Ⅹ   雨の日の追跡者



 それは何時の頃からだったのだろうか。デパートを後にした時からだろうか。俺にしては珍しく長々と買い物に時間を
費やしていた時か、それともあのレストランを出た時にそれはもう始まっていたのか。或いは病院を出た時、
それは既に俺の傍に在ったのか。
 今俺が感じている焦燥感は、先程まで感じていた空腹感や疲労感に近いものだ。自分で気付くまで、意識の表面に
浮かぶことはない。しかし一度気付いてしまえば、ずっと前から自分がそうだったことを思い出し、今度は意識せずには
いられなくなる。まるで自分の記憶を後から別の何者かにすり替えられたような、奇妙な感覚。
 ぺたり。
 ぺたり。
 雑踏の網は改札と一緒に抜けた筈だ。勿論人通りは此処でもまばらにはあるものの、あの大きな街を隙間無く満たす
心音のような雑踏と今のこれは比べるべくもない。だというのに、俺はあの雑踏の網から未だに抜け出せないでいた。
潜り抜けた拍子に網に仕掛けられた針に引っかかり、そのまま網を引き摺って此処まで来てしまったような不快感。
 ぺたり。
 ぺたり…

 尾けられている。多分、間違いない。
 雲行きはいよいよ怪しく、見上げた空は今にも泣き出しそうな表情で俺を見下ろしていた。



 そもそも俺は、誰かに後を尾けられなければいけないような人生を送って来たつもりは毛頭ない。状況が状況でなければ、
無理やり無視を決め込んで気にしなかっただろう。しかし今の俺には丸一日分の記憶の欠落がある。しかも、俺はその時に
彼女を目にしているのだ。排気ガスでくすんだ白い壁に囲まれたあの陰気な空間を、花を添えるように彩っていた赤と黒の
非日常。おそらくは、その直前まで生きていたであろうあの少女、加嶋 霧子の美しい…亡骸。
-その少女を殺したのはお前かも知れないんだぜ-
 親友の言葉が脳裏に木霊する。しかし今の俺には、その不吉な言葉を否定することが出来なかった。
 俺がこの世に生を受け、今に至るまでの20年間に培ってきた倫理観。ただ欲望のままに法を犯し、社会という強大な何かを
敵に回すことの愚かさを理解する論理性。いや、もっともっと単純な、人を殺すということそのものに対する、
幼稚でありながらもきっと何よりも正しい筈の嫌悪感。それを支えてくれていた筈の正義感。
 俺の記憶に無いあの日も、それらは俺を守ってくれていただろうか?
 今となってはもうそれを信じることは出来ない。いや、誰にも断言することなど出来ない筈だ。あの、横たわったまま
おそらくは二度と立ち上がることは出来ない少女を、一瞬でも美しいと思ってしまった人間には。
 ぺたり。
 ぺたり。
 背中に冷たいものが流れ落ちる。だとするなら、俺はきっと殺されても文句を言うことなど出来ない人間なのだ。
同時にそれは誰にも助けを求めることが出来ないことを意味する。
 ぺたり。
 ぺたり。
 振り返ることはしない。いや、出来ない。
 いっそ気のせいだと思い込んでしまおうか。今日は久しぶりに人ごみの中を歩き回ったから、疲れて気がたっているだけだと
決め付けてしまおうか。
 …解っている。そんなことは不可能だ。俺は常人より耳が良い。それは事故に遭う前からもそうだったが、事故に
遭ってからはよりいっそう際立ってきているような気がする。今では空間を飛び回る音の軌跡がまるで視えるように
感じることがある程だ。
 だから俺には、小さな音の違いというのも良く聞き取れる。近しい人間ならば、足音を聞いただけでも8割がた誰かを
言い当てることが出来る自信もある。
 だから間違いない。俺はふいに足を止める。
 ぺたり。
 ぺた…
 それに合わせるように、背後から付いてくる足音も止まる。戸惑うように、一呼吸分の時間のずれがありはするものの、
そのタイミングは俺の歩速に合わせたとしか思えない。
 振り返らず、再び俺は歩き出す。
 ぺたり。
 ぺたり。
 やはり足音は尾けてくる。先ほどより心なしか早歩きになった俺に合わせるかのように、俺の足音と重なるように
一定の間隔でそれは響く。一度意識してしまえば、もう誤魔化しようがなかった。
 ぺたり。
 ぺたり。
 この不快な追いかけっこのゴールは何処だろう。俺は混乱して取り乱しがちになる頭を必死で宥めながら考える。
まばらでも今はまだ周囲には人の目がある。それはまだ俺の味方の筈だ。このまま人ごみに紛れて部屋まで辿り着ければ、
この追いかけっこは終わるのだろうか。
 ぺたり。
 ぺたり。
 いや、それはまずい。俺にとってのゴールはこの追跡者にとってのゴールでもあるのかも知れないじゃないか。
彼が俺の部屋まであがり込んで来たら?鍵を掛けたところで、こじ開けようとすればいくらでも出来るだろう。
 いや、それならまだましだ。部屋の場所を覚えられたら?そうなれば俺は、それ以後の全ての時間を姿無き追跡者に
怯えて過ごさなければならなくなる。彼がそこまでするかどうかは判らないが、この足音にはそう思わせるような
何とも言えない悪意を感じるのだ。
 それは何としても避けたい。この陰湿な追いかけっこは、此処で終わらせるしかないのだ。
 ぺたり。
 ぺたり。
 では警察に駆け込むか?帰りの道のりには交番があった筈だ。今も駐在がいるかどうかは判らないが、そうでなくとも
交番の中まで尾けて来はしないだろう。案外良い考えかも知れない。
 ぺたり。
 ぺたり。
 いや、やはりそれもまずい。もし邑上の懸念が正しければ、自由を失うのは俺のほうだ。もし本当に俺が加嶋 霧子を
殺したのであれば、その罪は償わなければならない。そのことに異議はないが、記憶の失くしたまましたかどうかも判らない
罪の罰を受けるのはごめんだ。それに、そうだったとしても俺は彼女にもう一度逢いたい。それが叶わなくとも、今のままで
終わりにしたくはない。
 ぺたり。
 ぺたり。
 そもそも、こんなことを誰が信じてくれるというのだ。あの胡散臭い自称魔術師以外に、こんな出来の悪いファンタジーを
誰が受け入れてくれるというのか。
 ぺたり。
 ぺたり。
 背後の足音が俺を焦らせる。それはまるで詰問されているかのよう。そして考える時間は決して多くは与えられていない。
 ならば。
 ぺたり。
 ぺた…
 ならば、振り返るしかない。俺は意を決して足を止める。それに驚いたように、背後の足音も息を止める。彼の視線は
いまだ背後から俺の心臓を突き刺し、俺の視線は虚空を漂ったまま。この不公平を是正するには、俺が振り返り彼の姿を
視界に捉えるしかない。
 俺の心の片隅で警鐘が鳴り響く。振り返ってはいけない。止めろ、其処には絶望しかないと繰り返す。そんな馬鹿なことなど
あるものか。俺は怯える心を殺し、勢いにまかせて振り返った。



 俺の目に映ったのは、貌の無い人間達の群れ。



 強烈な目眩。膝の力が抜け、俺は無様に倒れ込む。何かを巻き込んだのか、がしゃんとけたたましい物音が響く。
彼らが一斉に俺の方に視線を向ける気配がして、俺は生まれて初めて全身の毛穴から汗が吹き出るのを感じた。
 そうだ、これは当たり前のこと。俺が視ることが出来るのは、俺がかつて会ったことがある人間だけ。そうでない人間は、
例え其処にいることが判っているとしても見分けのつかない貌無しとしか認識出来ない。
 俺には追跡者とそうでない人間を見分けることが出来ない!
「大丈夫ですか?」
 見知らぬ誰かに声をかけられ、俺ははっとなって振り返る。其処にいるのも、この場所に集まったその他大勢とまるで同じ、
貌の無い人間達の一人。かろうじて声から成人男性と判る程度。
 ならば果たして、彼が俺を尾けて来た人間でないと言い切ることが出来るのか?
 彼の差し出した手の先に、俺を殺すための凶器が握られていないと断言出来るのか?
 喉の奥から込み上げてきた悲鳴を噛み殺し、俺はその手を乱暴に振り払う。膝に力が戻ったのは僥倖(ぎょうこう)だった。
立ち上がった勢いでそのまま走り出す。手を差し出した誰かが驚いたような声をあげるが構ってはいられない。
さっきまで大事に抱えていた何かを転んだ拍子にそのまま置いてきてしまったような気がするが構ってはいられない。
 とにかく今は一刻も早くこの人ごみを離れなければ。俺にも彼を視ることが出来る、他の誰もいない場所へ。



 辺りは既に暗闇に浸かっていた。その闇の中を俺は闇雲に走り抜ける。行き先なんて考えていなかった。とにかく
人の居ない場所に行かなければならない。あの気味の悪い貌無しどもの居ない場所へ行かなければならない。
 かつん。
 かつん。
 あの足音はまだ尾いてきている。今はもう隠そうとすらしていない。それはもはや、尾行ではなく追跡だった。
 暗闇の中であっても、俺が街中を走るのに支障はない。もともと俺の目が光を必要としている訳ではないから当たり前だ。
俺に周囲が昏く沈んで視えるのも、日光の感触と気温と現在の時刻から類推し、頼みもしないのに勝手に気を利かせて
視覚情報に変換しているおせっかいな脳の仕業に過ぎない。だが、そのおかげで俺はこの闇に染められている筈の
見知った街中をつまずきませずに走ることが出来る。
 かつん。
 かつん。
 だが、今俺がこんな風に無様に逃走しなければいけないのもまた、そのおせっかいのせいではあるのだが。
 かつん。
 かつん。
 地面の構造が変わったのか、いや彼にもはや隠す気が無いからだろう、追ってくる足音は先程までとは異質なものに
変わっていた。それでも、彼が俺を追って来ているという事実には変わりはない。
 汗のせいか、全身は既にびしょ濡れだった。それでも俺は足を止めることは出来ない。まだ周囲には人の気配がする。
一刻もはやく誰もいない場所へ行かなければ。今の状態で追いつかれれば、俺に成す術は無い。
 かつん。
 かつん。
 足音が心なしか遠ざかる。流石にこの暗闇の中を俺と同じように走ることは難しいのだろう。だが、撒くことが出来るとも
思えなかった。彼が俺を完全に見失うまで、今の全力疾走を維持し続ける自信はない。
 人通りはいよいよ少なくなっていたが、それでも俺はより一層人の気配のない道を選んで走り続けた。
 あの角、あの角を曲がれば。くすんだ白い壁に手を付いて崩れそうになる体を支え、俺はその場所に飛び込んだ。

 そして三度、俺はこの場所を訪れた。住宅街の陥穽、あの少女と出逢い、永遠に光を喪ったこの場所に。



 壁に手を付いたまま、俺は息を整える。一度足を止めてしまえば、もう歩くことすら出来そうにない。座り込まないでいるのが
やっとだった。そのまま壁に寄りかかり、倒れそうになる体を支える。
 恐る恐る、俺は目の前のレンガ敷きの広場に目を向けた。其処にはもうあの少女は居なかった。俺はそのことに
安堵しているのか、それとも落胆しているのか。いずれにしろ、息が上がった俺の口から出るのは短く繰り返される
吐息だけ。
 何故俺はこの場所を目指したのか。闇雲に走っていたつもりだったが、行き着いてみれば最初から此処を
目指していたことが解った。確かに此処なら、他に人が居よう筈がない。でも、理由はそれだけだろうか。
 幽霊マンション。
 今朝病院で女の子たちが話していた、あの不吉な呼び名を思い出した。
-でも、この病院はあの幽霊マンションから二駅しか離れていないじゃない-
 彼女は確かにそう言っていた。幽霊マンションと呼ばれる物件がこの日本にいくつ点在しているのかは知らないが、
そう沢山あるとも思えない。ましてあの病院の最寄り駅に線路は一本しか通っていない。逆側の二駅目は此処よりも新しい
住宅街で、幽霊マンションなどという妖しげな建物があるとは到底思えない。
 彼女達が話していた幽霊マンションとは間違いなく此処のことだろう。そう思って見上げてみれば、確かにそうとしか
表現出来ないような異様な雰囲気を漂よわせている建物だ。
 彼女達の話が何処まで正しいかは判らないが、正しいとすればこの場所は随分前から人の住まう場所ではなくなっている
ということになる。そして、それも関わらず此処で少女の姿が目撃されているらしい。
 彼らが見たものは、俺が視たものと同じものだろうか。
 女の子はそれを幽霊だと言っていた。ならば、俺が目にしたものも幽霊だったというのか。そんな筈はない。例えそれが
俺にしか視ることが出来ない幻のようなものだったとしても。
 おそらく、加嶋 霧子は家出した後に此処を訪れたのだ。何故彼女がこんな場所を訪れ、何故誰かに目撃されるほども
長く滞在したのか、その間どのように生きていたのか、それは解らない。しかし彼女は間違いなく此処に居たのだ。
この、既に人の住む場所ではなくなった、妖しい噂の飛び交う幽霊マンションに。
 ばしゃり。
 何処からか聞こえた水音が俺に状況を思い出させる。慌てて俺は息を潜める。此処に人影はない。此処に俺以外の
誰かが現れれば、彼こそが俺を尾けて来た犯人だ。足音や呼吸音さえ聞こえれば、俺にも彼を視ることが出来るだろう。
 待て…水音?何処から?
 それは俺の足元から聞こえたような気がした。気が付けば足元は水溜り。俺の靴はぐしょぐしょに湿っていた。
いや、靴だけではない。ズボンもジャンパーも髪の毛も、全身がもはや水浸しだ。これは断じて汗などではない。これは…
 間断なく地面を叩く水音が俺の耳に飛び込んできた。それは地面からだけではなく、大気を切り裂いて届き俺に体に
ノイズとなって響いてくる。
 雨。それも土砂降りの大雨。
 今突然振り出した訳ではない。俺が今更になって気付いただけだ。あの足音と同じ、気付いてみればさっきから雨が
降っていたことを思い出す。おそらくは、俺が走り出した頃にはぱらぱらと降り始めていたのだろう。こんな大降りになるまで
それに気付かなかったとは。
 当然、雨の織り成すカーテンの向こうに人の気配を感じた。
 まずい。
 これほどの雨の中では、誰かの息使いはおろか、足音さえろくに聞き取ることは出来ない。それは俺の目には
視えなくなるということだ。
 悪寒を感じ、俺は身を震わす。それは雨に濡れたせいだけでは決してない。
 今日は本当にどうかしている。失敗に失敗を重ねている。あのままあの人ごみの中に紛れていれば、例え俺に彼を
見つけることが出来なかったとしても、突然襲われるような事態にはならなかった筈だ。彼が諦めるまでうろついていれば
良かったのだ。
 だが今は違う。此処は幽霊マンションの敷地内。死者と幻影の領域。彼の少女が息絶え、俺が光と記憶を亡くした場所。
まして今は土砂降りの雨の中だ。生きた人間などいよう筈もない。生きた人間を息せぬ骸に変えてしまう者がいたとしても、
それを阻む者などいよう筈もない。
 俺は役立たずの目を凝らす。今となっては俺に彼を視ることは出来ないだろう。他人と見分けのつかない追跡者と、
真に視ることの出来ない殺戮者。どちらがよりマシかなど、問うまでもない。

 手入れをされぬまま捨て置かれ、好き放題に伸びて乱れた植え込みの影。
 電灯が壊れたまま忘れられたのだろう、雨の中虚しく明滅を繰り返す外灯の下。
 枯れ木を模した歪なモニュメントのような、少し傾いた電信柱の裏側。
 古び雨に朽ちて、もはや判読できない汚れたポスターの貼られた掲示板の隣。
 
 俺はゆっくりと視線を向ける。そのどれかに、彼はもう潜んでいるのかも知れない。いくら目を凝らしたところで、
俺に彼を見つけることなど出来はしないのだから。
 いや、ひょっとすると彼はもう俺の目の前に立っているのかも知れない。俺の鼻先の10センチメートル先に、
雨に濡れたナイフを突きつけているのかも知れない
 …心臓の音がうるさい。それは雨が地面を叩く音と混じりあって、余計に俺を苛立たせる。
 うるさい、うるさい、こんなもの、いっそ止まってしまえ…!

 唐突に。何かが俺の肩に触れた。それは紛れもなく人の手の感触。今さっきまで休むことなく俺の体を撃っていた雨の
感覚が、途絶えた。



 今度こそ悲鳴を上げて、俺はその手を払い除ける。再び俺の顔を無数の水滴が襲い、俺は刹那瞼を閉じる。

 細い金属の棒が地面に転がる気配がした。



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