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長かった一日が終わって、本日は快晴。昨日の土砂降りの雨も濃い霧もその片鱗すら其処には無く、
耳が痛くなる程高い空からは冷たく澄んだ冬の空気が地上へともたらされていた。
正午。俺と邑上はかの幽霊マンションのレンガ敷きの石畳を踏んでいた。目的は勿論、この建物の探索である。
昨日のチャットによる会談はいくつかの興味深い情報を俺達に与えてくれた。加嶋 霧子という少女の人格、家庭の事情、
学校での様子、彼女の赤井 雪江に対する仕打ちと、その原因がどうやら赤井 雪江の方にあるらしいこと。それらは
加嶋 霧子という少女を理解するのに重要な情報ではあったが、しかし彼女の足取りを追う手助けになってくれるものではない。
此処に至って、またしても俺は彼女を見失ってしまった訳である。
もはや彼女の足取りを追える情報は、俺がこの場所で視た彼女の姿だけ。
そういった訳で、今日俺達は此処を訪れたのである。
幽霊マンション。そんな不名誉な名で呼ばれるその建物の入り口は、漸く此処に辿り着いた間抜けな来訪者達に
呆れるように、無表情で俺達を迎え入れた。
ただ、植え込みの脇に忘れ去られたように置かれた空っぽの鉢植えだけが、地獄の扉を開く無謀な探検家を哀れむように、
そっと俺達を見つめていた。
「どうだ、視えるか?」
邑上が何故か小声で俺に聞いてくる。
「ああ、やっぱり以前に此処に来たことがあるみたいだ」
何故か俺も小声で返す。そんな俺達のやり取りも、しかしこの薄暗い玄関ホールでは反響してやけに大きく響いた。
退院後俺がこの場所を訪れたのはこれで三度目になる。一度目は深雪と共に訪れ、俺だけが彼女を視た。
二度目は昨日の雨宿り。いずれも入り口には入らず、その目前の広間を眺めただけだった。
俺の記憶から喪われたあの日、もし俺がふらりと此処を訪れてたまたまあの少女の亡骸を目撃し、たまたま墜ちて来た
鉢植えだか植木鉢だかに直撃しただけなら、俺はこの奥を見たことがない筈だ。その場合は勿論、今の俺にはこの場所を
視ることは出来ない。おそらくは赤井 雪江を尋ねて彼女の勤める中学校を訪れたときと同じように、救いの無い暗黒が
俺の目を塞ぐ筈である。俺が確かめたかったこととは、つまりそういうことだ。
しかし今、俺の目の前には薄汚れた玄関ホールが広がっている。
「ということはつまり、お前は事故にあった日、確かにこの建物の中にまで足を踏み入れていたということだな。そしておそらくは、
その帰りに加嶋 霧子を目撃し、その直後に頭に鉢植えの直撃を喰らった。まあ同じ日に二度訪れたのかも知れないが、
こんな場所にそうちょくちょくと来なくてはいけない用事があるとも思えないしな」
邑上はそう言ったが、俺には判らなかった。そもそも、何故俺はこの場所を訪れたのか、それが分からない。散歩か何か
特に理由も無くふらふらとこの建物の前を横切り、其処で加嶋 霧子を目撃したのではないかと、今まで俺は漠然と
そう考えていた。しかし、今目の前に広がる風景はその安易な考えを否定している。邑上の言うとおり、俺は確かに
幽霊マンションに用があったのだ。そうでなければ、どんな理由でこんな薄気味の悪い廃マンションの中にまで
足を踏み入れるというのか。
あの日俺は、確かに何かの確信を持って此処を訪れた筈なのだ。そして、邑上の読みが正しければ、その帰りに
あの広場で倒れる加嶋 霧子を目撃し、おそらくはその光景を最後に光を失くした。
俺が此処を訪れた理由。
加嶋 霧子が此処に居て、そして此処で死んだ理由。
俺が光を失くした理由。
それらは本当に無関係で、偶然がたまたま重なった結果なのだろうか。そんなことが現実にあり得るのだろうか。
記憶を失くした今となっては、それは判らない。俺は今始めて、失くした記憶を取り戻したいと切実に願った。
その想いはひょっとしたら、同じ日に喪ったこの両目の光を取り戻したいという願いよりも強いかも知れない。
「それで、お前にはどう視えている?」
「どうって、別に。普通だよ」
唐突な邑上の言葉が俺の思考を遮った。質問の意図が解らず、俺は言っても言わなくても良いような言葉で返してしまう。
「そうじゃなくてだな。お前が視ているものが俺の見ているものと同じだとは限らないだろう。お前に視えているものは
今日この日の風景じゃなくて、前にお前が此処を訪れた日の風景なんだから、俺の見ているものとお前の視ているものを
比べればあの日と今日のこの場所の変化が判るんじゃないか。
こんな人が来そうにもない場所だ。相違があったとしたら、結構な手がかりになると思うがね」
成程、気の利いたことを言う。俺の状態を俺以上に理解しているこいつにしか思いつけないアイデアだ。普段は何かと
余計な発言の目立つ男だが、こんなときは誰よりも頼もしく思えた。とは言え…
「とは言え、この汚れ様では調べようがないと思う。それに、お前にどういう風に見えているのかは解らないけれど、
俺に視える限りでは、あながち人が来ないという訳でもなさそうだよ」
「ああ、やっぱりそうなのか。先入観を持たせない為にああ言ってはみたが、どうやら俺とお前の視ているものは
そう大差がないようだな」
邑上が言う。つまりこの目の前のこの状況は、俺が事故に遭った日から退院してここに訪れた今日まで、そう大きな
変化はなかったらしい。
目の前の状況…老朽化による壁の染みと黴、それ以上に見苦しい壁一面の落書きは多分スプレーによるものだろう。
誰が書いたのかは知らないが、少なくとも良識や芸術的センスを持ち合わせてはいない人物だったのだろう。
赤黒い塗料による染みが象っているのは、判読解釈が出来るかどうかぎりぎり線にある拙い絵と文字。それでいて、
内容が卑猥なことだけは直感的に判るという代物だ。おおよそ、近隣の人々に愛されていない公園のトイレの壁などに
書かれているような内容のものばかりだ。
うんざりして視線を床に移しても、気分が晴れることは決してない。一面に散らばった煙草の吸殻と、申し訳程度に
除けてあるビールやチューハイの空き缶。おそらくはそれらと同じく近隣のコンビニ辺りで仕入れたのであろう、
惣菜のパックや菓子類の袋、ビニール袋。雨に溶けかけた漫画雑誌には、18歳未満はお断りされそうな内容のものも
混じっているし、床に積もった埃の下には、いきさつを考えたくないような赤黒いもの、血の跡のようなものまで視ることが
出来る。
明らかに複数の人間、それも公序良俗という言葉をあまり気にしないタイプの人間達が利用していたという痕跡であろう。
何に利用していたのか、その理由もあまり考えたくはない。昨日のチャットに参加してくれた、おそらくはこの近隣に
住んでいて加嶋 霧子と同学年の弟がいるというお姉さんの発言は、どうやら的を射ていたということだろう。
「この様子じゃ、苛め殺されたホームレスやらレイプされた女の子の話もあながち嘘八百という訳じゃないのかも知れないな」
疲れたような声で邑上がぼやく。もっとも、煙草の吸殻に関してだけはこいつも無関係とは言えないが。昨日の晩、
邑上が吸っていた煙草を入り口付近にポイ捨てしていたことを俺は思い出した。
その後、小一時間程かけてホールの詳細を邑上と俺で見比べてみたが、これといった大きな相違は見当たらなかった。
「汚れてはいるが、どうにも最近まで使われていたという感じではないな」
というのが邑上の言である。こいつの見立てでは、このホールに多数の人間が屯していたのは、どうやら最近のことでは
ないらしい。無造作に床に捨てられていたレシートの日付や惣菜のパックに記された賞味期限からの推理らしいが。
では、誰かがこの幽霊マンションを一番最近訪れたのは何時頃かと俺が問えば、
「昨日だよ。いや、今日だな」
という、やはり言っても言わなくても良いような回答が返ってきた。要するに分からないということだろう。確かに、
此処を訪れた人間が必ずしも日付のわかる塵を落としていくとは限らないし、少人数、短時間の来訪だったなら
専門家でもない限り正確なことは何も分からないだろう。一方俺の方はといえば、視えているのが所詮記憶なので
あてにならないことに関してはまるで他人のことは言えない。ただ、俺の印象も邑上のものと大差がないことを考えれば、
俺が訪れたあの日の時点で此処が集会場として利用されなくなって久しかったという公算が強い。少なくとも、
加嶋 霧子が此処を訪れた時には既に今のような無残な状況になっていたと考えるべきだろう。
加嶋 霧子の件とホールに屯していただろう人間の間に関係があるのかどうかは微妙といったところか…それにしても、
彼女は何故こんな薄汚れた場所に居たのだろうか。
「いつまでもこんな場所にいても仕様がない。とにかく部屋の方まで廻ってみよう」
ホールは吹き抜けになっているらしく、奥からは新鮮な空気が流れて来ていた。これだけ汚れが溜まっているにも
関わらずさして空気が臭くないのは、自然と換気が行われていたからだろう。
ホールの奥まで歩を進めると、ふと乾いた冬の日差しに目が眩んだ。やはりこちら側も外と繋がっていたようだ。
外側にはすぐ手前と向こう側に上の階へと続く螺旋階段が配置されており、その間に十を数える程度の扉が規則正しく
配置されている。ここからが居住区なのだろう。エレベーターは見当たらない…まあ設置されていたところで、
この有様ではその仕事に期待は出来ないのだろうが。
「流石に鍵は掛かっているか…」
邑上が一番近くにある扉のノブを躊躇わずに捻って言う。
「鍵が掛かってなかったら入るつもりだったのか?」
「当たり前だろう?彼女がいるとしたら部屋の中だ。ぼんやり廊下を歩いてみたって仕様がないだろう」
そう言われると俺も立つ瀬が無い。俺も邑上を真似て並んだ扉の中央に口を開く郵便受けや横についている物置らしき
シャッターの隙間を覗いてはみるが、部屋の鍵は勿論のこと他にも目ぼしいものは見当たらない。目に付くものは長年
人の手が届かなかったことを証明する積もった埃だけだった。
結局何の発見もないまま、一階の探索は終了してしまった。気付いたことといえば、玄関ホールに比べて廊下の床や壁、
部屋の扉は比較的綺麗だったことくらいだ。勿論日焼けや埃は目立つが、人の手による落書きなどは一切見当たらなかった。
玄関ホールと違い横からの雨風が凌げない廊下で部屋に入ることも出来ないのだから、ホールに屯していた人間達が
此処まで足を踏み入れなかったことも当然と言えば当然だろう。アルミサッシの格子が嵌め込まれた小さな窓には
破損していたものもあるが、どうやら人為的に割られたものではなさそうだった。
空へと伸びる螺旋階段に俺は足をかける。頼りなげな薄い鉄板に塗られた空色のペンキは所々錆びが浮いており、
そのせいでもないだろうが足を乗せる度にぎしぎしと嫌な音を立てた。如何に老朽化しているとはいえ流石に俺一人分の
体重で分解したりはしないと思うが、それが既に誰にも保障されていないことは確かだろう。階段に何がある訳でもなし、
さっさと登ってしまおうと足を速めようとすると、まだ一階に留まっている邑上が黙って俺を見上げていることに気付いた。
「いや、階段も上れるんだな、と思って。傍から見ているとやっぱり見えていないようには見えないな」
俺が危なげなく螺旋階段を踏破したことに感心したのだろうか、邑上にしては歯切れの悪い言葉で返しながら、
俺の後を追って来た。
「…少し羨ましいな」
小声でそんなことを呟いたので、今度は俺の方が驚いて足を止めてしまった。
俺のこの擬似感覚のことを誰よりも理解し、それ故にその危険性も誰よりも知っている筈の邑上。勿論一般的な盲人に
比べれば遥かに恵まれていることは俺も理解しているつもりではあるが、実際に見えている人間に、それも邑上に
羨ましがられる道理はない。
「どういう意味だ?」
「いや、魔術師としては、だよ。多分今のお前は、魔術師としては理想的な存在なんだろうと思って」
俺を追い越してさっそく二階の部屋の手近な扉のノブを捻って確かめながら、邑上がぼそりとそう呟く。
「魔術師の最終目的は世界を支配することだからな。どうやら、お前は完全に世界を支配しているようだ」
全く意味が解らない。そういえば、おそらくはその派生なのだろう興味深い独特の哲学の講釈を受けることはあっても、
邑上から彼の行う魔術についての具体的な内容を聞いたことは今までに一度も無かった。聞いたら教えてくれだろうか。
単調化してきたこの探索にも少し飽きてきたところだし、良い機会かも知れない。暇潰しくらいにはなるだろう。
「お前の言う魔術ってのは何なんだ。魔法は存在していなくても魔術っていうのは在るんだろう?どう違うんだ。
お前はそれを実際に試してみたことがあるのか?」
邑上がまだ調べていない扉を調べながら、なるべくそっけなく聞こえるように俺は問うてみた。
「別に。虹の上を歩くのが魔法なら、虹の上を歩けるとする方法が魔術だよ。実際に歩けた人間が存在したのかは知らないが、
そういうことが出来るとされている方法が伝えられているのは確かだ。
もっとも、俺がしているのはそういう胡散臭い、もとい、実践的な魔術の類ではないけどな」
胡散臭い自称魔術師をして、虹の上を歩くというのは胡散臭いことらしい。
しかし、それでは邑上の言う魔術とは何だろう。
「ううん、何と言えば良いのか。お前の知っている単語で一番近いものなら、瞑想って言葉になると思う」
「瞑想?あの座禅を組んで寝た振りをする奴か?」
「おそらくそれは違う。
…自分の内面を視る為の方法とでもいうのか。東洋の禅なんかとは姿勢も違うし、色々な小物やら呪文やら、
それらを必要とすることの理解やその為の知識があっての儀式なんだけれど、そういうものはイメージを明確化する為の
おまけみたいなものだから。根本的なものは瞑想だよ」
俺の軽口にもしっかり訂正を入れてから説明をしてくれる。その間にも、邑上の手は新しい扉のノブを捻り、
目は郵便受けやシャッターの隙間を覗くことにも余念がない。
「良く解らないが、それで虹の上を歩く方法に繋がるのか?いくら瞑想しても、そんなものには繋がらないだろう」
俺には理解出来なかった。そもそも、邑上が本当に虹の上を歩く方法を探すような夢見がちな男とは到底思えない。
現に、魔法については存在を否定していたようだったではないか。
「それが繋がるのさ。もっとも、お前の思う通り俺は虹の上を歩きたいなんてことは思わないし、出来るという話があっても
眉唾だと思うけどな。
そうだなあ、お前、世界と宇宙の違いは解るか?」
邑上がまた突飛なことを言いだしたが、こいつのことだからきっと何か関係があるのだろう。世界と宇宙、俺は少し
考えてみることにした。
宇宙と言えば、一般的にはこの空のさらに上に広がる暗黒の真空空間を指す言葉だろう。しかし、同時に宇宙とは
其処に在る全てを含む言葉であるように思える。つまり、此処も宇宙なのだ。ならばそれは、世界という言葉と
同義ではないのか。いや、そもそも世界とは何だろう。
「世界とは認識世界のことだと俺は思う。一人の人間が生まれ、死ぬまでに触れ知ることが出来る全て、それが世界だ。
一方で宇宙とは無限の時空と其処にある事象そのものを言う。一人の人間が生涯全く知らず、存在さえ夢にも
思いつかないような正体不明を含んだフィールドそのものだ。世界は宇宙の中に在るということだな」
邑上が語りだす。
「全てそのものである宇宙の中に、人間が知るべき情報を集めた世界が在る、ということか」
俺なりの解釈に、しかし邑上はそれが違うんだと言いながらポケットをまさぐり、煙草を取り出し火を燈した。
長話になるのだろう。
「そうだな…お前の世界観を一枚の画用紙で描くなら、紙面上にある一点の染みがお前で画用紙が世界、
画用紙には描けない外側の実世界が宇宙といったところだろう?」
自分を染みと表現したくはないが、概ねその通りだったので俺は頷いた。
「そうだろう。じゃあ例えば、俺は何処にいるんだ?」
「お前は勿論画用紙の上の別の染みなんじゃないか。まあ、理解出来ないということでは画用紙からはみ出した場所に
居るのかも知れないけれど」
俺が素直に思っていることを伝えると、俺は染みじゃないよと言い出しっぺの邑上が自分のことを棚に上げて訂正する。
雲一つない完璧な青空に抗議するように、邑上の煙草に燈る炎から流れ出た紫煙が空に昇って、そして散った。
「俺とお前の世界は違うだろうということを言いたいのさ。
例えば姉貴だ。俺にとっては姉貴は姉貴で言うまでもなく俺より年上の女性な訳だけれど、お前にとっては深雪さんで、
せいぜい中学生くらいにしか視えない怪人物なんだろう?」
「それは俺が記憶を視ているからで…」
「事故に遭う前でも同じことさ。再会した時に姉貴が子供に視えたのも、それ以前からお前にとっての深雪さんが
あの頃のままだったからだろう。
勿論、あえて考えようとすれば姉貴があの頃のままの年齢や姿ではあり得ないことは実際に会わなくとも容易に
分かることだが、お前の思考が働いていない無意識下では変化していなかった。だから今のお前には、深雪さんは
子供のままの姿で視えるのさ」
やっぱり姉貴にさん付けなんかするものじゃないな。口が痒くて仕方がないとばかりに邑上は吸い込んだ煙草の煙で口を
漱ぐ(すすぐ)。そのままくわえ煙草のままで扉のノブを捻る作業を再開した。
「二人の人間が見る世界は違うだろうってことさ。アインシュタインの相対性理論じゃないが、二人以上の観測者は
各々の世界を共有出来ない。普段は気付かないだけで、それでも同じだと妄信してしまえば、勘違いという名の摩擦が
二つの世界の間に生じてしまう」
世界は共有出来ない。字面にすれば何とも後ろ向きな言葉だが、邑上が言いたいのは要するに客観と主観の違いの
話なのだと思う。俺がそう言うと、邑上は短くなった煙草を投げ捨てて言葉を続けた。
「さっきの画用紙に描いた世界観で説明すると、今お前が想定しているモデルはこうだ。俺やお前を示す画用紙の上にある
染みを中心にそれぞれの周囲を円で囲う。その円の内側に在るのがお前の言う他者と共有出来ない主観世界で、
外側に在るのが万人に共通の客観世界だ。そうだろう?
円同士は勿論交わることは出来ない。円の外側の客観世界にあるものが本物で、それが円を跨いで主観世界にやって来る、
つまり染みである俺やお前に解釈される段階でそれにはいくばくかの劣化が生じる。円の外側の世界がオリジナルで、
内側の世界はそのコピーに過ぎない。姉貴はお前を中心とする円を跨ぐときに、子供に戻ってしまった訳だ」
正に俺が考えていた通りだったので、俺は黙って頷く。それを横目で眺め、邑上はさらに言葉を続ける。
「それでは円の外側、お前の言う客観世界に在る事象を、哲学から名前をとって原型(イデア)と名付けることにしようか。
完全なる原型である客観世界こそ揺ぎない真実の世界で、主観世界はそのコピーに過ぎない仮想世界ということになるな。
お前のモデルでは、原型は確かに存在するが、それそのものに触れることは誰にも出来ない。人が実際に
触れることが出来るのは、それが円を跨いで彼の仮想世界にやって来た模造品になる訳だ。そうなると、
主観世界に在るものは全て客観世界に存在しなければならないよな。オリジナルが無いのにコピーを撮れる訳はないからな」
何が言いたいのか、邑上が心なしか早口で説明する。客観世界、原型、オリジナル、そして主観世界、仮想世界、コピー。
このモデルは何かおかしいのだろうか。客観世界にないものは、当然主観世界にも存在出来ない。それは当たり前のことの
ように思える。誰かにとってしか認識出来ないものを、その他大勢は幻覚と呼ぶのではないだろうか。
「ところがそうでもないのさ。誰の仮想世界にも必ず存在しているにも関わらず、原型世界にだけは存在していない
概念というものがある。当たり前過ぎて誰も気にも止めないが、それは実際に在るんだ。それが今のお前のモデルを
否定する決定的な要素になる」
誰もが当たり前のようにあると信じていて、実際には存在していない概念があるのだと、彼の魔術師は言う。
今の俺のモデルでは、オリジナルの存在しないコピーであり、その世界そのものの矛盾となる概念。言わば、
誰もが生まれた瞬間から視続けている幻覚。それは一体何だというのだろう。
「それは色さ。色彩だよ。まあ、探せば他にも色々と在るのだろうけれど、さしあたり色がその一つであることは確実だ」
邑上が口にした俺の世界を否定するという特異点とは、彼の言うとおりあまりにも意外なものだった。色。色彩。
視えるもの全てに必ず付随する情報。それが本当は存在していないのだと邑上は言う。
「でも、色は実際に存在しているだろう」
「ほう。では色とは何だ?」
「色っていうのは光じゃないか。波長が確か400から700ナノメートルくらいの電磁波を人間の目は感知していて、
波長が長い方が赤、短くなる程青に近づく。光が無い状態は黒で、逆に複数の波長の光が入り混じって区別がつかなくなると
白になる。お前の専門分野じゃないのか」
「そうか。それじゃあ、三原色っていうのは何だ?」
邑上がさらに問う。あまり一般的とは言い難い知識群だが、この程度の科学知識が無いと、まがりなりにもこいつの
友人などはやっていられない。
「光の三原色っていうのは、赤、青、緑の三種類の光だろう。人間の色覚にはそれらを感知する三種類のセンサーだけが
備わっていて、残りの色はそれらの強弱と混合で補っているっていう…」
ここまで自分で口にしてみて、漸く俺は邑上が何を言いたいのかが漠然とではあるが解ってきた。そんな俺の様子を見て
邑上がにやりと笑う。
「そうだ。人間の目は光を三種類に分割し、それを脳が色という概念を与えて管理している。色は人間にとっては
三次元の情報なんだ。ところが、色の大元たる光が持っている情報は波長と振幅だけ。振幅というのは単なる強弱だから、
光が個性として持ちえる情報は波長だけなのだが、これは所詮一次元の情報に過ぎない。それを人間の脳は無理やり
三次元に変換してしまっている訳だ。つまり原型世界に存在している光と、そのコピーである筈の色という概念はまるで
別物だということだ」
そうだ、この話は何処かで聞いたことがある。ある波長の光を人間は色覚に備わったセンサーを使って感知し、
色として認識する。ところが、全く別の波長の光を複数混ぜ合わせることによって、それと同じ色を作り出すことが
出来るらしいのだ。人間にそれを見分けることは出来ない。精度の問題ではなく、人間の構造的に不可能なのだ。
それは本来異なる現象が、円の中の仮想世界、つまり彼の世界では同じ現象になってしまうということを意味する。
原型世界における二つの事象。それが精神という円を跨いで仮想世界に入ると同じ事象になってしまう。
誤認と言ってしまえばそれまでだが、それを避ける方法が存在しないとなれば、これはもはや世界そのものの矛盾である。
漸く俺にも邑上の言わんとしていることが理解出来た。
「とはいえ、えらく解り難い例えだな。もう少し解り易くはならないのか?」
「なるよ。そうだな、電子顕微鏡で撮った写真は必ずモノクロだろう?色が光の波長だということは、当然観察するものの
大きさの制限を受ける。ある一定サイズ以下の世界では、色という概念は存在しないんだ。だからそれより微小な
対象を捉える電子顕微鏡の写真に色など在る筈もないのだが、それでも人間はせめて白黒という色を付けなければ、
それを観察することが出来ない。
ほら、矛盾じゃないか」
成程、今度の例は解り易かった。最初からこっちの例で説明すれば良いものを、全く勿体ぶった男である。
とまれ、一般に同一視されている光と色は実は全く別の事象で、色というものは現実には存在していない。それにも関わらず、
全ての人間は色という概念無しにものを視ることは出来ない。それはつまり、人間の視る世界と本物の世界、いや、
本物の宇宙は全く別物だということ。邑上が言ったことを纏めると、そういうことになるのだろう。
「視覚に限った話ではないと思うけどね。まあ、そういうことだよ」
「俺のモデルが間違っていたってことだけは解ったよ。それじゃあ、お前のモデルはどんなものなんだ?」
一方的に間違いを指摘されるのではアンフェアだ。隙あらばこいつのモデルのあら捜しをしてやるつもりで俺は邑上に言う。
「まず原型世界という名前は消失する。円の外にあるのは宇宙、ないし情報そのものだ。比較する対象がなくなったので、
仮想世界から仮想の文字が消える。
宇宙は世界の外側にあるので、世界である画用紙の中に納まっていてはいけない。そこで描かれた円に沿って画用紙を切り、
淵の部分を捨ててしまう。染みを中心とした円形の画用紙、それが世界で、その外側にある実世界が理解不能な
宇宙ということになる」
俺は頭の中に画用紙を創造し、邑上の言葉に沿ってそれを加工する。程なくして染みを中心とした円形の世界が誕生した。
染みが俺、画用紙が世界。
「なんだ、最初に俺が想定していたモデルと同じじゃないか」
方形か円形かの違いはあれど、それは円を描く前の世界と同じものになる筈だ。
「そうだな。ただ、その世界は飽くまでお前だけの世界で、俺や姉貴が入りこむ余地はない。俺は俺で、別の世界に
住んでいるんだ。そして異なる二つの世界は正体不明の宇宙を通していくばくかの情報交換を行うことが出来るだけ。
しかもそれが正しいかどうかを確かめる術はない。いや、確かめるというが発想すらない。その世界にあるものは常に
その世界にとっての真実で、他に比較対象など無いのだ」
そして邑上は足を止め、新しく火を燈した煙草で空中に円を描く。闇の中で程の鮮やかさはなくとも、炎の軌跡は刹那、
確かに澄み切った青空を切り取った。紫煙がその中に世界という名の幻想を形作る。
「世界とは意識の内側にあって、五感と記憶によって構成されるもの。間違っても人間の外側に広がるものではない。
そしてその円の淵、世界と宇宙の境界こそが意識、つまり自我だ。我思う故に我ありって、自我というものは自分自身に
対してしか存在を証明出来ない概念だからな。境界というものも正に同じく、これも在って無きがごとき概念だ。
しっくりくる例えだろう?」
半分程の長さになった煙草を口から離して、邑上が言う。残りを吸おうか捨てようか迷い、結局もう一口吸うことにしたようだ。
彼がいみじくもさらにもう一服している隙に、俺はそもそもの疑問をはぐらかされないように次の言葉を繋ぐ。
「常人が考え付かず、生涯において考える必要もないような世界の謎については良く解った。でもやっぱり、
それは虹の上を歩くことには全く繋がらないと思うんだがな。それと、俺が世界を支配しているとかどうとか、
その辺りについてもさっぱりだ。此処まで話したんだから、最後まで話せよな」
答える気がないのか、フィルターだけになった煙草を漸く捨てて邑上が無言で廊下を歩き出した。俺は慌ててそれを追う。
「おい、邑上」
「ここまで言って解らないとは、本当にものわかりの悪い奴だな。お前の執着するその虹とやらは何処にあるんだ?」
邑上が手近な扉のノブを捻る。流石に飽きたのか、それ以上の探索はしない。廊下を歩きながら目にする扉ノブを次々と
捻っていく。俺と邑上でいくつ確認しただろうか、未だ鍵のかかっていない扉は見つからない。
「何処って…」
「世界だろう?宇宙ではなく。虹こそ正しく、宇宙には存在しない色によって編み込み上げられた幻想だからな。
虹の上を歩けるっていうのは、現実を上回るクオリティで自分が虹の上を歩くことをイメージ出来るっていうことだ。
他の人間から視て実際に歩いているかどうかなんて関係ない。瞑想でも、それこそ夢でも良い、本人がそれだけの
イマジネーションを喚起出来るかどうかっていうだけさ」
邑上が振り返らずに説明する。その手は相変わらず次の扉のノブを探し求め続けている。自分がすっかり聞くだけに
なっていたことに気付き、俺は慌てて邑上を追い越し別の扉を確認する。
「魔術なんてそんなものさ。魔術の基本は幻視だ。見えないものを視るのではなく、視ようとしているものを見出すのさ。
例えば俺の目には今、埃の積もった廊下、色あせた扉、錆びた空色の手すりなんかが映っている。それらは外の世界、
つまり宇宙にある構造物ではなく、それを受けて俺の脳が作り出した幻像で、つまり俺の精神の産物だ。だから俺には、
この廊下で考え、あの扉で笑い、その手すりで記憶することが出来る筈。それらを思い通りの輪郭にしてしまうことすら
出来る筈なんだ。何と言っても、俺の視ているものは俺の世界なんだからな。
でも、今の俺にはそれは出来ない。虹を作り出すことも、その上を歩くことも勿論出来ない。それは俺が俺の世界を完全には
支配出来ていないからだ。その点、お前は違うだろう?」
「俺だって、そんなことは出来ないぜ?」
「そんな筈はない。お前の擬似視覚は記憶を視るだけでなく、それを基に再構成することが出来ている筈だ。お前は
自分の手でメモを取ると、見える筈のない自分の文字が視えるだろう?実際に其処に文字が書かれているかどうかに関係なく、
お前は見たいと思ったものを視ることが出来ている訳だ。
それは究極の幻視、完璧なイメージ、理想的な魔術と言って良いと思う。だから俺は、羨ましいと言ったのさ」
虹の上を歩く方法。存在しない色彩と存在している筈の光。画用紙に描かれた世界と其処からはみ出した宇宙と、
そして邑上の魔術と俺の記憶。随分と長い思索の海を泳ぎきって、漸く邑上がこぼした言葉の真意に辿り着いた。
世界。意識の中にこそ存在し、決して他人と共有することは出来ない自分だけの世界。他者の世界は、無限の宇宙の中に
没してしまう。確かに存在するのは、俺が視ているこの世界だけ。それが、例え独りよがりな過去の記憶に
過ぎないのだとしても。
この朽ちた古代の城のような廃マンションを俺と共に歩む魔術師は、其処に存在しているものは全て真実だと言った。
其処には虚偽が存在出来ないのだから、疑うことすら馬鹿馬鹿しい。それならば…俺は目を閉じる。瞼の裏で、
この魔城に囚われた姫のごとき少女が微笑む。ならば彼女もまた、俺の世界の存在なのだろうか。宇宙という情報の中に
存在する、加嶋 霧子という名の少女。瞼の裏の少女は彼女ではなく、俺だけに視ることが許された幻想なのだろうか。
これ程に渇望する彼女との再会を、俺は既に果たしているということなのだろうか。
いくら問いかけても、彼の少女は肯定も否定もしてはくれない。首を傾げながら、ただ不思議そうに微笑むだけ。
ふと、今も俺と同じように彼女に想いを馳せているだろう女教師のことを思い出した。俺の世界に住む少女と、
赤井 雪江の世界の加嶋 霧子、霧子自身にとっての自分。きっとそれらは全て別の人物なのだろう。俺が探している少女と、
彼女が探している女生徒は、同一人物でありながらも全くの別人なのだ。ならば、赤井 雪江にとっての彼女は
どんな人物なのだろうか。執拗に干渉し、居なくなれば必死でその足取りを追う、赤井 雪江の世界では彼女はどのように
存在していたのだろうか。そして、加嶋 霧子の世界では赤井 雪江はどういう役割を果たしていたのだろうか。
いずれにしろ、俺達の誰もが世界で独りぼっちだ。
「俺を羨ましいと言ったな」
何となく人恋しさを感じて、俺は俺の世界に確かに存在している、魔術師を自称する悪友に問いかける。
「魔術を志すものとしてはね」
「じゃあ、友人としては?」
「ざまあみろ、って思うね」
未知なる宇宙に存在する邑上は、にやりと笑ってそう返す。
「それは酷いな。それが仮にも人生に関わる大怪我を負った友人に言う言葉か。他の良識ある人間が聞いたら
顰蹙(ひんしゅく)ものだぜ」
「お前にだからそう言ったのさ。第一、お前は全然困っていないようじゃないか。階段で転ぶようなことがあれば、
俺だって同情くらいはしてやるよ」
気が付けば目の前には螺旋階段。どうやら話しているうちに二階の探索は終わってしまったらしい。外から視た限りでは、
この廃マンションは四階建てだった。随分時間を潰したつもりだったが、探索すべき場所はまだ半分も残っているのだ。
前途の多難を思い、俺は苦笑しながら目の前の階段に足をかける。
「転ぶなよ」
「転んだら手を貸してくれるんだろう?」
「そこまでは言ってない。同情してやるだけだ」
幸い邑上の同情を得ることはなく、俺は無事三階に辿り着く。先程よりも空が近い。
手近な扉を調べようとした時、二階には無かったものに目が止まって俺は足を止めた。
「どうした?狭い廊下なんだからさっさと…」
後を追って上って来た邑上も、俺と同様に足を止める。今度は邑上のその行動にも疑問を挟む余地はない。俺と同じように、
驚いて唖然としているのだろう。俺が今視ているものはどうやら邑上にも見えているらしく、それは明らかに異様だったからだ。
一直線に伸びる狭い廊下、その合間に等間隔で並ぶ扉、その半ばにある扉の一つ。
長年の日差しにくすみつつも人間の手による穢れからは逃れ得た他の扉とは異なり、ただその扉だけが異彩を放っていた。
しかし、その穢れに込められている想いは嘲りや嘲笑ではなく…恐怖。
扉一面、いや、それだけでは中にある恐怖を閉じ込めておくことが出来なかったのか、扉と壁の隙間を挟んでまで
貼りつくされた、札、札、札…!
開かずの部屋。
幽霊マンションに語られる数々の妖しい噂の一つが、今俺達の目の前に確かな重さを持った現実として姿を現していた。
呆然とした邑上が夢遊病のようにだどたどしく煙草を取り出して火を燈す。
間違って逆にくわえられて火を燈された煙草のフィルターが、あっという間に燃え尽きた。
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