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耳が痛い程の静寂が其処には在った。人間の勝手な都合で打建てられ、そして見捨てられて捨てられた、
穢れまみれている筈のその場所が、今はまるで聖域のような神聖な雰囲気を醸し出していた。
もうこれで何度目になるのだろう、この場所を訪れたのは。誰にも省みられることなく忘れられたままのこの廃マンションが、
どういった訳かこの一週間、常に俺の傍に在ったような気がする。排気ガスで黒く汚れたその壁は、今は薄い雪を飾って
さながら死に装束を纏っているかのように視えた。
ならば、それは一体誰が為の手向けか。幻想の中に逃げ込んだあの少女か、彼女を追い求めて消えた気弱な新任教師か、
それともその誰でもない他の誰かの為なのか。
その答えを知っているのはこの幽霊マンションだけ。今は死した彼がその問いに応えてくれる筈もなく、彼はただ無言で
今日と言う日に此処を訪れた俺達を哀れんでいた。
あれから二十分程待ってみたが、結局邑上は戻って来なかった。
「きっと逃げられちゃって、恥ずかしくて戻るに戻れなくなったのよ。良い加減な奴なんだから」
深雪のその言葉は果たして誰に向けられたものだったのか。あの少年と邑上が残していった足跡も消え、
何時の間にか世界には俺と深雪の二人きりになっていた。
予想外の追走劇の興奮も肩に落ちる雪が冷やすと、深雪は本来の目的を思い出してしきりに先を促した。
確かに此処でただじっと待っているだけでは辛い寒さになっていたし、幽霊マンションで俺達の到着を待っている筈の
赤井 雪江にしてもそれは同じことだろう。俺達は邑上を置いて先を急ぐことにした。
さんざん弟の悪態をついていた深雪は、それでも多少は心配しているのか、邑上が消えて行った方をときおり振り返っては
眺めていた。
そうして今、俺達は幽霊マンションに降り注ぐ雪を踏みしめている。
「…行きましょう」
自らに告げるように深雪がそう呟く。雪を背負った幽霊マンションの荘厳な雰囲気に当てられて沈黙していた俺は、
その言葉で我に返った。一歩遅れて深雪の後ろについていく。かつて赤と黒の毒々しい花を咲かせていたこの広場も、
今はそれを恥じるように純白を称えていた。その白い絨毯の上に、俺と深雪の足跡が残されていく。
ふと顔を上げると、片脇の植え込みが目に止まった。生命の象徴である緑を咲かせなくなってからどれ程の月日を
耐えてきたものか、枯れきった枝はそれでもまだ生きることを止めてはいない。身を隠す葉を喪って歪なその姿を晒していた
彼らも、今は白い雪によって守られている。踏みしめる地面を覆うそれよりも幾分厚く積もったその雪に触れたくて、
俺は植え込みの方に近づいた。
その時何か硬く小さなものが足に触れ、俺は指先が雪に触れる寸前で足を止めた。
「其処、危ないよ。足元に陶器の破片みたいなのがいっぱい落ちているから」
俺の子供っぽい行動がおかしかったのか、振り返った深雪は幽かに笑いながらそう言った。俺は少し照れながら、
足元にあるものを踏みつけてみる。ぱきんと、何か硬いものが砕ける乾いた小さな音がした。成程、確かに何かの陶器の
破片のようなものが沢山散らばっている。雪に塗れて見え難くなっていたそれらが俺の目にも映った。
そういえばこの場所には植木鉢があった筈だ。昨日此処を訪れた時には、確かにそれは正しい輪郭を保ったままで
この位置に在った。それが今は粉々に砕け散っている。昨日のうちに誰かが割ったのだろうか。如何に何処にでもありそうな
安物の植木鉢であっても、雪の重みだけで自然に割れることはないだろう。そもそも、雪はまだそれほど厚く積もってはいない。
昨日、此処を誰かが訪れたのだ。訪れて、そして植木鉢が割れるような何かをした。赤井 雪江と須藤 寛一だろうか。
こんな辺鄙(へんぴ)な場所に、それもあんな寒い夜に訪れる人間など他にいないだろう。何より、俺は昨日此処で彼らに
逢っているのだ。ならばやはり赤井 雪江だろう。
昨日俺が彼女と別れた後、此処で二人に何かがあったのだ。そして赤井 雪江は帰らなかった。深雪の読みはどうやら
正解だったということか。
「行きましょう。雪江さんが心配だ」
あの厳かな棺のような幽霊マンションの中で見ることになるだろう惨状を想い、俺は深雪を促した。やや早歩きで距離を
詰めて彼女の隣に並ぶ。
「あたしは最初からそう言っていたわ」
深雪が苦笑しながらそう応える。歩幅の違いか、やや早歩きになりながらも俺に合わせてくれた。俺達はまた無言になって、
白い景色に穿たれた黒い穴のような幽霊マンションの入り口を目指した。昨日の俺達を見送ってくれた植木鉢も今はもう無い。
誰にも迎えられることもなく、俺達はその白と黒の境界を踏み越えた。
何処かで重い扉がゆっくりと閉じるような音がした。気のせいか、この廃マンションの玄関には扉など無いのだから。
或いは、それは棺の蓋が閉じる音だったのかも知れない。
「うわ…酷い…」
玄関ホールに入って闇に目が慣れてきた途端、深雪が唖然としてそう漏らした。今は自分の見ているものが
信じられないかのように、辺りをきょろきょろと見渡している。それも無理のないことだろう。先程まで雪の敷き詰められた
あの広間から同じ白によって飾り付けられたこの美しい古城を見上げていたのだから。
一種神秘的とすら言えるその景観とは対照的に、今俺達が居る玄関ホールの汚れ具合は相変わらず凄まじいものだった。
いや、単に汚れているというだけであれば、排気ガスを吸い込んで黒ずんだあの外壁も大差はない。現に昨日までは、
それは疑いようも無く誰の目にも荒んで見えたことだろう。しかし今目の前に広がる醜さは、それと比べてさえあまりにも
酷いものだ。あちこちに撒き散らされた塵屑、申し訳程度に退けられただけの空き缶やペットボトル、朽ちかけて黴臭さを
漂わせる雑誌類の山。同じ捨てられたにしても、忘れ去られたまま取り残されたものと、故意に捨て置かれ
無視され続けたものでは、そもそも汚れの質が違うのだ。人間の欲や身勝手さやよって生み出された汚れは時がそれを
洗い流すことはないし、美しい色彩で覆い隠すことも出来ない。どちらも、その醜さを浮き彫りにするだけだ。
なまじ先程まで美しい外観を眺めていただけに、そのギャップに此処のことを知っていた俺でさえうんざりした程だ。
初めて此処に足を踏み入れた深雪にとっては、この風景は正に餓鬼道といったところだろう。
「はあ…本当に酷い有様ね。此処をこんな風にした人達は、こんなになるまで良くこんな所に居られたものね。
霧子ちゃんは何故こんな場所にいたのかしら。それに雪江先輩も、何故こんな所に来たのかしら…」
深雪がいちいちもっともなことを言う。それでも何かの手掛りになると思ったのか、黒ずんだ紙屑の一つを嫌そうに拾って
調べている辺り、やはり血は争えないものだ。
「此処には雪江さんは居ないみたいですね」
そう言う俺はというと、少し拍子抜けした感じだった。赤井 雪江が、控えめな表現をして自分の部屋に帰るに帰れないような
状況になっているとしたら、まず間違いなくこの場所だと思っていたからだ。彼女が此処より奥に足を踏み入れる理由は
無いだろうし、須藤 寛一に至ってはそもそもこの幽霊マンションの入り口を潜る理由すらない。
此処から先には何も無いのだ。それならばこの凄まじい光景を目にすれば誰もが引き返そうとするだろうし、
何かが起こるとしてもこの場所でだろうと思っていた。
だが、今この場所に彼女はいない。如何にあらゆるものがごみごみと置かれているといっても、人一人が隠れる程
大きなものはこの玄関ホールには無い。
「あたりまえじゃない。雪江先輩だったらこんな場所1分と居られない筈だわ。先輩、ちょっとした潔癖症みたいなところが
あったし」
確かに赤井 雪江にはそんなイメージがあった。部屋のインテリアの配置の違いや放置されたビールの空き缶程度でも
他人に異常を悟らせるくらいなのだから、実際にその通りなのだろう。では、彼女は一体何処にいるのだろうか。
…問うまでもない疑問だ。この幽霊マンションで、人がその身を隠せる場所はあと一つしか無いのだから。
「ううん…何だか先に進みたくなくなって来たわね。本当にこんな所に雪江先輩は居るのかしら。
ねえ、直人君。君、何度か此処に来たことがあるんでしょう?この建物の中で他に雪江先輩が行きそうな場所ってある?」
「俺の知る限りでは、一部屋だけ扉に鍵が掛かっていない部屋がありました。埃は積もっていたけれどそんなに汚くは
なかったし、狭い部屋だからある程度寒さも凌げると思う。それに…」
それに、あの部屋は加嶋 霧子が居た部屋だ。赤井 雪江がそのことを知っている筈はないが、それでも何かしら
惹き付けられるものがあったのかも知れない。あれ程までにあの少女のことを想っていた彼女なのだから。
「雪江さんがいるとしたら、多分その部屋だと思います」
「…そうね、まず其処を探してみましょう。その部屋にいなかったら、また別の場所を探せば良いんだし」
促され、俺は深雪をあの部屋まで案内することにした。汚らしい塵達を横目に、その奥にある扉に向かって歩いて行く。
冬の外気へと続く扉から、冷たく澄んだ空気が雪と共に流れ込んでいた。すえた空気から解放されて、深雪が安堵の
溜め息を漏らす。外に降る雪はもはや粉雪などではなくなっていて、積もっていた筈の廊下の埃はより白いものに
その居場所を譲っていた。転ぶかもしれないと、今日の空とは違う空色の手すりに手を触れると、驚く程の冷気が
其処から伝わって来て俺は手を離した。手袋をしてくるべきだったかも知れない。振り返ると深雪も同じようなことをしていて、
こんな時だと言うのに俺は何だか微笑ましい気分になった。
「何?どうしたの?」
「いや、別に。深雪さんも転ばないよう気を付けてください」
俺のその言葉をどのように受け取ったのか、深雪は少し拗ねたような顔をした後、小走りに距離を詰めて
俺のジャンパーの端を掴んだ。どうやら俺は手すりの代役に任命されたらしい。それも良いだろう。こうしていれば俺の方も
転ばずに済むし、それに僅かなりともこの寒さを和らげることが出来る。両手でしっかりと掴まれた背中から、深雪の温もりが
幽かに伝わってくる。
「ねえ、直人君」
思っていたよりもずっと近い距離から声がして、不覚にも俺はどきりとしてしまった。何時の間にか深雪は背中から俺の脇に
移動していて、上目遣いで俺の顔を覗き込んでいる。
「何ですか?」
「前にも聞いたけど、どうしてそんなにまでして霧子ちゃんのことを探すの?此処に来たのだって、本当は彼女の手がかりを
探す為なんでしょう?」
深雪のその言葉は、いつもの彼女とは違う響きを持っていた。俺を覗き込むその瞳も、いつもの深雪とは違う色の光を持って
俺の目を覗き込んでいる。
深雪は何時の間にか俺の知らない少女になっていた。いや、この少女とは前にも一度逢ったことがある。一昨日の夜、
蒼い月に染められた霧の煙る夜に逢った、邑上 深雪でも加嶋 霧子でもない少女。
「どうしてって、今日は雪江さんを探す為に来たんじゃないですか」
そんなものは幻想だ。今俺の隣に居るのは、間違いなく俺の悪友の姉である邑上 深雪に他ならない。それなのに、
何故こうも別人のように謎めいて視えるのだろう。何故そんなことを言うのだろう。
「今日貴方を連れ出したのはあたし。でも、前にも霧子ちゃんを探しに此処まで来たことがあったんでしょう?
もう居ないってことが解っているのに、それなのに此処まで来てこれから行く部屋まで探しに行ったのでしょう?
今日だって、此処に来たのは本当は深雪先輩の為ではないように見えるよ。
どうして?そんな子、本当は存在していないのかも知れないのに」
俺の傍らにいる少女は俺にそんな言葉を投げかける。その視線は俺の両目を突き刺して動けなくする。その両手は
俺のジャンパーを掴んでいて逃がしてはくれない。その言葉は、考えないようにしていたその命題から目を背けることを
許してはくれない。
「…加嶋 霧子は存在していますよ。それは、今はもうこの世に居ないのかも知れないけれど、それでも俺はあの日此処で
彼女を視たのだから」
その時、貴女は隣に居たではないですか。
「…あたしはそんな子、見てはいないわ。あたしは一度だって彼女に逢ったことはないもの。雪江先輩に写真を
見せてもらっただけ。それにしたって、あの写真に写っていた子と直人君が視たっていう子が同じ人物かどうかなんて
判らないじゃない。それなのに、どうして今も直人君は此処に居たかも知れないっていうだけの女の子を探しているの?」
見知らぬ少女は責めるように俺に問いかける。俺はそれに答えられず、ただ沈黙する。あの写真を受け取った翌日から、
俺はそのことに疑問すら抱かこうとしなかったのだから。
神を信じるか、という問いかけにどれ程の人がYESと答えるのだろうか。世界の半分くらいの人間はそう答えるのかも
知れない。では、太陽は本当に在るかという問いかけにはどうだろう。おそらくは殆どの人間が問いかけの意味が解らず、
ただ怪訝な顔をするだけだろう。
人が何かを信じるということには二種類あるのだ。一つは疑う前提で信じること。
そしてもう一つは呼吸をするように信じること、つまり妄信することだ。前者は一見信じているようでいて、その実そうではない。
本当に疑いを持っていないのなら、問いかけの応じることすらない筈なのだ。その答えがいずれであれ、問いかけに
応じるということは疑っているということなのだから。
だが、本当は太陽は其処には無い。太陽の光が地球に届くまでおよそ8分かかる。俺達が目にしているのは常に8分前の
太陽に過ぎず、地上に住まう人間が何時見上げてみようと、本当の太陽は其処には無いのだ。
俺にとって加嶋 霧子という存在はそのいずれだろうか。勿論、その存在は信じて疑いようがない。赤井 雪江が、いや、
世界が狂っているのでなければ、その存在は確かに在った筈だ。だが、俺が視た少女が加嶋 霧子である
ということについてはどうだろうか。それを裏付ける根拠は何処にも無い。そもそも、あの日俺が彼女を視たという証拠さえ、
俺の世界の外には存在していないのだ。ならば、そんなことは疑って当然ではないか。
だが、俺はそれを疑わなかった。疑おうとしなかった。だがそれは決して妄信していたのではない。自分がそれに
疑っていることを、信じようとしなかっただけなのだ。疑ってしまえば、もう二度とあの少女と出逢うことが出来ないから。
何故そんなにまでして俺は、彼女を必要としているのだろうか。
答えは出ない。解っているのは、俺の世界にはあの少女が必要だということだけだ。
「ねえ直人君、貴方は本当にその子のことを視たの?その子のことを知っているの?」
止めとなる筈のその問いかけは、しかし答えを望まれることは永遠に無かった。その言葉から俺を救ったのは、
ただ時間とその間に歩みを止めなかった俺の無意識だった。
目の前に現れた奇怪なその扉を前に、深雪が息を呑む気配が伝わってきた。何時の間にか、俺達はこの開かずの部屋の
扉の前まで来ていたのだ。扉一面に貼りつくされた御札は、本当の意味で効果のあるものなのかどうかは判らない。
だが其処からは、確かに来るものを拒み出るものを逃がさんとする意思が溢れ出している。それだけで、間違いなく
この扉は結界だった。
その結界を前にして、その異様さに深雪は目を丸くしていた。唖然とした表情を浮かべる彼女は、先程まで俺の傍らに居た
あの見知らぬ少女ではない、間違いなく俺の知っている邑上 深雪だった。それなら今までの会話もきっと忘れてくれている
ことだろう、俺は救われたことを確信した。ならば俺も、今までの会話は忘れることにしよう。
「この部屋です、鍵が開いていて中に入れたのは」
なるべく素っ気無くなるように気をつけながら俺は言う。深雪はしばし、開いた口が塞がらないかのように呆然としていた。
この辺りの反応も、姉弟そろって全く同じものだ。やはり血は争えないものらしい。
「あの…本当に此処なの?本当に此処に雪江先輩がいるの?」
少し震える声で深雪が問う。視線は扉に貼り付いたままだ。確かに、こんな薄気味の悪い扉の向こうに人が居るなどとは
信じ難いことだろう。そもそも、この結界を越えて行こうなどと考える人間が居ること自体が信じ難い。
例えこの幽霊マンションで鍵の掛かっていない部屋が唯一此処だけだったとしても、だ。俺なら、もし選ぶことが出来るのなら、
強引に鍵を壊してでも他の部屋を選ぶだろう。間違っても、こんな扉のノブに手をかけたりはしない。
「居るとしたら、多分此処です」
だが、今は選択の余地などない。あの少女が居たのはこの部屋だろうし、赤井 雪江がいるとしたらこの部屋以外には
考えられないのだ。
昨日と同じように、俺はその扉のノブに手を伸ばす。
鍵は…やはり掛かってはいなかった。
「ちょっと、直人君?」
深雪の躊躇する声が遠く聞こえる。俺はその声を無視して扉を開いた。
そうして俺はこの結界を踏み越えていく。現実と虚構を隔てるその境界を。
扉の向こうは、予想通り外気よりは大分暖かかった。それは勿論、一夜を此処で過ごすことが出来るというレベルではく、
飽くまでも外気と比べればという程度である。だが、この部屋には毛布があった筈だ。あれに包まっていれば、
何とか冬の一夜を耐え忍ぶことも出来るだろう。本人にその意思があれば、だが。
雪ではなく埃の積もった廊下をゆっくりと俺は歩いて行く。錆びたステンレス製のシンクや、俺には視ることの適わない
暗闇によって閉ざされた空間を横切る。後ろから、慌てて深雪がついてくる気配がするが、構わず俺は歩を進める。
長い数歩の距離を踏み越え、再び俺は何も無いこの部屋に足を踏み入れた。主を喪い忘れられたままのその情景は、
昨日と寸分違わぬ姿で今日も俺を向かい入れた。
赤井 雪江は…居ない。
何故だろう、俺はそのことに何の感想も抱けなかった。ただ俺は機械的に歩みを進め、無意識に丸められた毛布に
手を伸ばそうとしていた。
その時、何か柔らかいものに足をとられ、俺はバランスを失って床に膝をついた。
これは何だろう。木材や石材、金属のような確かな輪郭を持った硬さは無く、さりとて毛布や生物のような弾力も無い。
冷たくも暖かくも無く、そして少し湿っている。
ああ、そうか。此処に何か在ったとしても、俺には視えないのだったっけ。昨日此処には無かった何かが今日は確かに在って、
今俺はそれに触れているのだ。
赤井 雪江だろうか。いや、赤井 雪江だったものか。手に触れる感触は明らかに生きた人間のそれではないし、
生きているならこれほど反応が無いということもないだろう。やはり手遅れだったのだ。俺は場違いにも冷静にそう思考する。
いずれにしろ、深雪に確かめて貰わなければ埒が開かない。俺は振り向いて彼女を呼ぼうとした。
その時、突然視界がぶれた。
何だろう、地震だろうか。しかしその衝撃は一瞬だけ。ただその余韻だけが、鐘の音のように消えずに俺の頭の中に
響いている。
振り向いた先に深雪がいた。何時の間にか俺のすぐ傍まで来ていて、膝を突いた俺を感情の無い貌で見下ろしている。
その口がしきりに何か言っているような気がするのだが、何故だろう、耳が遠くて良く聞こえない。
つうと、俺の額から何かが流れ落ちてきた。汗だろうか、手に触れてみるとそれは思ったより生暖かくて粘性があった。
それが目に入りそうになって、俺は手で顔を拭う。刹那視界が赤く塗り潰された。
再び目を開けて前を視ると、先程までと変わらぬ姿勢のままで深雪が立っていた。
そう、何も変わらない。
先程までと何も変わらない。
その右手に、血に濡れた鉄パイプを握っていることを除いては。
先程までは何も無かった筈のその手に、瞬き一つの間に凶器が握られていた。
割れた額から血が溢れ出る。拭いようもなくそれが目に入り、深雪の貌が赤く霞んで良く視えない。
自らの身に起こったことに疑問を抱く間もなく、俺の意識はその赤に向かって墜ちていった。
殴られた時は聞こえなかったのに、額が床に打ち付けられる重い音は何故か強く俺の耳に残った。
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