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「まさか本当にあるとはね。それもこんなにあからさまとは。このマンションの噂の中では、一番胡散臭いと思っていたんだがな」
火傷した唇をさすりながら、邑上が言う。昨日のコーヒーポットの件といい、火難の多い男だ。友人としては、
ざまあみろと言ってやるべきなのだろうか。
「貼られている札に統一性が無いな。お前の怪しい知識で何か分からないか?」
邑上の真似をしても仕方がないので、俺は扉に目を向ける。
「俺の専門の類は混じっていないようだが、神式から仏教から新興宗教っぽいものまで、節操なく貼られているみたいだな。
何だかお手製みたいなのも混じっているぞ」
改めて視ると、確かに貼られた御札はサイズも図面も紙質まちまちだ。共通して言えることは、どれも古くて
日焼けしているということだ。雨に打たれたのか、ボロボロになったものや剥がれかけたもの、破れかけたものまである。
特に、扉の淵をはみ出して貼られた御札は、例外なくその輪郭にそって破れていた。
扉一面にほとんど隙間無く貼り埋められた御札。その中にあって唯一あるべき姿を保っているのは、鈍く輝くドアノブだけだ。
そのノブに俺は恐る恐る手を伸ばす。握ったノブは冷たい。開くこと、開かないこと、俺はそのどちらを期待し、或いは
恐れているのか。ゆっくりとそれを捻ると、今まで調べた扉とは異なり、それは途中で止まることなく、
およそ四分の一回転したところでガチャリと何かが外れる音がした。
「鍵は…掛かっていないみたいだな」
「開かずの扉が開いて、そうでない扉が全て閉ざされているというのも良い加減な話だな。まあ良い。入ってみよう」
邑上はこともなげに言うが、俺はまだ決心がつかないでいた。いつか邑上とした、開かない宝石箱の話を思い出す。
その箱は、開かれていない状態でのみ価値を持つという。開かない箱は、開いてしまえば箱ですらなくなってしまう。
ただの、何かの容れ物だったモノに貶められてしまう。
この扉もきっとそうなのだろう。開かずの部屋は、扉が開かないからそう呼ばれるのではない。開けないという約束が
守られているからこそ、開かずの部屋なのだ。ならば、それを開けるのは酷く冒涜的な行為だろう。成程、御伽噺で禁を破った
愚者が悲惨な目に遭うのも当然だ。
そしてまた、此処に愚者が二人。
「どうした?まだ躊躇っているのか」
邑上が急かす。
もし俺がこの扉を開けなければ、加嶋 霧子を巡る冒険はこれで終わり。俺は一生、彼女に想いを馳せて生きていく
ことになるだろう。それはそれで魅力的な人生かも知れない。逆にの扉を開けてしまえば、俺は其処にある現実を
受け入れざるを得なくなる。それが例え、どんなものであったとしても。どうしようもなく救いの無い絶望であったとしても。
一筋の光明も無い、完全な虚無であったとしても。
それでも俺は、彼女を追い求める。
「開けるぞ」
俺はゆっくりと、取り返しのつかないその扉を開く。思いの他滑らかに開いていくその扉の隙間から漏れ出した闇が、
俺の世界を侵食していく。
そして、其処に彼女は居た。
「どうした、誰か居るのか?」
ナイフのように鋭利な冬の日差しが、部屋を塗り潰した暗闇を切り裂いた。
振り向くと、邑上が俺の後ろから隙間に手をかけて扉を開いていた。
「どうかしたのか?」
「邑上…いや、部屋の中に誰か居たような気がして…」
俺がそう言うと、邑上は俺を押しのけて開かずの部屋、既に開かずの部屋ではないが、に入って行った。
「ふうん?でも、誰もいないぜ」
大きく開かれた扉から、部屋の中に溜まっていた闇が流れ出す。照らし出された部屋の中には邑上以外の誰もいなかった。
「どうだ、視えるか」
邑上が、この部屋の中が俺にも視えるか、つまりこの部屋が俺の記憶にあるかを問う。
部屋の中は汚れてはいたが、荒れてはいなかった。掃除された様子は勿論無く、元はフローリングの一部だったであろう
木片がいくつか散らばってはいたが、さほど埃が積もっているようでもない。勿論普通の部屋よりは遥かに汚いし、
俺や邑上の部屋と比べてもそれは同じことなのだが、玄関ホールの荒れ具合や廊下に積もった埃から考えれば、
この部屋は驚くほど綺麗だった。
何より、この部屋はまだ生きている。この部屋の空気は、誰の世界からも忘れられ、朽ちるままになった空間のものではない。
或いは俺が扉を開いたことで息を吹き返したのか。開かずの部屋は、開かれることによって別の何かに転生したのだろうか。
「視えるよ」
俺は答える。
「そうか。なら、お前はここまで入って来たことがあるんだな」
邑上が独り言のようにそう呟き、ポケットをまさぐる。煙草の箱を取り出した邑上は、しかしそれに火を燈すことなく
再びポケットに仕舞い込む。おそらくは邑上も、俺がこの部屋に感じたものと同じものを感じたのだろう。
邑上は主の許可の無い限り、他人の家で煙草を蒸かすことは決してしない。
「入ってみよう」
自分に言い聞かせるように呟いた俺の言葉に、邑上が頷く。開いた時はあれほど滑らかだった扉は、閉まるときには
やけに重たく感じられた。
事故に遭って視覚を失ってから一つだけ特をしたことがある。夜目が効くようになったことだ。勿論今までに
視たことがある場所限定ではあるが、昏い場所での位置感覚は以前よりも鋭くなったように思う。昏い場所、
或いは完全に闇に閉ざされた空間に居ても、本来其処がどのように視えているかとは別に、其処にある筈のものが判るのだ。
夜目とは少し違うかも知れない。視覚と聴覚と触覚がごちゃ混ぜになったような感覚、或いはそのどれとも異なる新しい感覚を
得たような。上手く説明することは難しいが、とにかく見覚えのある闇の中でだけは、俺は以前よりも自由だ。
「昏いな。外はまだ明るい筈だが、カーテンでも閉まっているのかな」
一方正常な視覚を有する邑上の方は、この暗闇がお気に召さないらしい。仕方なく俺は閉めたばかりの扉を再び開き、
落ちていた木片を噛ませて固定する。幾分マシにはなったが、それでもなお部屋の中は薄暗い。
本来は靴を脱いで歩くべき床に、俺達は土足で上がり込む。錆びないという意の名前を裏切って僅かながらの錆びを
浮かせたステンレス製のシンクの洗い場、水気の無いトイレと浴槽、おそらくは物置か何かなのだろう、
俺の目には闇としか映らない空間を横切る。たいして広くもない部屋だ、程なくして俺達は其処に辿り着いた。
八畳程の空間。その暗闇を守る所々壁紙の破れた壁が見下ろす、冷たい床。
割れたガラスを遮ってそよぐカーテンの隙間を抜けた光が照らし出すのは、丸まった毛布と一脚の古びた椅子。
もはや帰らぬ待ち人を想うように揺れるそれが、哀愁にも似た何かを俺に伝えてくる。息苦しくなり、俺は胸を押さえた。
仄かな日の光よりもさらに儚い光が、それが見える筈も無い俺の瞼を刹那閉ふさぐ。
「誰も…いないな」
どれくらいの間無言で立ち尽くしていたのだろうか。その沈黙に耐えかねるように邑上が呟く。
「ああ…誰も、いないな…」
そんなことは俺にも邑上にも判っていた筈だ。だと言うのに、何故こんな言葉を口にしてしまうのか。
空虚な部屋だった。この部屋は、今日この廃マンションで目にしたどの部屋よりも空虚だった。
訪れる者を待つことを止めてしまった入り口も。
尊厳を踏みにじられ、陵辱の限りを尽くされた玄関ホールも。
埃の積もった廊下も、閉ざされた無言の部屋達も。
青空に憧れ、置いていかれたように水色を錆びさせる螺旋階段も。
それらは確かに冷たい虚ろを抱えていた。彼らと比較すれば、この部屋の状態は随分とマシなように思える。
だと言うのに、僅かに洩れた風と日に慰められるこの部屋は、そのどれよりも深い虚ろも抱えていた。
そうだ、この部屋には何かが足りないのだ。天才が完成させることなく世を去った一枚の絵のように、
この部屋を彩る筈の存在が喪われている。
この部屋はそれを嘆いている。
「何も…無い」
知らず洩らしていた俺の言葉に応えてくれる者は、もうこの部屋にはいない。
カーテンを開いて、何も無い部屋にせめて陽光を招き入れる。朽ちかけカーテンは、それでも破れることなく差し込む光に
道を譲った。
暗闇に慣れた目に日差しが沁み…沁みたような気がして、俺は窓に背を向けた。明るく色あせた部屋に中で、
邑上が座り込んで何かを探していた。
「何かあるのか?」
俺も座り込み、邑上の視線の先に目を向ける。
「髪の毛と、何かの食い物の残りかすらしきものが少し。髪の毛は俺達のじゃない。割と長いから、多分女性のものだろう。
食い物の方は、小さすぎてちょっと分からないな。パンか何かの欠片だと思うが、駄菓子の類まで考えると種類が
多すぎて特定出来ないし、そんなこと分かっても仕様がないし。ただ固くなっているから、ここ最近のものではないと思う」
そう言って邑上は何かを摘み上げ、そのまま指で押し潰した。それは容易く砕けて、砂のような破片をぱらぱらと床に落とす。
「加嶋 霧子のものかな」
「さあな。でも、ここまで符号が一致すると、その可能性は高いと思う。否定する要素も無いしな。あえて挙げるなら、
若い女の子が何日も住むには、此処はあまりお勧めできる環境とは言えないということくらいじゃないか」
邑上はそう冗談めかして言った後、おもむろに立ち上がった。うん、とばかりに背を伸ばす。
「可能性って、彼女が此処に住んでいたことはもう確かなことと言って良いんじゃないか?」
俺も腰が痛くなったので立ち上がる。立ち上がってしまうと、もはやこの部屋に見るべきものは何も無い。仕方なく、
俺は窓から覗く彼方の空に目を向ける。
空は相変わらず青く、その彩に置いていかれたこの部屋はセピア色だ。その中で揺れる一脚の椅子は、
まるで存在しなかった過去の記憶のように儚く、今にも消えてしまいそうな程に現実感に乏しかった。
「どうかな。かつて此処に一人の女性が居て、この部屋で食事を取りその毛布で眠り、そして今はもう居ない、っていうのは
確かだろうけどな。でも、彼女が加嶋 霧子であると証明する情報は一つも無い。時期の一致と頼りない噂と、
もっと頼りないお前の直感だけさ」
椅子に手を置き、邑上が呟くように話す。その表情は、この部屋の中にあっては達観した老人のように視えた。
「実は此処に彼女の日記なり覚書きなりがあることを密かに期待していたんだけれどね。この様子じゃ、
それを探そうとすることすら難しいな」
この部屋の中には何も無い。箪笥も衣装ケースも、鞄やバックの類も見当たらない。開かれてしまった宝石箱には
幻想を隠すことが出来るような空隙はもはや存在しない。もし逆にこの部屋ががらくたで埋め尽くされていたなら、
俺は何かが見つかるまで彼女の残り香を探し続けるただろう。
例え、この目が何も映さなくなっても。
何も無いということが、解っていたとしても。
でもこの部屋は、そんな俺の逃避すら許してはくれない。邑上が俺の方を向き直り、厳かに言い放つ。
「ゲームオーバーだ、直人。もう俺達に彼女を探す手がかりは何も無い」
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