ⅩⅤ   影絵の夜



 酷い夢を見ていたような気がする。うなされて目が覚めた。

 どうやらまた、着替えもせずに眠ってしまったらしい。部屋の中は既に薄暗い。今は何時頃だろうか。
 あの後、俺達は無言で空っぽの部屋を後にした。まだ調べていない他の部屋の扉を調べてみる気力は無かった。
-後はもう、お前があの日のことを思い出す他に方法は無いよ-
 別れ際、邑上はそう言っていた。だが、いくら思い出そうとしても、零れ墜ちた記憶を拾い集めることは出来なかった。
俺の手の中に残るはただ一欠片、あの日あの廃マンションの広場で出逢った、美しい赤と黒の幻視のみ。
 俺は溜め息を吐いた。あの開かずの部屋の扉は、やはり開けるべきではなかったのかも知れない。
箱は閉じられているが故に価値を持つ。幻想も、幻想のままにしておくべきだったのかも知れない。
だが、いくら後悔してみても既に開かれてしまった箱を閉じることは出来ない。あの部屋も同じ、中身を知ることがないからこそ、
其処に希望が残されていると信じることが出来るパンドラの箱だ。
 憂鬱(ゆううつ)になりつつある思考を逸らすべく、俺は定位置にあるテレビのリモコンを拾ってスイッチを押した。
テレビのスピーカーから騒がしい誰かの会話が流れ出て、部屋の薄い壁を震わす。テレビの画面が映すのは砂嵐。
事故に遭ってから、テレビの画面に何かが映った試しはない。流れて行くという流行を何よりも重視するテレビのプログラムの
情報の早さを、新しいものを捕らえることを止めてしまった俺の目では追いかけることが出来なくなってしまったからだ。
 そんな役立たずのテレビでもラジオの代わりにはなるし、時計の代わりにもなる。聞き覚えのある曲とお決まりのフレーズが
耳に聞こえた。この番組が終わる時間ということは、多分午後10時か11時といった辺りだろう。廃マンションを出たのが
4時頃だったから、随分長い間眠っていたことになる。
 時間の経過を知ると、急に俺は空腹を覚えた。現金な胃袋は、こんな状態でもしっかりと自分の仕事をするつもりらしい。
誰かの歌ではないが、夢やら記憶やらというものでは腹は満たされない。そういった類のものは、結局日々の糧を得ることに
比べれば大したものではないのかも知れない。
 自分に言い訳をするのも馬鹿馬鹿しくなって、俺は立ち上がった。こんな時間では何処の飯屋も開いていないだろうし、
面倒だが何か作ろう。部屋の明かりも灯けずに、俺は調理場に立った。当たり前なことだが、自炊をすることなど久しぶりだ。
事故に遭う前に一時期料理にこったことがあって、料理の腕は自慢する程ではないにしろそこそこの自信があった。
腕が錆付いていなければ良いのだが。
 調理場に立ち、まずは調理器具を確認する。とは言っても、一人暮らしの男の使う調理器具などたかが知れている。
包丁とまな板、後はざるとさえ箸とお玉だけ。それで十分だ。定位置にある筈のそれらを用意しようとして伸ばした指に、
ふいに鋭い痛みが走った。咄嗟にくわえた指から血の味がする。視ると、先程まで何も無かった筈の空間に
血のついた包丁があった。どうやらこれで指を切ったらしい。
 包丁は忽然と現れた。俺は指をくわえたまま、この怪異について納得出来る理由を探す。おそらく、俺の入院中に
母か誰かが使ったのだろう。出しっぱなしとは几帳面な我が母らしくもないが、たまにこういうミスをやらかす人でもあるから、
多分そういうことなのだろう。
 改めて、調理場を見渡す。包丁はステンレスのシンクの上、他の調理器具はいつも俺が置いておいた定位置にあるように
視える。しかし、それは俺が最後にそれを見たときの記憶に過ぎない。一度俺以外の誰かが使ったのだとしたら、
本当にそれらがその位置にある保障は無い。試しにフックにかかっているお玉に触れてみる。確かに其処にはお玉があったが、
しかし俺の視た状態とは違って、おたまは裏返しでフックに掛かっていた。それを確かめた瞬間、まるで間違っていたことを
恥じるように、俺の目に映るお玉は一瞬で本来在るべき姿を取り戻す。魔法とまでは言わないまでも、まるで手品のようだ。
 俺はまた溜め息を吐く。これでは危なっかしくて料理など出来たものではない。一度俺の手で整理するまで、
下手に触れない方が良いだろう。
 仕方なく、俺は冷蔵庫を開けて何かそのまま口に出来そうな食材を探す。とは言え、調理場でさえこの有様だ。冬とはいえ、
冷蔵庫の中が俺の事故前と同じ配置のままになっている筈もないし、もしそうなのだとしたらそんなものは尚更口にしたくは
ない。案の定、冷蔵庫の中は未知の世界だった。俺は手探りで何か食べられそうなものを探す。と、手の平に収まるくらいの
タッパーが手に触れた。
 言わずもがな、タッパーはたいてい既に完成した料理を入れておくものだ。俺はあまり使った試しは無いから、
母が来て何か作っていったのかも知れない。だとしたら、きっと保存の利くものだろう。振ってみるとからからと
軽い乾いた音がしたから、炒り豆か乾き菓子の類だろうか。
 何気なくそれを口にした俺は、それが何か判る前に吐き出してしまった。別に腐っていた訳ではない。ごく普通の、
まっとうな食べ物だ。しかし、俺の冷蔵庫の中にある筈のものではなかった。
 干し葡萄(レーズン)。
 俺は好き嫌いが多い方ではないが、干し葡萄はその例外だった。葡萄に限定されたものではなく、砂糖菓子や
干した果物などの脳を刺すような甘さが苦手だったのだ。洋菓子のように、甘さを牛乳や油で包んだものなら
美味いしく頂けるのだが…
 問題はそれを口にしてしまったことではない。干し葡萄も、そうと分かってさえいれば飲み下すことも出来る。問題なのは、
そんなものが何故俺の冷蔵庫の中に、それもタッパーに入ってあったのかということだ。
 勿論俺が買った筈はない。自分の嫌いなものを、わざわざ金を払ってまで買う奴はいないだろう。それに、
タッパーに入っていたということは食べかけであるということだ。保存の利く乾燥果物などは、余程の高級品でもない限り
普通は袋に入れられて店頭に並んでいるものだろう。ならば、母が買ったのだろうか。今は彼方に住む我が母君は、
当然俺の好き嫌いを熟知している筈だ。干し葡萄が嫌いになったのは別に最近という訳ではないのだ。
俺の入院中に母が見舞いに来たことは当然あったし、その際ここに泊まったことも何度かあった筈だから、
彼女が自分の為に買って食べ、そのまま忘れてしまったということだろうか。それが一番ありそうなことだが、
母にしても別段干し葡萄が好物ということはなかった筈だ。まあ、特に嫌ってはいなかったとは思うが。
 位置の変わった調理器具に、有る筈のない食材。別のどうということはない筈だ。だが、奥歯にものが挟まって
取れないような奇妙な違和感はあった。
-だから俺は別にお前を尾行なんかしてないって-
 一昨日の邑上の言葉が蘇る。
-お前の尾行に気付いたのだって、電車を降りてからだったしな-
 俺がそう言ったとき、邑上は確かに一瞬怪訝そうな表情を浮かべた。そう、邑上の言葉に嘘が無いとしたら、
あの日邑上が俺を見つけたのは、俺がこの部屋のある駅に降りてからのことだろう。電車の中や、或いはあの街で
俺を見かけたのなら、声くらいかけてくるだろう。知人を見つけて声もかけず、かつ気付かれないように同じ帰路を取ったのなら、
それはやはり尾行だ。あの邑上だから断言は出来ないが、流石に二十歳を数えた大の男がそんな子供っぽい悪戯をしたとは
思いたくないし、それを最後まで黙っていたなどということは考えたくもない。
 あの日、邑上と俺が出会ったのは電車を降りてから。雨が降り出し、その中を必死に走っていた俺を追いかけて来た
その足音の主は邑上だろう。

 ではあの街で、そしてあの電車の中で、俺を尾行していたのは誰だ?

 寒気がする。暖房も効いていない真冬の部屋の中にあっては、この寒気はむしろ当たり前だろう。でも、寒気のする理由は
それだけではない。
 実を言うと、俺はそのことに以前から気付いていた。俺を尾行していたのは邑上ではない。だというのに、俺は今まで
そのことを考えないようにしていた。考えてしまえば、不安に押し潰されてしまうからだ。趣味の悪い悪友のせいにしておけば、
ひとまずは平穏を取り戻せる。この先、また同じことがあるとは限らないじゃないか。そのまま忘れてしまった方が良かったのだ。
 だが俺は思い出してしまった。位置の変わった調理器具と、在る筈のない食材。俺のいない間に、誰かが俺の部屋に
侵入していたとでもいうのだろうか。
 そんなことはあり得ない。あったとして、何も盗らずにこんな真似をする理由はない。嫌がらせにしても、常人なら
気付かないような些細なことだ。そんなことをする意味はない。ない筈なのだが…
 俺は薄暗い部屋の中を見渡した。昏さは、今の俺にとっては敵ではない。しかし、俺の居ない間に誰かがこの部屋に入り、
そして何かをしたというのであれば問題だ。俺は俺の知る場所にあるものしか視ることは出来ない。
在る場所が分からないのであれば、それは闇の中にいることと同じだ。いや、在る筈のないものが視えてしまうという点で、
より一層性質が悪い。
 テレビのリモコンは確かに定位置にあった。定位置といっても床の上で、俺以外の人間には適当に置いたようにしか
見えない位置だ。そしてそれは、この部屋では何をするにしても邪魔になる位置だと思う。それは寸分たりとも動いては
いなかった。だから、俺の居ない間にこの部屋に誰かが入ったということはない筈だ。ない筈なのだ。
 俺はもう一度部屋を見渡す。部屋中に満たされた暗闇は、心なしかその色を濃くしたように視える。
俺の不安が反映されているのだろうか。
 いずれにしろ、気持ちの悪い話だ。俺はお気に入りのジャンパーを羽織った。
 今は此処に居たくなかったのだ。夜風を浴びながら散歩でもすれば、この気分も晴れるだろう。
 財布と携帯をズボンのポケットに押し込み、俺は部屋を出た。昼間の抜けるような青空のせいだろうか、外の空気は冷たく、
俺はまた身を震わせた。



 蒼い月に向かって歩く。目的地など無い。近場を一周して帰るつもりだった。それとも、何処かのコンビニでビールでも
買って帰ろうか。
 冬の夜はやはり肌寒く、吐く息は白く空に散る。散歩をするなら夏の方が良いのだろう。しかし、中空に輝く月の美しさは、
冬の澄んだ空気を通してしか視ることは出来ない。
 都会とは言い難いこの街では、夜の明かりは月と星だけ。その美しさを競うように、星達もまた白く瞬いている。
それはまるで、夜空に針を通して開けた穴のようだった。ならば月もまた、ぽっかりと口を開けた夜空の落とし穴だろう。
だとしたら、天井の世界はなんと蒼く、美しい世界なのだろうか。人間の知恵が作り出した白々しい光では、
星を通して下界に洩れるその一筋にも敵いはしない。
 いや、その一筋でさえ、俺が視ているのはただの幻か。所詮は過去の記憶に過ぎないのだ。だとしたら、今夜のこの月は
何時見た月だろうか。俺の世界を映し出す月は、いったい後いくつ存在しているのだろうか。
 俺は月に向かって歩いていた。自然と足があの場所を目指している。月は人を狂わせるという。ならば、今夜のこの月が
俺を狂わせているのだろうか。月の重力は、真にその姿を目に映すことが出来ない俺にも影響を与えているのだろうか。
 惹かれるように、俺はあの場所を目指していた。何も無いと解っているあの場所を。

 何処かで、人の言い争う声が聞こえた。



 聞き覚えのある声だった。聞き覚えのない声も混じっていた。急ぐのでもなく、さりとて歩を緩める訳でもなく、
速度を変えぬまま俺はその場所を目指す。
 幽霊マンションに程近い裏通り、夜に人影などあろう筈もないその場所に、二つの影絵が踊っていた。
聞き覚えのない大きな声を放つ影は激しく、もう一つの影は弁明するように、しかし小さな声でそれに応える。しばしして、
大きな声の影は肩を竦めるような動作を最後にその舞台から降りて行った。取り残された影は、思い悩むようにその場所に
佇む。俺の接近に気付いた様子はない。十数歩の距離を歩み、俺もまた影絵の舞台へと上がる。
「雪江さん」
 その影、赤井 雪江がゆっくりと俺の方を振り向いた。
「卯波さん?」
 蒼い月の照らす夜、俺は彼女に出逢った。



「こんばんは、雪江さん」
「こんばんは、卯波さん。月の綺麗な良い夜ですね」
 俺の簡単な挨拶に、赤井 雪江は洒落た言葉を混ぜた挨拶で応えてくれた。そういえば、彼女と二人きりで逢うのは初めてだ。
いや、そもそも顔を合わせるのがこれで二度目なのか。何故か俺はもう何度も彼女に逢っているような錯覚を覚えていた。
「こんな遅くにこんな場所で何をしているんですか?誰かと一緒におられたようでしたが」
 詰問口調になってしまっただろうか。そんなつもりも無いのだが。俺は彼女に問いかける。赤井 雪江が何故この場所に
居るのだろうか。この場所を知っていたのか。深雪が話したのだろうか。蒼い月に染められた今夜のこの魔城では、
赤い月の名を持つ彼女の存在は何処か浮いていて、不似合いな気がしたのだ。
「卯波さんこそ、どうしたのですか?」
「俺は散歩です。俺の住んでいる部屋はこの近くにあるんですよ」
 言葉が鋭くならないように気をつけながら、俺は彼女の疑問に答える。考えてみれば、こんな夜中に
こんな場所を訪れた俺は誰の目から見ても不審者だろう。彼女からも、そう見えたに違いない。
「此処に霧子ちゃんが居たんですね。卯波さんが霧子ちゃんを見た場所も此処なのでしょう?」
 少し疲れた顔に微笑を浮かべて、彼女が俺に問いかける。少し拗ねたような口調だ。つまり彼女は、そのことを今まで
知らなかったのだろう。深雪はこの場所については彼女に話さなかったようだ。
「ええ、そうです。貴女には伝えそびれていましたね。申し訳ありません。
 でも、何故雪江さんがそのことを知っているのですか?」
 再度俺は問いかける。加嶋 霧子との関係といい、どうにも彼女は何かを隠しているような気がするのだ。
もっともそれはお互い様だし、彼女の心情と立場上、本来部外者である俺達には話し難いだけなのかも知れないが。
「昨日、クラスの女の子が噂話をしているのを聞いたんです。此処で霧子ちゃんを見た人がいるっている噂を。
あれは卯波さんのことですよね?」
 そんなことを言われて、俺は言葉に詰まった。今俺はどんな顔をしているのだろうか。内心の動揺を隠しきれているだろうか。
 噂話の火元は容易に想像がついた。一昨日のチャットだろう。あの電子会議の参加者の多くはこの学校の生徒だったし、
そのうちの二人は赤井 雪江が副担任を勤めるクラスの生徒だ。俺が苦し紛れにキーボードに打ち込んだ言葉は、
こんなにも早く彼女の元に届いてしまったのだ。俺は少し後悔したが、今更なことだ。それに、遅かれ早かれ彼女に
言わなければいけないことでもあっただろう。
「済みません…」
 それでもなお足掻くように、俺は肯定とも否定ともとれる曖昧な返事で彼女に応えた。
「良いんですよ」
 くすりと小さく笑って、彼女はそう言った。そのまま幽霊マンションに向かってゆっくりと歩き出す。俺もその横に並んだ。
彼女の歩幅は狭く、それに合わせるよう俺も歩みを緩める。他人に合わせて歩くというのは、思いの他難しいことだった。
 角を曲がる。振り仰ぐと、彼の幽霊マンションは今夜も其処に在った。蒼い月の光を浴びて、巨大な幽鬼のように
俺達を迎え入れる。その姿は悲しみを湛えているということはなく、かといって嬉しそうということもなく、ただ今夜彼女が
此処を訪れることを知っていたかのように、無言で俺達を見下ろしていた。
「此処に霧子ちゃんが居たんですね」
 赤井 雪江が再びそう呟く。その言葉と共に吐き出された白い吐息が、幽霊マンションを包む虚空に吸い込まれて消えた。
 幽霊マンションを見上げる赤井 雪江の横顔を見詰めていると、ふとそれが翳(かげ)っているように視えた。そういえば、
深雪が言うには彼女は殴られた痕を化粧で誤魔化しているらしい。その傷を付けた相手は彼女の恋人だという。
先程言い争っていた男だろうか。しかし、いくら彼女の横顔を睨んでみても、俺にはその痕は視えない。
「どうしました?」
 見詰めている俺に気が付いて、赤井 雪江がこちらを振り向いた。
「ああ、いや。さっきの人、誰かなと思って」
 慌てて俺が誤魔化すと、赤井 雪江は自らの頬に手を当てて何かを隠すような仕草をした。
「私の…彼です。名前は須藤 寛一(すどう かんいち)」
 自らの恋人の名を口にした彼女は、しかし華やいではいなかった。むしろ、何か辛いことに耐えているようにさえ視える。
彼女が頬に当てた手を退けると、其処にうっすらと赤い痕が現れた。やはりその須藤 寛一という男に付けられた
痕なのだろうか。
「その痕…」
 痕は視えても、赤井 雪江の顔の造形自体は俺には捕らえることは出来ない。赤井 雪江は再び頬に手を当て、それを隠す。
「ああ、いや。その、済みません」
 顔についた痕を指摘されて良い思いをする女性はいないだろう。俺はまた慌てて謝った。今夜はなんだか謝ってばかりだ。
「…深雪ちゃんは何か言っていたかしら。」
 伏目がちにして彼女が俺に問う。
「ええ、まあ。あまりその人のことを良く思ってはいないみたいですね」
 深雪が須藤という男のことを悪く言っていたことをその恋人に伝えてしまって良かっただろうか。別に口止めを
されていた訳ではないが、少し軽率だったかも知れない。
「そうですか」
 赤井 雪江は特に気にした風もなく、それでいて考え込むように呟いた。
「深雪ちゃんは誤解しているわ。彼はそんなに悪い人ではないんです。ただその日はたまたま喧嘩して、たまたま彼の手が
私の顔に当たってしまっただけ。喧嘩の原因もきっと私の方にあるんです」
 赤井 雪江が彼女の恋人を庇って言ったが、俺にはその言葉を信用することが出来なかった。
自虐的なところのある彼女のこと、何かあったとしても自分に非があると思い込んでしまうことは十分考えられる。
まして相手は自らの恋人だ。そうでも思わない限り、恋人関係を持続することは難しいだろう。それとも、恋人であり続ける為に
無理にそう思い込んでいるのか。須藤 寛一という男の人となりについては、彼女よりも深雪の鑑定眼の方が
信頼出来るような気がする。
「さっき、何か誰かと言い争っていたようですけれど。彼が須藤さんですか?」
 俺は問う。別に深入りする必要はないのかも知れない。いや、他人の恋路だ。しかも俺と彼女の繋がりなど薄いものなのだ。
むしろ口を出すべきことではないだろう。そんなことは解っているつもりなのに、俺は言葉を重ねてしまう。
此処が彼の幽霊マンションだからだろうか。何も無いと解っているこの場所で、俺はまだ何かを探したいと願っているのだろうか。
それとも、今夜のこの月のせいだろうか。
「見てらしたのですね。恥ずかしいところをお見せしてしまいましたわ」
 その男が消えていった方角を向いて、彼女が言う。釣られて俺もその方角に視線を移した。そういえば、こっちは
俺の部屋の方角だ。駅とは逆方向の筈だが、彼は帰ったのではないのだろうか。
「でも、それも私が悪いんです。デートの途中でこんな気味の悪い所に連れて来られたら、男の人だって良い気分は
しませんよね」
 成程、そういうことだったのか。確かに彼女の言う通り、余程の理由があるのでない限り、こんな場所を観光したいなどと
思う人間はいないだろう。デートの最中だったのだとしたら尚更だ。彼女は何故こんな場所まで彼を連れて来たのだろうか。
「クラスの女の子から此処の噂を聞いて、どうしても来てみたいと思っていたんです。でも、時間が無くて。今夜は彼も
なかなか帰ってくれませんでしたし、だから一緒に来てしまったんです。でも、やっぱり失敗でした」
 それはそうだろうと思う。その余程の理由を持っているのは世界でも俺と彼女くらいのものだろう。
でも、それは言い争うようなことかと問われると、そんなことはないような気もする。いずれにしろ、
俺はその須藤 寛一という男のことは全く知らない訳で、彼がどのように考え、何故そこまで怒るのかなど知る由もない。
 沈黙が訪れた。赤井 雪江はまた黙ったままで幽霊マンションを見上げていた。
「卯波さんはこのマンションの中に入ったことはあるのですか?」
 何となく俺がかける言葉を探していると、彼女の方からそう俺に振ってきた。俺と彼女の共通の話題など、
探すまでもなく加嶋 霧子のこと以外には無い。俺は黙ったまま頷いた。
「そうですか。では、霧子ちゃんはもう此処には居ないのですね」
 その言葉は俺に向けられたものなのだろうか。それとも彼女自身に言い聞かせた言葉なのだろうか。
それを口にしたときの彼女の顔は、やはり辛そうだった。もう少し早く此処を訪れていたなら加嶋 霧子を保護することが出来た、
それが出来なかった自分を責めているのだろうか。それは俺にとっても同じことなのかも知れない。
 いや、違う。俺が加嶋 霧子と出遭ったのは、もうどうしようもなく手遅れになってからなのだから。
 そう、加嶋 霧子はこの世にはもう居ない。俺があの日に此処で視た彼女は、間違いなくこの世を去った後の彼女だった。
どれほど心を砕いても、赤井 雪江が彼女と出逢うことはもう無いのだ。それを思うと胸が痛んだ。
「霧子ちゃんは無事でしょうか?」
 そんな俺の心を見透かしたかのように、赤井 雪江がそう呟いた。俺は一瞬、真実を告げようかどうか迷った。
俺があの日此処で視たありのままを彼女に伝えたら、彼女は加嶋 霧子から解放されるのだろうか。悲しい現実を受け入れ、
また日常を取り戻すことが出来るのだろうか。もしそうなら、俺は疑われても、恨まれることになっても構わない。
「…きっと無事ですよ」
 しかし、俺の口から出たのはそんな言葉だった。俺を引き止めたのは臆病風ではなく、俺自身が開いてしまった
あのパンドラの箱だった。俺はあの開かずの部屋に入ったことを心の何処かで後悔している。
きっと、幻想は幻想のままにしておくべきだったのだ。そうすれば、人は永遠に夢を見続けることが出来る。
今はそれが彼女を苛んでいるのだとしても、それは彼女の世界には必要なものなのかも知れない。
例え重力との狭間に押し潰されようと、地面を必要としない人間などいないように。
それを彼女から奪う権利は、きっと誰にも無い。
「もうすぐ終電が来ますよ。駅まで送ります」
 赤井 雪江の言葉を待たず、俺は彼女を促す。もう夜も遅い。何時までも此処に居る訳にもいかないだろう。
「ありがとうございます。でも、私はもう少しだけ此処に居ることにします」
 赤井 雪江は、やはり振り向かずに俺の申し出を断った。俺はどうしようか迷う。そもそも俺は何故此処にいるのだったか。
夜中に空腹を覚え、何か食べるものでも探しに来たのではなかったか。だとしたら、とんだ道草になったものだ。
それもきっと、今夜のこの月のせいだ。
「それでは俺は先に失礼することにします。赤井さんもお気をつけて」
 彼女を独り此処に置いて行くのは気が引けたが、もしかすると俺は彼女の邪魔をしているのかも知れない。そもそも、
彼女は独りで此処に来るつもりだったようではあるし、彼女は子供ではないのだ。此処から駅まで然程歩く訳でもなく、
危険な道程ということもないだろう。
 赤井 雪江は俺に応えず、また黙ったまま幽霊マンションを見上げていた。俺は彼女の応えをまたず、
そのまま背を向けて歩き出す。
「卯波さん」
 角を曲がる直前、赤井 雪江が振り向いて俺の名を呼んだ。
「はい?」
「あの、今日はどうもありがとうございました」
 彼女が俺に礼を言う。別に礼を言われるようなことをしたつもりは無いのだが、俺はその言葉を貰っておくことにした。
軽くを手を挙げて踵を返す。さあ、部屋に戻ってあの酷い夢の続きでも見ることにしよう。



 別れ際、赤井 雪江は笑ったように視えた。しかし、その笑顔が俺に届くことは無かった。



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