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「残念ながら、君の視力が戻ることはもうないだろう」
夕暮れの訪れを予感させる弱い日の光が、少しくすんだ病院の白い壁を、よりいっそうくすんで見せていた。
「すまない。力になれなくて」
見慣れた顔の主治医が辛そうにそう言って頭を下げた。
その頭に混じり始めた白髪に冬の日差しが反射して銀色に輝いているのが妙に印象的だった。
珈琲(コーヒー)を沸かす、ことことという音が薄暗い部屋の中に響く。この音を聞く度に、何故か俺はいつも高校の頃のことを
思い出す。テストの時間、誰もがシャープペンシルの先で黙々と机を叩いていた、無言の教室に響いたあの音を思い出すのだ。
別にそれほどがり勉だった訳ではない。いや、そんなことをテスト中に考えているくらいなのだから、自分で思っていたより
ずっと不真面目な生徒だったのかも知れない。
そんなことはもう何年も前の話だ。
ふと気付くと、何時の間にかその音は止んでおり、その音が凝り固まってできたかのように目前に珈琲が鎮座していた。
湯気が天井まで届いて、それがまだ熱いことを証明している。
「それで?」
どうやら俺は事故に遭ったらしい。どうやら、というのは、つまり俺にはその記憶が無いからだ。後から聞いた話では、
花瓶だか鉢植えだかが俺の頭の上に降ってきたらしい。
一人暮らしの開始と同時に通い始めた高校を卒業して、俺は住み慣れたその部屋から通える大学に入学した。
引越しせずに通える大学を選んだ、と言えば格好が良いので誰かに聞かれた時はそう答えるようにしているが、実際は
自分の偏差値と相談した結果、たまたま其処が妥協点になったというだけの話だ。
専攻はシステム工学。俺の脳の偏り方が明らかに理系への道を指差していたのだが、ごてごてした実験機材やら
怪しげな薬品やらに触るのは嫌だったから、自然とそういう分野を目指していた。いずれにしろ、大学選びと同じであまり深く
考えていた訳ではない。
事故に遭ったのは、そんな大学生活も3年目となった12月のこと・・・らしい。冬としてはどうかと思うような暑い日の日中に、
俺は人気のない住宅の片隅で横たわり、汗の代わりに血に塗れていたそうだ。
その日は日曜日で、特に予定があった訳でもなかったと記憶している。つまり、自分がどういった訳で其処を訪れ、
何故そんな目に遭ったのか、皆目見当がつかないのだ。
次に目を覚ましたのは、といっても事故当日の記憶はすっぽり抜けているのだが、前につまらない怪我で一週間ほど
入院したことのある、その病院のベッドの上だった。
しゅぼっ、という小気味の良い音がして、ジッポライターがマイセンスーパーライトに火を燈(とも)す。それで格好つけた
つもりなのか、紫煙を肺まで吸い込んで、白色の煙に変えてゆっくりと天井に燻(くゆ)らせる。しかし、一連の動作はどうにも
様になっていない。
「それは勿論知っているよ。なにせお前とは付き合いが長いし、大きな事故だったみたいだから、すぐ耳に届いたし」
吐き出された白い煙は、そんなことを言いながら天井付近でゆらゆらと踊っている。
「俺が知りたいのもお前が話したいのも、そんなことじゃないんじゃないのか?」
視線を下に戻す。煙と言葉の主はいつもの訳知り顔で先を促した。
「まあ、お前が此処に独りで来たこととか、今の様子でだいたい状況は解るのだけれどね。
でも、もう少し事情を詳しく話してくれよ」
オートマチックのギアが強制的にセカンドに入れられ、エンジンが不満げな声を上げる。先行車が急ブレーキでも
掛けたのだろうか。
退院の日。病院に迎えに来たのはえらく久しぶりに会った兄であった。
地方の大学を優秀な成績で卒業した3つ年上の俺の兄は、今は大手カメラ会社の営業マンをしている。社会人生活も
3年目に入り、仕事も忙しくなってきていることだろうに、永らく疎遠になっていた弟の為に、わざわざ勤め先の都合をつけて
来てくれたのだという。別にそのせいでもないだろうが、始終無言で顰(しか)め面をしていた。
大学を中退して実家に帰って来ないか。兄のその言葉を、俺は適当に理由をつけて断った。色々と考える時間が欲しい、
面倒を見てくれる娘がいるから当面は大丈夫、そんなことを言ったような気がする。二番目の言い訳は信じて貰えなかったし、
勿論嘘だから半ば冗談のようなものだったが。一つ目は本当だったが、兄が想像している内容とはやや隔たりがあるだろう。
本当の理由は、もっと馬鹿馬鹿しいのだ。
何気なく首を傾ければ、すっかり丸裸になった街路樹が見慣れた住宅街の景色を切り取っていくのが助手席の窓から視えた。
風切り音がして、対向車線を車が通り過ぎた。目で追ってみるが、それはすぐに見えなくなってしまった。車に詳しいという
こともなく、別に興味もなかったが、何故かそれが妙に気になった。
「今の車、凄かったな」
兄が数分ぶりに口を開く。別に無口な性格ということもなかった筈だが、今日は沈黙を保っている。
「何が?」
「ああ。いや、すまん」
気まずそうな顔をして口篭もる。つまり、時速40キロメートルで移動する密室に沈黙を作り出しているのは、この不可解な
状況なのである。
俺は自分の状況を理解できない。
兄の方も、もちろん俺の状況など理解している筈もないだろう。
こんな状況で会話が弾む筈もない。
俺はこっそり溜息をついた。どうやら、あの車がどう凄かったのかは、迷宮入りの謎になりそうだ。
一週間。それが兄が俺に言った期限だった。今のままで良い訳がない、一週間経ったらとにかく一度実家に帰り、
これからのことを考えよう、とのことである。俺はその言葉に曖昧に返事をし、螺旋階段を上って自分の部屋の扉のノブに鍵を
差し込んだ。別れ際、兄は俺の姿を不思議そうに眺めていたが、結局独りで帰っていった。俺は狭い部屋の窓を開けて
その姿を見送った。
入院中兄が何度か訪れた筈なのだが、部屋は事故に遭う前の状態と何ら変わった風もなかった。年も明けたというのに
カレンダーは相変わらず2004年の12月を主張している。テレビでも点けようか。そう思ってリモコンを探したが残念ながら
見つからず、さりとてテレビの前までの2メートル弱の距離を踏破する気にもならず、俺はそのままベッドに倒れ込んだ。
色々な事が頭に浮かび、軽く混乱していた。主治医の残酷な、いや、残酷な筈の言葉。入院中、見舞いに来てくれた兄や
友人達の悲しげな表情。それらは同じ事柄を示しているにも関わらず、全く矛盾していた。
俺は狂っているのだろうか。事故のショックでおかしくなり、妄想の中にいるのだろうか。いかにもありそうな話だが、狂人は
自分のことを狂人だと疑いはしないと昔読んだ小説の登場人物が言っていたような気もする。
ふと、耳元で不快な音がして思考が中断した。何時の間に入って来たものやら、ベッドの淵に何処にでもいそうな羽虫が
とりついている。この時期に蚊でもあるまいし、そう思って構わずにそれをぼんやりと眺めているうちに、突然ある友人の顔が
思い浮かんだ。いや、もしかするとそれは狂人、という思考から導かれたのかも知れない。いずれにしろ、こんなことを
相談するには恰好の相手だ…気の利いた答えを期待するのでなければ、だが。
立ち上がってお気に入りの黒いジャンパーを羽織ると同時に、ズボンのポケットに突っ込んだ携帯電話をまさぐる。
登録してある電話番号を呼び出しながら靴を履く。
時計を確認する必要は無い。俺の特技の一つで、その日の起きぬけに一度時刻を確認すれば、睡眠を挟まない限り
何時間経っていても時刻を分単位の精度で言い当てることが出来る。今はまだ6時を廻ったかといったところだろう。
遅すぎるという時間でもない筈だ。もっとも、深夜になっていようと、用事によってはインターホンを鳴らすこともある、それぐらい
気の置けない友人の部屋ではあるのだが。
部屋を出る。携帯電話を持って出ると、俺の部屋で時刻を刻むものは何一つ無くなる。
「全く。突然訪れて人のことを羽虫だとか狂人だとか、失敬極まりないな、お前は」
2杯目の珈琲がカップの底で染みに変わっていた。即席の灰皿となったビールの空き缶の底には、彼としては速い
ペースで、俺は吸わないので缶の中の煙草は全て彼の肺を汚すために消費された訳だが、既に4本目の吸殻が
吸い込まれようとしている。
「だいたいなんで俺にそんなことを相談に来たんだよ。俺は医者でもないし、科学者でもないし、ましてや預言者でもないぜ」
「他の人間に話して可哀相な人だと思われるのが嫌だったんだよ。その点お前なら、百歩譲って狂人でなかったとしても
変人だからな。問題ないだろう」
4本目の煙草を空き缶の口に突き刺して、さも心外だとばかりに顰め面を作り、彼が新しい煙草に火を燈ける。既に部屋は
白い煙で満たされ始めている。寒いので換気をしていないのだ。
「趣味なんて人それぞれじゃないか。だいたいお前だって、いつも俺の話を愉しそうに聞いているじゃないか。おあいこだ」
「そっちがさも愉しそうに話すから、聞いてやっているだけだよ。だいたい変人かどうかなんていうのは大概趣味で決まる
ようなものじゃないか。分野といい知識といい、まさにお前は折り紙つきの変人だよ。」
我ながら的を射た台詞が言えて、少し得意になる。珈琲を飲もうとして、既にそれが染みになっていることを思い出して手を
止めた。こんなとき、視線をそらして草煙を吹かせれば気持ちが良いのかも知れない、ふとそんなことを思いつく。
世の喫煙者は、案外そんなつまらない理由で煙草を吸っているのかも知れない。
先程までの憂鬱は去りつつある。彼は気の利いた反論を思いつけない様子で口篭もっている。俺は畳み掛けるように
断言した。
「いや、やっぱり狂人だよ。自分のことを魔術師だなどと豪語する奴は」
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