処で待っていたのだろう。辺りに充満する煙草の臭いは寒さに
耐える為に彼が吐き出したものなのだろう、邑上の吸うものよりもずっと重い、絡みつくように濃密な紫煙の臭い。
その臭いが外気にさえ残る程の長い間、彼は独り此処にいたのだ。
「おい、あんた、何とか言えよ」
無言の俺に圧力を感じたのか、それともこんな寒い場所にはあと一秒たりとも居られないとでも言うかのように、
須藤 寛一は苛立ちを増した声で再度俺に問いただす。
「雪江さんには訳あってちょっとした調べ物を手伝ってもらっているだけだよ。別に、たいした知り合いという訳でもない」
俺はぶっきらぼうにそう返した。そんな長い間此処で俺を待っていてくれた彼には悪いが、彼の出現は俺にとっては
期待外れこの上なかったからだ。
俺が期待していたのは加嶋 霧子に繋がる存在だ。少しでも彼女を探す手がかりを持っているのであれば、
それが貌の無い追跡者でも、視えない殺人鬼であったとしても構わないと思っていた。そうであったなら、
俺は再び彼女を探し続けることが出来た。例え現れたその何者かの手によって俺が殺されることになったとしても、
それまでの僅かな時間を俺は彼女を追い求める為に費やす機会を得ることが出来た筈だった。
だが、今俺の目の前に現れたのは赤井 雪江の恋人だ。大方、俺と彼女が親しく話しているのを目にして関係を
邪推したのだろう、或いは彼女から俺のことを聞いていたのかも知れないが、いずれにしろこの男が加嶋 霧子に
繋がる存在だとは思えない。俺は落胆した。
「探し物ねえ。それがあのマンションに在るとでも言うのかよ。あの、もう誰も住んでいない廃マンションに」
俺が口を開いたことで落ち着きを取り戻したのか、須藤 寛一の声は幾分柔らかくなった。それでも詰問口調であることには
変わりないが。それも無理もないことか。自らの恋人の前に一面識も無かった男が突然現れて、探しものを
手伝ってもらっているなどと妖しいことを言っているのだ。赤井 雪江の方にしてもおそらくは独自で加嶋 霧子の
調査をしているだろうし、それも彼女の恋人にとっては怪しい行動として映るだろう。しかも、たまたま出逢ったのが深夜で、
それも人気の無いあの場所で、だ。この男が特に嫉妬深い性質でなくとも、関係を詮索したくもなるというものか。
「あそこに在ったんだ、探し物。今はもう無くなってしまったみたいだけれど」
本来ならばこの男に同情して誤解を解いてやるべきところだろう。粗野な雰囲気があって好きにはなれない男ではあるが、
この男は俺の我侭と赤井 雪江の執心のささやかな被害者だ。彼女を殴ったとはいえ、それは所詮彼らの問題。
そのことに義憤を抱く程、俺は赤井 雪江と親しい間柄という訳でもない。だと言うのに、俺の言葉はぶっきらぼうなままだ。
来訪者が期待外れの人物だった落胆を、俺はその来訪者である彼にぶつけているのだろうか。
「あんな人も寄り付かないような幽霊マンションにかよ。あんた、幽霊でも探しているのか」
「…そうかもね」
それが解っていても、俺の言葉はぞんざいになってしまう。
俺のその言葉に、須藤 寛一は眉を吊り上げた。いかにも適当な俺の返答に気分を害したのか、それとも別の理由か、
一瞬身構えた彼に俺は流石に自らの返答を後悔しかけたが、須藤 寛一は殴りかかってくるということはせず、
逆によろめく様にして一歩分俺から距離を取った。
考え込むような少しの沈黙があり、その後須藤 寛一は居住まいを正して俺に言い放った。
「…あの場所には近づくな」
その口から発せられた言葉が、蒼い月が見守るこの夜の空気に、静かに、しかし確かなものとして響いた。
その音には先程までの彼の言葉にあった詮索するような曖昧さも、俺の言葉にきっと含まれていただろう膿んだ疲れと
諦観も無く、代わりに強固な意志の響きと強さがあった。今度はそれに俺が気圧される。
「俺と雪江さんはあんたが詮索するような仲じゃないよ。それに、あの場所は…」
「あのマンションには金輪際近づくな。雪江にもだ」
俺の言葉を遮って、須藤 寛一が再度口を開く。それはいわれのない命令であると同時に、やはりいわれのない
懇願であるように俺には思えた。
真意の読めない俺は沈黙するしかない。
彼は何故あの場所に、あの幽霊マンションに拘るのだろうか。赤井 雪江に近づくなと言うのは解る。自分の恋人の周りに、
見も知らぬ男がうろつくのは誰だって不快だろう。だが、今夜俺と彼女が出逢ったのは本当に偶然で、
それがあの場所だったのもまた然り。それは彼にも解っている筈だし、そうでなくともあの場所そのものに拘る理由など
何も無い筈だ。にも関わらず、須藤 寛一はマンションに近づくなと言った。雪江の名を出すよりも先に、だ。
それはまるで、彼こそがあの廃マンションを恐れているようですらある。それとも彼の言う幽霊を、俺よりも先に
見つけ出そうとでもしているのか。あの、不穏な噂の渦巻く幽霊マンションで。
「それは約束出来ない」
彼の真意は分からない。だが、それが何処にあるにしろ、俺はそう答えるしかなかった。もう何も無いと解ってしまった
あの場所に、それでも俺は未練があるのか。其処にはもはや理屈らしきものは何も無く、誰の、俺自身の言葉すらももう
其処には届かない。ひょっとしたら俺こそが、この妄執によってあの場所に縛られた幽霊なのかも知れない。あの日、
あの赤と黒に塗り潰されたあの日、本当に死んでしまったのは彼女ではなく俺の方で、今此処にいる俺こそがそれに
気付かずあの幽霊マンションを彷徨っている幽霊なのかも知れない。その妄想は口に出すのも馬鹿馬鹿しく、
それでいて何処か奇妙な説得力があって、俺は場違いとは思いながらも唇の端が自然と吊り上るのを止めることが
出来なかった。
「…ち」
そんな俺の笑みをどのように解釈したのか、もう一人の幽霊、須藤 寛一が面白くなさそうに舌打ちをした。拳を固め、
俺の方に向かって歩き出す。一瞬俺は身構えたが、彼はそのまま俺の横を通り過ぎ、幽霊マンションへと向かう夜道を
歩いていった。夜風の寒さに凍りついたように、そのまま俺は背中で彼を見送った。
あの幽霊マンションの手前から始まった奇妙で奇怪な真夜中の影絵劇は、どうやらこれで幕らしい。
俺も今日は少々疲れたし、今夜はこれ以上何も無いことを祈るばかりだ。
-お前、本当にあいつのことを知らないのか?-
だというのに、すれ違いざま須藤 寛一が呟いた不可解な言葉は、ジャンパーにべったりと貼り付いて俺を休ませては
くれなかった。その気色の悪い感触から逃れるように、俺はまた早足で歩き出す。夜風がそれを洗い流してくれることを
祈ったが、しかしそれはジャンパーに染み込んで俺の心臓に少しずつ迫って来る。全く、何故俺の周りにはこうも回りくどい
物言いをする奴らばかりなのだろうか。
星明りを頼りに帰路を歩む。
須藤 寛一は、もしかしたら場違いな来訪者などではなかったのかも知れない。俺は今更ながらに、彼と出遭った時の
自らのぞんざいな態度を後悔したが、それもお馴染みの、後の祭りというものだ。今更彼の後を追ったところで、
かける言葉など何も無い。一体俺は後何回、こんなことを繰り返せば良いのか。
見上げた夜空には蒼月。相変わらず、知らん顔で俺を見下ろしている。
でも今夜のこの月だけが、きっと全てを見ていたのだ。
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