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「昨日の呑み代の残り、払えよな。あと今日の往復の電車賃も」
これ以上はないというような仏頂面で、邑上が言う。どうやら腹を括ったらしい。
「そのうちな。今あまり持ち合わせがないから。それより早く行こうぜ」
翌日の昼、俺と邑上は深雪の紹介で彼女の先輩と会うことになった。
指定された場所は彼女の職場であり、その職場とは中学校だった。深雪の先輩という女性は新任の教師として
この近くの中学校に赴任してきたらしい。
深雪と彼女は某有名大学の教育学部の同じゼミに所属していたという。深雪が昨日彼女を訪ねたのも、同じ進路をとった
先輩にアドバイスを聞きたかったからとのこと。
そう、驚くことなかれ、邑上 深雪の志望は教師らしいのだ。しかも既に教育実習を終えているらしい。俺の目から視れば、
邑上 深雪は小学生かせいぜい中学生にしか視えない。間違っても弟の信司より年上などには視えないのだ。
その少女が、自分より年上か、せいぜいが同年代にしか視えないという少年少女に勉強を教える。その様を想像すると、
微笑ましいというか何というか…悪く言えば滑稽である。
もっとも、そのように視えるのは世界でも俺だけらしい。正常な人間から見れば、信司の姉は年相応の魅力的な大人の
女性なのだろう。その大人の女性を捕まえて、それを微笑ましいだとか滑稽だとか言っている俺のほうが遥かに異常な
人間であることは間違いない。
それでも、俺の目は彼女を10年前の姿でしか映さないのだから、頭では解っていても、どうしてもそういう想像に
行き着いてしまうのだ。
「なにニヤニヤしているんだ、気持ち悪い。とっとと行くぞ。姉貴を待たせているんだろう?」
俺が若い貴重な時間をささやかな妄想に費やしている間に、邑上は目的地までの切符を購入していた。俺も慌てて
同じ切符を買う。
目的の場所は私立麻布中学校。俺の部屋から電車で30分程の駅にある、エスカレーター式の進学校だ。比較的賑やかな
街にある為、最寄の駅には俺も何度か降りたことはあるのだが、その中学校に行くのは勿論初めてである。そうすると、
見たことが無いものを視ることが出来ない俺一人では、おそらく目的地に辿り着くことは出来ない。そこで昨日の約束通り、
邑上に付き添いを頼んだのである。
なお彼の姉の方は既に出発して目的の女性に話を通してくれているらしい。邑上はともかく、俺の勝手な都合で彼女にまで
迷惑をかけてしまっていることには少々心が痛むが、それでも俺はこの機会を逃したくはなかった。この機会を逸すれば、
おそらくはもう二度とあの少女に関わることは出来ないだろうと思うのだ。
ホームを確認して俺達が電車に乗り込むと、いつものように車内のアナウンスがけたたましく鳴り響いた。この国は
どういう訳か、在ることは無いことよりも必ず優れているという先入観があるらしく、電車の車掌だか運転手だかは乗客が
聞いてもいないことをひっきりなしに語りかけてくる。携帯電話の迷惑さを訴えるアナウンスは明らかに携帯で話す声より
大きいし、降りる予定のない駅の乗り換え方やホームの番号や出発時間を、質の悪いスピーカーから延々と響かせてくる。
他人より少々耳の良いらしい俺は、常々それを不快に思っていた。しかし視力を失った今、例え視えている内容であれ、
その騒音は頼もしく感じる。実際、俺の訪れたことのない、すなわち完全な盲人として見知らぬ駅を利用しなければ
ならなくなった時、それはきっと無くてはならないものになるのだろう。
この国は優しいのだと思う。でもそれはその恩恵を受ける身にならなければ気付くことが出来ない。おそらくは、一生。
そしてそのことに気付かない人間には、どうしても悪い方ばかりが目についてしまうのだ。だから例えば電車に限らずとも
何大きな事故が起こった時に、それが何故起こったのか、他の機関でも起こり得ることなのか、どのように対策すべきなのか、
そんな当たり前に語るべきことよりも、メディアは、つまり人々は、まず誰かを糾弾することから始めてしまう。
視力を失いそれに気付くことが出来たことは、確かにある意味幸運なことなのだろう。でもその代償は残酷なまでに
大きかった。いつだって、取り返しのつかないことになるまで人は心の底から後悔することなど出来はしないのだから。
ふと、俺の隣に無言で佇む友人に目が行く。彼もそうなのだろうか。魔術師を自称し、何かと胡散臭い発言の目立つ
俺の友人、邑上 信司。しかし、彼が分野を問わず多くの知識を持ち合わせ、それを噛み砕いて独自の哲学にまで
昇華していることには、素直に賞賛できる。彼がよく知った様なことを口にするのも、新しいものと自分の知るものとの類似を
比較して検証し、自分の中の共通した認識を引き出すことが出来るからだ。だからうかつな勘違いをすることはあっても、
彼の言うことはたいてい納得出来るものだし、少なくとも説得力のあるのだと思う。
でも、邑上はそれを他人に強要することはしない。相手に、それは時に俺に、理解出来ないと思えば顔を顰めて語るのを
止めてしまう。或いは初めから理解されないことを前提で語っているような節すらある。それは愚かな他人を意地悪く
あざ笑っているようでもあり、哀れんでいるようでもある。
人間は決して理解しあうことは出来ない。邑上は昔、俺にそう言ったことがあった。自分が赤だと思っている色は、
他人にそう視えているかどうかは判らないし、そもそも赤という色に正解なんてものはない。おそらくは、比較することにすら
意味がない。視界や感覚を共有することが出来ない以上、他の誰かを真の意味で理解することなんて出来ないのだから、
常に理解されないことを計算して行動すべきだ、と。
彼が頑なに魔術師を自称する理由も、おそらく其処にあるのだろうと思う。これも前に彼が俺に語ったことだが、
およそ魔術師と呼ばれる人間は、自分が見ているもの、自分が魔術と信じて行使したことの結果が、真実なのか幻覚なのか、
他人にどう見えるかなど気にしないのだそうだ。
自分が見えているものだけが常に真実であり、他者の存在すらその一部に過ぎない。外側は常に内側にしか存在せず、
外側などと言う世界は幻想に過ぎない。世界は自分の中にしかないのだ。彼は常にそれを意識し、忘れないでいる為に
自らをそう呼ぶのだと、俺は勝手にそう思っている。
そして、俺は自分の作り物の右目に手を伸ばす。事故の後すっかり癖になってしまったこの動作が、既に馴染みとなった冷たい感触を指に返してくる。
健常な人間でも他人と感覚を共有することが出来ないのなら、俺は自らとすら視界を共有することが出来ない。
俺が今視ていて、これから目にする全ての光景はどれも俺の記憶であり、今の俺を構成している要素の反復に過ぎない。
この目がまだ光を捉えていた時に、俺の意識に投影されていた柔らかい幻想。誰とも共有出来ないあの真実すら、
今の俺は喪ってしまった。ならば、今俺が視ている風景は虚偽なのだろうか。それとも、これこそが俺にとっての唯一無二の
真実なのだろうか。
電車の中に佇む貌の無い乗客達と、窓の外を通り過ぎるいつか見た風景を眺めながら、俺はぼんやりとそんなことを
考えていた。
「どう?やっぱり無理そう?」
私立麻布中学校(しりつあざぶちゅうがっこう)校門前。指定されたその場所で待っていた深雪が、座り込んだ俺に
心配そうにそう言った。おそらくは、俺の顔を覗き込みながら。
俺の背後で電車の扉が閉まった時、確かに俺には降り立った駅のホームと、それを取り囲む外の景色が視えていた。
賑やかな街を横切り、目的地まで俺達を運んでくれるというバスに乗り込んでも、俺には華やいだ街の様子が、
その上を歩く様々な人々が、まるで奇妙な動物のように行き過ぎる車の列が視えていた。乗ったことのない筈のそのバスの
中の光景ですら、正確なものではなかったかも知れないが、俺には見えているように思えた。
ところがバスが動き出していくつかの角を曲がった途端、まるでテレビのスイッチを切ったように、冬の町並みを
映していた窓は突然光を取り込むことを止めてしまった。奇妙なことに、バスの中の明るさは先程までと
なんら変わりないのに、窓の外の風景だけが未開の地の夜のように塗り潰された黒に変わってしまったのだ。
バスを降りると状況はさらに悪化した。今まで乗っていた筈のバスは勿論、空の青も町並みを彩る様々な色も、
輪郭のない黒一色に変わってしまっていたのだ。確かなものは足元に広がるアスファルトの硬い感触だけであり、
他は闇に満たされた空間を飛び交う音の反響だけが、其処に何かが存在していることを頼りなく俺に教えてくれるだけだった。
不思議なことに、こうなってしまうと先程まで視えていた筈の悪友の姿さえも俺には視えなくなってしまった。
まるで世界が無くなってしまえば、その登場人物である彼も存在することが許されないとでもいうかのように。
一歩も歩けなくなった俺は待ち合わせの場所まで僅か数100メートルあまりの距離を、邑上に引きずられるようにしながら
歩いて何とか此処まで辿り着いたのだ。
「半ば予想していたことではあったんだけどな。まさかさっきまで視えていた人間まで視えなくなるとはね。まあ、
それが普通なんだろうけれど」
邑上が溜め息混じりにそう言う。おそらくは、言葉とは裏腹のいつものしたり顔を浮かべているのだろうが、
今の俺にはそれを視ることは出来ない。勿論それに応える気力も無かった。
視力を失った俺に視えているものはかつてそれを見た俺の記憶だ、というのが邑上の言である。当然、かつて
見たことがないものを視ることは出来ず、訪れたことがない場所では俺は本当の意味で視界を失う訳だ。10年前と
寸分変わらない少女の姿で現れた邑上の姉は、彼の説を証明するこの上ない証人である訳だし、ならば今起こっていることも
実に簡単な論理的帰結である筈だ。予想して然るべきである。にも関わらず、俺は自分が既に視力を失っているという、
あまりにも重大な事実を失念していた。いやおそらくは、今の今まで本当の意味で理解すらしていなかったのだ。
今まで俺は、真実を映さない俺の視界は、なまじ見えないことより性質が悪いと思っていた。しかし、冗談じゃない。
真の闇とは、これ程までに不安で恐ろしいものだったのだ。
幼い時、俺は目隠しをして公園で追いかけっこをしたことがあった。あの時俺は確か10メートルと歩くことが出来ず、
すぐに音をあげてしまった。遊びなれ、知り尽くしていると思っていたあの公園ですら、一度瞼を閉ざしてしまえば瞬く間に
見知らぬ暗闇に変わってしまうのだ。それに、視覚を失うということは平衡感覚を失うことでもあるのだ。そうなれば、
人間はまともに歩くことすらも出来ない。
あの時の、遊びの終わりを告げる慈悲深い目隠しの感触は、今は無い。
「どうする?このまま校内まで入っていくのか。これ以上男と腕組んで歩くのは勘弁してもらいたいんだが」
「それならあたしが連れて行くけれど。でも、やっぱり無理そうだよ。直人君、顔真っ青だし」
暗闇の中から姉妹の議論する声だけが聞こえる。確かに、こんな精神状態ではろくに聞きたいことも聞けないだろう。
記憶の中の彼女を知っているかも知れない人との会合、あと何回機会があるのかは知らないが、出来れば万全の状態で
望みたいという思いはあった。
「ごめん。やっぱり此処では無理そうだ。
駅前にある喫茶店なら入ったことがあるし、視えると思う。悪いんだけど、其処で話をさせて貰うことには出来ないかな」
分かったと小さな声で頷き、深雪が小走りで駈けて行く気配がする。しばらくしてから邑上の携帯に、先方の了解を告げる
深雪のメールが届いた。
「なんかまだちょっと仕事があるから、先に行っててくれってさ。場所は駅前のドトールだそうだが、行ったことはあるか?」
俺は頷き、なんとか立ち上がった。とにかく今は一秒でも早くこの暗闇から抜け出したい。
世の盲人達はずっとこの暗闇の中で生活するのか。おそらくは、残りの一生の全てを。俺は視力を失うということの怖ろしさを
改めて実感し、それと同時に、それに逃げ場を与えてくれた俺の特異な才能に感謝した。
再び邑上に引き摺られて、先程降りたばかりの向かいにあるバス停に辿り着く。程なくして、バス特有の重たいエンジン音が
響いてきた。これに乗れば、また数分で光の見える場所に戻れるだろう。
「ああ、そうだ。この往復のバス代も、勿論ツケておくからな」
バスに乗り込んで開口一番、邑上がそう言った。
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