Ⅴ   それぞれの理由



 「存在しているかどうかも判らない人間に振り回されるなんて、愚かなことだと思わないか?」
 目の前の男がそう諭す。目の前の男、そう、俺の悪友、邑上 信司。
 しばし閉じていたらしい瞼を無理やりこじ開ける。瞼が重いのはアルコールが回っているせいだろう。邑上の方はというと、
全く顔色を変えずにそんな俺を不機嫌そうに睨んでいる。その後ろに大手チェーン店となった飲み屋の、快活でいながら
飲み屋にしては比較的清潔な室内が隙間視える。
 其処にいる多数の貌のない客達、店員達。そう、此処はもう暗闇ではない。
 「悪い。ちょっと寝ていたみたいだ」
 しっかりしてくれよと呟きながら、まだ半分以上ビールの残った俺のコップに、頼んでもいないのに邑上が既に温くなった
ビールを注ぐ。
 邑上の部屋と俺の部屋のちょうど中間に位置する飲み屋。酒も肴も味は良くないが、その分貧乏な大学生の財布には
優しく、度々訪れていた店。事故に遭ってから来るのは初めてだが、その光景は以前と変わらない。
 それは当たり前だ。今、俺が視ているものは、今の風景ではないのだから。
 それでも、重さに負けて瞼を落としてしまえば、目の前の光景は闇の中に堕ちる。そんなことすら今までと同じであることに、
俺は少しだけ安堵した。
 時刻はそろそろ深夜0時。それでも客足が遠のくことはなく、店の中は心地良い喧騒で満たされている。或いは、
誰もがこの喧騒を求めて此処に集まっているのかも知れない。田舎ではないものの、都会とは決して言えない街の一角。
一歩店を外に出れば、まだ冷たく静かな夜の空気に迎えられる筈だ。だが俺達、と言っても俺と邑上の二人だけだが、
俺達が此処にいる理由がそれに当て嵌まるということは、多分ないだろう。
 昼間、あの廃マンションを訪れた後、俺は一度自分の部屋に戻り、此処で邑上と落ち合う為の連絡をとった。
 深雪の方はあの後すぐに別れて、約束した知人に会いに行った。
 別れ際、あの場所で軽い立ち眩みを起こした俺を、彼女は少し心配してくれているようだった。
 俺が邑上に相談したかったこととは、勿論其処で視たあの少女のことだ。
 誰も住んでいないという廃マンションの手前、敷き詰められたレンガの上、おそらくは俺が倒れ臥していたであろうその場所。
まるで俺と入れ替わるように、其処に居た少女…少女の、亡骸。
 「さっきの話だけどな。昼間、お前が視た少女を探したい、っていう。
 けど、それを視たのはお前だけで、姉貴には何も見えなかったんだろう?見間違いじゃないのか」
 あれだけ飲んだ後だというのにしっかりした声で、しかし流石に飽きたのだろうビールをお茶を飲むように音を立てて
ちびちびと啜りながら、邑上がそう言う。
 この店に入ってすぐ、俺は昼間あったことを邑上に話した。予想通り、邑上は興味を示し、俺の視たものについてあれこれと
聞いてきた。魔術師を自称するだけあって、こいつはこの手の不可思議な話に目がない。それにこいつにしてみれば、
俺の視覚、いや疑似視覚とでも言うべきこの感覚についての自分の説の証明になるのだから、興味を持つのは
当たり前だろう。
 だがら俺がその少女を探したいと言ったたんに難色を示したことは、完全に予想外だった。こいつなら、例え俺が嫌がっても
構わずに自分だけでも俺の視たものが存在した証拠を探すだろうと思っていたのだ。それが出てきた言葉は勘違い、だ。
この件に関して、こいつがもっとも言いそうにない言葉。どうやら、こいつにしては歯切れの悪い理由を並べ立てて、
なんとか俺を止めようとしているらしい。
 その理由は解らない。だから俺はその言葉に頷けない。
 「俺にしか視えなかったんだからお前の好きな幽霊なんかじゃないだろうし、勿論生きた人間でもない。あの時、あそこには
何もなかったんだと思う。でも、見間違いなんかじゃない。
 解るだろう?お前が言い出したことなんだから」
 そうだけどなあ、と曖昧に相槌を打ちながら、邑上。だけど別に俺は幽霊なんかに用はないぜ、と俺の軽口にわざわざ
返答することも忘れない。
 「そうだろうけどな。今のお前に見たことがないものが視える訳はないのだから、お前が見たと言うその少女は、
確かにかつて其処に居たのだろう。そして、お前がそれを覚えていないということはない筈だ。そんなショッキングなもの、
いくらお前でも一度見たら忘れないだろうし。
 でも、お前には彼女の記憶が無い。ということは、結論は一つしかない」
 「俺は彼女に逢ったんだ。事故にあった、記憶の抜け落ちたあの一日の何処かで」
 勿体ぶられるのもうっとおしかったので、俺が先に結論を言う。言葉を取られた邑上はちょっと眉をひそめたが、もともと
俺が言うべき言葉だと思って納得したのか、何も言わずに机の上に張り付いたボタンを押して店員を呼んだ。
 しばらくして店員が追加の注文をとりに来た。邑上は安いウイスキーを頼み、何か飲むか、と俺に尋ねる。俺は適当な
サワーを頼んだ。
 「そして俺と同じ日、同じ場所に倒れていた以上、俺のこの怪我と無関係な筈はないよな。誰も住んでいない
廃マンションなんだから、植木鉢が自然に落ちてくる筈もない」
 「そうだけどなぁ」
 運ばれてきたウイスキーを受け取り、邑上が気のない返事をする。それに口をつける前に、思い出したように煙草を
取り出して火を燈す。
 「そうだとしても、だ。犯人探しでもするつもりなのかよ。それは警察の仕事だ…事故の調査もな。俺もお前も、
警察でもないし探偵でもないんだぜ。ついでに言うと、お前は知らんが俺は暇でもない」
 「別にお前に手伝ってくれなんて言ってないだろ」
 売り言葉に買い言葉。絞ったレモンの果汁をマドラーでかき混ぜている俺の口から、そんな言葉が転がり出た。本当は、
もし探すことになるのなら邑上に手伝って貰いたいというのが偽らざる俺の本音だった。勿論、邑上に調査能力が
ある筈もないのだろうが、今の俺だけでは一般人レベルの調査をすることすら難しいだろう。誰かに手伝って貰わなければ、
何も出来ないことは分かりきっている。
 その点邑上は適任だった。今の俺の奇妙の状況を完全に理解出来ているのはこの男と、彼の姉だけなのだから。
 「らしくないなあ…自分の怪我の敵討ちのつもりか?お前はもっと冷めた奴だと思っていたんだけどな」
 煙草の白い煙を吐き出して、邑上がそう言う。その言葉を飲み込むように、ウイスキーを一口。
 「お前には解らないよ」
 俺の言葉に、邑上の顔にこの男にしては大変珍しい、気まずいような表情が浮かぶ。
 これも嘘。俺は別に自らの敵討ちを望んでなどいない。勿論、これが事故なんかではなく誰かの手によるものだとしたら、
その犯人には罰を下したい。でもそれは、別に俺の手である必要はないと思う。
 日本の警察は優秀だと聞く。今の俺の状況を説明したところで信じてくれるとは思わない。でも、もしこれが事故ではなく
傷害事件だったならば、彼らはきっとその犯人を突き止めてくれるだろう。少なくとも、素人の俺が単独で調査するよりよほど
信頼出来るものである筈だ。
 此処まで考えて、俺はふと疑問に思う。確かに邑上の言うとおり、俺がこの事件に拘る理由は何一つない。では俺は何故
こんなにも、この事件に首を突っ込みたがっているのだろうか。
 俺は…
 「どうした、顔色悪いぞ。気分でも悪いのか」
 軽い吐き気を噛み殺していた俺に気付き、邑上が言う。何時の間にか、彼の目の前に置かれたウイスキーのグラスは
空になっている。相変わらずペースが速い。
 「そうだな。ちょっと飲みすぎたみたいだ」
 そう言いながらも俺は、目の前のサワーを一気にあおる。それで今頭に浮かび上がった不快なイメージがアルコールと
共に飲み下せるような気がして。しかしアルコールが回るほど、逆に内部に向かう思考は加速していった。
 しばらくの間、俺達は無言で過ごした。増えていくグラスと灰皿の煙草の吸殻だけが、しばし無言で刻んだ時を語る。 
「いずれにしろその娘を探すのは不可能だよ。手がかりがなさ過ぎる。なにせその少女を視たのはお前一人で、
他の人間には見えていない。勿論死体も出ていないだろうし、何よりお前は世間的には盲人だ。盲人が見ただなんて言って、
どんな馬鹿がそんな話信じるっていうんだ。
 その上、お前には事故当日の記憶が無いときてる。お手上げだよ」
 しばしの時を経て、邑上がそう口火を切る。再び、俺の耳に酒場の喧騒が戻ってくる。
 確かにその通りだ。仮に俺達が探偵のノウハウを持っていたとしても、こうも情報が無いのではどっちにしろ
何も出来はしないだろうと思う。俺の目に焼きついた彼女は喪った俺の記憶の中の登場人物に過ぎず、世間的には文字通り
何も起こってはいない。こんな状況フィクションと同じだ。作り話よりも嘘臭い。
 それでも、俺は諦めきれなかった。
「それじゃあ、これから何か進展があれば手伝ってくれるのか?」
 そうだな、と邑上が少し考え込むような素振りを見せる。
「此処の代金、持ってくれたらな。死体が出るとか、その少女らしき失踪者の具体的な情報が手に入ったっていうなら、
付き合ってやっても良いよ」
 俺は溜息を吐く。その言葉は俺の望んだものではあったが、邑上がそれが起こらないことを確信して言っている言葉でも
あったから。
「わかったよ。それじゃあ、その時に改めて頼むことにするよ。でも今日のところはワリカンで良いよな」
 伝票を手元に引き寄せて、俺がそうしめる。しかし伝票に書かれた文字は例によって霞んだようにぼやけて読めず、
俺は舌打ちをしたい気分になった。
「なんだよ。もう帰るのか?」
そんな俺の手から伝票を抜き取り、邑上がそう言う。どうやらこいつはまだ呑み足りないらしい。こっちはというと、
限界とは言わないまでももう十分に呑んだし、何より今回はあまり愉しい酒でもなかった。遅いから帰るよ、と俺が言うと、
邑上は伝票の俺の呑み分を告げた。
俺はその額をひとまず信用することにして、言われた金額を財布から取り出して机の上に置く。席を立とうとした時、
邑上が小さな声で何かを呟いた。
「お前、解っているのか?」
これ以上話すこともないだろう。答えるのも億劫で、俺は聞こえない振りを決め込む。邑上はグラスを睨んだままでこちらを
見ていないようだ。俺に言った言葉というよりは、独り言に近い問いかけだったのだろう。それでもよく通る彼の声は、
喧騒を縫って店の扉を潜ろうとしていた俺の耳に幽かに届いた。

「お前、解っているのか?
 その少女を殺したのは、お前かも知れないんだぜ?」



 扉を潜ると其処は案の定、冷たく静かな夜の世界だった。当たり前だ。まだ1月も半ばといった冬の最中。場所がら、
雪が降ることこそ殆どないものの、それでも吐く息は白く空に散る。特に今日は昼間暖かかった分、冷気がジャンパーの
隙間から忍び込んでくるような気がして、俺は身を小さくした。
 振り返ると、店の明かりと喧騒が妙に暖かく、店を出たことが愚かなことだったように思える。さながら楽園を追放された
孤独なアダムといったところだろうか。俺には似合わないことこの上ない。
 「俺が殺したかも知れない、か…」
 最後に邑上が言った言葉は、まだ耳の奥にこびり付いていた。おそらくはそれが邑上が協力を渋った理由だろう。
 彼がそう考えるのも当然かも知れない。俺は少女の亡骸を目にしている。ならば、彼女が俺の視力を奪ったということは
絶対にないということだ…その逆はあり得るとしても。それを否定してくれたかも知れない俺の記憶は、あそこに落としてきて
しまった。
 そうすると邑上は俺が殺人犯かも知れないにも関わらず、庇ってくれようとした訳だ。ふと、そんなことを思いつく。
 今日の出来事の中でおそらくは一番珍しいだろう彼の厚意はありがたかったが、俺はそれでも彼女を探すつもりだった。
例えなんの手がかりも無いとしても。例え、それで俺が今まで平穏の中に積み上げてきた全てを失うのだとしても。
 俺は彼女にもう一度逢いたいのだ。あの時、俺は気付いてしまった。自らの敵を討つ為でも、奪われた視力の理由を
知る為でもない。俺はただ、彼女にもう一度逢いたいと願ったのだと。



 敷き詰められたレンガの上。染み込んだ血の赤とばらけた髪の黒、血の気を失った白い貌。
 そのコントラストが、吐き気がするほど美しかったから。



 その時、左の腰から振動が伝わってきた。携帯に電話がかかってきたようだ。取り出して画面を見ても、其処に
表示されている筈の相手の名前は霞んで視えない。携帯の外装や、お馴染みのオペレーティングシステムの画面なんかは
今までとなんら変わりなく、自分からかける分には気にならないというのに、相変わらず俺の知らない新しい情報を俺の目は
捉えてくれない。誰からかかってきたのか判らないのだから、しかたなく俺はそれを耳に当てる。
「もしもし、直人君? 私、深雪だけど。ごめんね、こんな夜更けに電話して」
 驚いたことに、電話の主は今日数年ぶりの再会を果たしたばかりの悪友の姉、邑上 深雪だった。電話番号を交換した
覚えはないのだが、おそらくは弟が教えたのだろう。それについては、別に責めるような理由がある訳でもないのだが。
「いえ、さっきまで信司と呑んでいたところですから、全然迷惑なんかじゃないんですけど。どうしたんですか?」
「ちょっと今日中に伝えたほうが良いと思って。あのね、今日会っていたのはこっちに就職した大学の先輩だったんだけど、
彼女に君の話しちゃったのよ。その、ごめんね、昼間にあったことなんだけど。
そしたら彼女、是非直人君に直接会って話がしたいって。なんでも、知り合いに失踪した子がいて、どうもその子が
直人君の視た女の子と特徴が同じなんだって…」
どうやら、邑上の当てはいきなり外れたようだ。あまりといえば突然に望んでいた道が開け、俺の体に震えが走る。
それからその先輩と会う算段をし、深雪に礼を言ってから俺は電話を切った。明日の午後にでも時間が取れるらしい。

電話をまたズボンの後ろポケットにしまってから、俺は空を見上げた。
いつか見た夜空に星が降っていた。



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